怪事捜話
第十六談・双月のメッセンジャー②

 一夜明けた月曜日の昼下がり、北中グラウンド。
 烏貝乙瓜を含む二年一組のメンバーは、その日の時間割最後の科目である体育の授業の只中にあった。
 天気は晴れ、とはいえ十二月の肌寒い空気ばかりは陽光の暖かさだけで補えるものではなく、皆――特に女子勢は上下長袖のジャージを着込みながらもどこかやる気ない表情で時折腕や足を擦っているのだった。
「はーあー。もうマラソン大会終わったんだから外走らなくて良くない? 体育館でバレーとかバドミントンとか、そういうのやるべきじゃない?」
 トラックを何週かし終えた杏虎はそうぼやきながら、既にへとへとの様子で座り込んでいる乙瓜を見る。そこから疲労を逃がそうとするかのように大口を開いたままの乙瓜は、投げかけられた杏虎のぼやきにコクコクと頷くと「もうやだー」と無気力な言葉を宙に放った。その胸中にはどちらかといったら負の感情がぐるぐると渦を巻いている。
 その原因には今現在疲れている事は勿論、乙瓜が元々体育の授業があまり好きではない事も当然含まれているのだが、今回ばかりはもう少しだけのプラスアルファがある。
 なんでも学期末の授業時間調整の結果、今学期の二年一組の体育の授業は今日が最後になるらしく、授業内容の切り替え時としては中途半端、しかし丸々自由時間にしてしまうのもどうかということで、一人当たりトラック三周のノルマの後自由時間、という事になったのだった。
 北中のグラウンドのトラックは一周二百メートル、三周六百メートルなんて距離は、ある程度体力のある者にとっては大したことのない距離だが(しかもその後全て自由時間ともなれば余計に大したことない距離だ。ご褒美にすら感じる者もいるだろう)、運動音痴にとってはこの短すぎず長すぎない距離が存外苦しい。開放の先に自由時間があるという事すらかすむほどに。
 故に、残り時間すべてを休憩に充てるつもりで全力で走った乙瓜はすっかりバテてしまい、こうして己の体力のなさとまるごと全部を自由時間にしてくれなかった体育教師を恨んでいるのだった。だが一方で最初に愚痴を吐いた杏虎はというと、「適当に走ればいいやー」くらいの気持ちでタラタラ走って来たので大して疲れてはいなかったりする。ちなみに今この場にはいない眞虚も、今ようやく残りの百メートルに入ったところだ。……何事もペースというものは大切である。
 ちなみに遊嬉はとっくにノルマを終え、眞虚の横に並走している。体力のあり余っている人を基準にするのもよくない。
 グラウンドにはまだ走っている者もいれば、既に走り終わって乙瓜と同じくへたり込む者、へたり込むほどではないがもう何をする気もないのか座り込んで友人と駄弁っている者、有り余った体力で遊び始める者など、三者三様・十人十色の姿がある。
 杏虎はそんなクラスメートたちの姿を少しの間だけ眺めた後、思い出したように傍らの乙瓜に言う。
「ていうか思ったんだけどさ、去年のマラソン大会の時に火遠の力借りて走れるようになったとか言ってたじゃん? それ使えばもっと楽出来たんじゃないの?」と。
 まるで悪気のないその言葉を受けて、しかし乙瓜は少しむくれたような表情を見せた。
「あれは別に……チートだし。つうか一々あいつに借りるのしゃくだし」
「ふうん。真面目だねー。あたしだったらそんな便利そうなもの、ホイホイ使っちゃいそうなもんだけど――」
 言いながら、杏虎は再びトラックに目を向けた。その視線の先には最後のコーナーを紛ってくる眞虚と遊嬉の姿がある。その姿を見て杏虎は一旦言葉を区切り、「いや」と呟いた後、再び乙瓜に向き直った。
「……今日さ、帰りのHRホームルームの後特に用事ない? 暇?」
「何だ急に……。いや、暇だけど」
「そ。じゃあ帰る前に被服室の前まで来て」
「えっ……? まあ、いいけど」
 戸惑う乙瓜が首を縦に振るのを見て、杏虎は念押しするように「被服室の前だかんね」と言って立ち上がった。
「…………?」
 乙瓜は頭にクエスチョンマークを浮かべたまま、何事も無かったかのようにトラック周回を終えた眞虚・遊嬉を迎える杏虎を見つめる他なかった。
 頭上に広がる青天の空には、北風が運んできた不穏な雲がゆっくりと広がりつつあった――。

