「お前が、ヘンゼリーゼ……!」
「この名ばかりは知られているみたいで光栄だわ」
見開いた目に敵意の色を込める乙瓜に、魔女は涼しい微笑を返した。
「貴女が烏貝乙瓜、そして隣の娘が戮飢遊嬉ね。初めまして、そしてありがとう。貴女たちのお陰で、私もここまで入って来られたわ」
「どういう意味だ?」
問い返しながら、乙瓜は己の左の袖口を指で僅かに広げた。
少しだけゆとりのできたその空間には、一枚の術符がくるりと輪を描くように隠されている。
それは取り付けた場所からほぼ無制限に護符を取り出せるもので、去年のマラソン大会の時に密かに使用していた、枚数宣言を必要としたものの改良版だ。
ポケットや大腿のカードホルダーにも常々護符を持ち歩いているが、急を要する時などは袖口を門として護符を召喚するのである。乙瓜にとっては刀の鞘のようなものだとも云える。
自然と取った攻撃態勢。ピリピリとした乙瓜の気配を察知したのか、ヘンゼリーゼは嬉々とした調子で言う。
「あぁら、駄目よ。今は私の魔法で支配しているとはいえ、ここは正真正銘本物の魔鬼の記憶の世界、心の一部。万が一どこかに傷をつけたりしたら、現実世界の魔鬼はもう二度と起き上がる事ができなくなるわ」
相手を苛つかせる調子でそう言うと、魔女は「勿論、後ろの貴女も」と指を向ける。
その先に居た遊嬉は小さく舌打ちし、"抜刀"の形で構えた腕から力を抜いた。
どうやら彼女もまたここでヘンゼリーゼとやり合う気でいたらしい。
ただし遊嬉は"剣"を置く代わりにヘンゼリーゼをキッと睨み、迷いのない様子で一歩前へ踏み出した。
「……この世界を魔法で支配してるって言ったね? あんたの、今日この場での目的は何だ。あの悪魔を遣わして、何のためにあたしたちだけを呼んだ? ……返答によっては斬る」
「魔鬼の心が傷ついても?」
「崩魔刀は退魔宝具だ。……それにあんたの言ってることは全くの出鱈目でもないだろうが、ハッタリである可能性も捨てきれない」
「怖い娘ね。うふふ」
ヘンゼリーゼはクスリと笑うも、遊嬉にはまるで動じる様子はない。
寧ろ傍に立つ乙瓜の方が二者の遣り取りを前にドキリとしたくらいだ。
「なあ遊嬉、そんな事言って大丈夫なのか?」
小声でそう問う乙瓜をチラリと見、遊嬉はほんの少しだけ口角を上げ「大丈夫」と呟き返した。
……何を以て「大丈夫」とするのか。その頬に静かな汗が伝っているのを、乙瓜は見逃していなかった。
そして乙瓜は理解した。
大抵の敵には臆することない遊嬉がそうなってしまう程に、目の前の魔女はヤバイ。
単純の力の強さ弱さの問題ではなく、一瞬たりとも心の隙を見せればその瞬間に喰われる。
そう思わせる程の異様な存在感が、彼女にはあったのだ。
魔女はずっと続けていた小さな笑いを潜め、不敵な角度を描いた口で語り出した。
「私の目的なんて単純な事よ。幾ら助けると云うお題目の為とはいえ、現在生きている人間の重大な過去の全てを第三者が覗き見するのは、深刻なプライバシーの侵害だわ。だから私は貴女たちがこの欠片を見つけるのと同時に潜り込み、全てを見る前にこの世界の時間を止めた。それだけのことよ。他意はない」
「他意? ……どうだか。それは魔鬼の過去にあんたが関係してるからで、この先に何かあたしらに見られたら都合の悪い事をしたからと違うのかい?」
「んー、ふふふ。そうねぇ、しらばっくれても仕方ないから、半分正解ってことにしといてあげるわ。でも当たっているのは私が関係しているという事だけ。第三者に見られて困るような疚しい事なんて、魔鬼のこの過去には一つたりとも存在しないわ」
遊嬉の睨みに悪びれた様子もなく返したヘンゼリーゼは、記憶の世界で動きを止めたままの幼い日の魔鬼に手を遣り、慈しむようにその頭を撫でた。
まるで己の所有物だとでも主張するように。
「てめえ……ッ」
乙瓜は思わず声を上げた。当然だ。
例え過ぎ去った昔日の幻影だとしても、殆ど相棒同然の友人が得体の知れない女に好き勝手弄ばれている光景は見るに堪えないものがあった。
そんな乙瓜の思いなど知らず、静止したままの魔鬼はものものしい本を手に目を輝かせ続けている。
これから何が起こるのかなんて露知らず、素直な喜びと興奮に胸をときめかせながら。
ヘンゼリーゼはそうした純真な少女の頭を撫でながら語る。
「嘗て私は、その正体を隠したままにこの魔導書を魔鬼に託した。魔導書は私の持つ魔力及び魔法の予備保存媒体にして強制書込装置。これを開いた人間がその魔力に耐えうる保存容量を持っていた場合のみ、本の中に記された魔法を理解する事が出来る。――魔鬼は、私の魔力と魔法を受け入れる事の出来たこの世で唯一の人間。故に、あんなわけのわからないモノに易々と壊されるわけにはいかなかった。それがエーンリッヒを遣わし、貴女たちを呼んだ理由」
「はーん。そんなに大事なのに、あんた一人で助ける気はなかったってか」
「私一人で? それは無理な話だわ」
遊嬉の辛辣な言葉をものともせず、ヘンゼリーゼはにこやかに言う。
「心あるものを救えるのは、結局は心あるものだけなのよ。誰かを救いたいと願う強い想い、感情。魔女たるこの私にはそれが無い。不死の肉体となった時に、全て悪魔どもにくれてやった」
さも愉快げに目を細め、魔女は漸く魔鬼の頭から手を離した。
それから遊嬉と乙瓜に向かって一歩二歩と進み、「理解したかしら」と首を傾げる。……貼り付けたような笑顔のままで。
否、感情の類を全て悪魔に渡したという彼女には、最早淡々と自己利益を追求する思想しか残っていない。
故にこの笑顔は既に笑顔であって笑顔でなく、他者を威圧する為の仮面に過ぎないのだ。
その事を理屈ではなく本能で感じ取った乙瓜と遊嬉は静かに身震いし、そして思った。
――このままこの女と関わり続けるのは危険だ、と。一刻も早く魔鬼の欠片を捕まえて、現実世界に帰投しなくてはならないと。
互いに言葉を交わす事はなくとも、この瞬間二人の思いは一つだった。
「……仮にお前の語った事が全て正しいとして、ならば何故記憶再生の進行を妨害した。疚しい事がないなら態々止める必要も、こうして俺たちに介入する必要すら無かった筈だぞ」
そう乙瓜が問うと、魔女は仮面の笑顔を一瞬だけ曇らせ、それから何故か「うふふ」と吹き出した。
その妙な反応に、乙瓜も遊嬉も視線を送り合って不安と警戒の意を交換する。
そんな彼女たちの前で、再び笑顔を取り戻したヘンゼリーゼは言った。
「そうね。確かにそうかもしれない。けれども敢えて理由づけするならば