 帰りのHRが終わるなり、乙瓜は真っ直ぐに被服室へと向かった。月曜日は職員会議があるので部活が無く、生徒は早々に帰宅させられるわけなのだが、トイレに行くなり何なりと理由を付ければ十分程度は時間が取れる。
 それに杏虎も同じ教室から出るわけだから、特に待たされるということもなく。昇降口へ向かう生徒の群れから上手い具合に逸れた二人は、問題なく被服室前へと辿りついた。
 美術室の真上にある被服室は、週に1回程度しかない家庭科の授業で、しかも時折しか使われない特殊教室だ。上下に位置する美術室や図書室と比べれば立ち寄る生徒は稀で、更に放課後ともなれば当然のように人気ひとけはない。
 そんな寂しい場所で、乙瓜は恐る恐る杏虎に訊ねる。
「それで、こんなとこに呼び出して一体どうしたんだ……?」
 と、彼女の発言が終わるより早く、杏虎は乙瓜に振り返り、真剣な顔でこう告げた。
「乙瓜さ、眞虚ちゃんの事気づいてる?」
「……えっ、眞虚ちゃんの事って……っ?」
「最近変だなと思った事とか、違和感感じた事とか。なんでもいいから。何かない?」
「いや、そんな変とかどうとかって…………ない、けど?」
 前のめりな質問に戸惑いながらも答える乙瓜は、正直何が何だか全く分かっていない。杏虎がつまりは何を言いたいのか、どうして態々自分を呼び出してこんな話をはじめるのか。何もかもがさっぱりだった。
 当の杏虎はそんな乙瓜の心を読み取るようにじっと瞳を覗き込んだ後、どこか落胆の籠った溜息を吐いた。
「えっと、あの、杏虎?」
「……やっぱり、美術部ではあたしの他にはアレ・・を見た奴はいないか……」
「…………?」
 益々首を傾げる乙瓜に、杏虎は追い打ちをかけるかのような勢いで言葉を続けた。
「あのさ乙瓜、これ割と大事な話かもしれないから真面目に聞いて。体育祭の終わりから眞虚ちゃんが盲腸で入院してたっての、多分あれは嘘だと思う。でも仮病とかじゃなくて、だけど決して良くはない事情。……うん。あれから何度もよく視て・・辿って考えてみたけど、多分あそこから。眞虚ちゃんが・・・・・・悪魔に・・・なった・・・のは・・
「は……? ちょっとお前、藪から棒に何言って……ちょっと落ち着け?」
「いや落ち着いてるし。落ち着いてるよ?」
 いよいよわけが分からない様子の乙瓜に、杏虎は少しムッとした様子で腕組みする。しかし数秒の後、少し申し訳なさそうな表情へと変わると、己が知る経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
 眞虚と共に巻き込まれたメリーさんを中心とした怪事の中で見たモノと、アンナが直接襲撃してきたあの日に夢想の悪魔行った事、そしてその後自分なりに考えたりした事を、簡潔に。
 乙瓜は杏虎の口から語られた事実に「信じられない」と言わんばかりの表情を浮かべ、暫く固まった後に溜息でも吐くように「本当なのか?」と漏らした。
 杏虎はそれにコクリと頷き、己の目を指さす。
「あたしのは常にじゃないけれど、その気になれば結構いろんなモノが視える・・・現在いまのほんの数秒未来さきとか、特定の過去を数秒だけとか。やろうと思えば視える。……音は現在のしか聞こえないけれど。それで出した結論だけど、眞虚ちゃんはあの体育祭あたりを境目になんかよくないものになってる。いや、どっちかっていうとなりつつある・・・・・・、なのかもしれない」
「なりつつって……眞虚ちゃんは大丈夫なのかよ?」
「それは分かんない。ただ、あたしが最初にアレを見たあの日から今まで眞虚ちゃんの気配とかオーラ? みたいなものに特に変化はないから、今の所は大丈夫だと思う。ただ悪くなってない代わりに良くなってもいない。次にあの日と同じ事をしようとされたらどうなるかは正直わかんない。……あたしには、それが数秒先でないことが数秒前にわかるだけだしね。どうしようもない」
 最後は諦めたようにそう言って、杏虎はくるりときびすを返し、元来た廊下を歩き出した。
 そのあまりにも自然な動きに乙瓜は一瞬ポカンとし、しかしすぐに我に返り、慌てて杏虎を呼び止める。
「ちょっと待て! 話は分かったけどどうして俺に話した? 割と重要な話だろそれ!? 皆に話さなくていいのか!?」
 そんな乙瓜に顔だけ振り向き、杏虎は言う。「皆には無理」と。当たり前のように。
「一応ね、あの時・・・のどさくさで眞虚ちゃんに『言わないで』って言われたんだよね。だけど一人で他人の秘密事守ってるのってツラいからさ、そこそこ口固そうで、且ついざってときに眞虚ちゃんの事一緒にどうにかしてくれそうな人なら誰でも良かった……っていうと乙瓜にゃ失礼だけどさ。誰かに話したかっただけだよ。そんじゃ」
 存外あっさりとそう言うと、杏虎は廊下と廊下を繋ぐ曲がり角の向こうへと消えて行った。
「いや、『そんじゃ』じゃねーよ……」
 一人取り残された乙瓜はというと、最後にあっさり言った事が存外一番重要だったのではないかと内心思って暫し呆然と立ち尽くし。たっぷり二十秒はしてから「帰るか……」と、漸く歩き出した。
 上履きのゴムがリノリウムの廊下を踏みしめる微かな音が、いよいよ寂しくなりつつある校舎によく響く。――と、丁度その時だった。

「そこの女、しばし待たれよ」

 歩き出した乙瓜が、己の背後にそんな声を聞いたのは。
 それは聞き覚えのない声だった。そしてどこか違和感を覚える声だった。だがその違和感を気にするより早く、乙瓜は己の制服の袖から護符を取り出し、結界を貼りながらその声に向き直った。何故そうしたかなんて聞くまでもない。つい先ほどまで自分と杏虎しか居なかった空間という状況、そして学校妖怪の大半とは知り合いである己の知らない声となると、背後のモノの正体はほぼ確定しているも同然。――敵、である。
「……何モンだ」
 冷徹に呟いて振り返った乙瓜の視線の先には、概ね想像通りの存在が居た。人の形をして、しかし明確に人で無いと分かるモノ。それを目にしたと同時に、乙瓜は声の違和感の正体に気付く。
「成程、そういうわけか」
 忌々し気に舌打ちした乙瓜の前には、奇妙な服装をした二人の少年が立っていた。違和感は彼らがピタリとハモるように喋っていた事から生まれたものだった。
 一人は天に向かうような、もう一人は己の頭を守るような、それぞれ異なる形状の角を持った少年たち。一人の目は固く閉ざされており、もう一人の目は開かれているも虚ろで、いずれも何を考えているのか、その表情からは窺えない。だが、そんな彼らの髪飾りやボタンには、あのアンナも身に付けていた金色の三日月型がキラリと輝いている。
「お前ら【月】の使者だな! ……今度は二人がかりってわけかよ」
 指さし睨み付ける少女と対峙する角を持つ少年たちは、何を考えているか分からない表情のままコクリと頷いた。

「いかにも」
「我らは【月喰の影】、【三日月】関西地区総括部隊長」
十五夜じゅうごや杳月はるつき
「十五夜音月おとつき
「総裁・マガツキ様の命により」
「古霊北中学校学校妖怪、並びに美術部に最後通告を渡すべく推参した」
「我々の要求はただ一つ」

 彼らは交互に、しかしまるで一人で喋っているかの様によどみなく言葉を紡ぐと、最後に息を合わせてこう告げた。

「「古霊北中の霊的権限を譲渡せよ」」

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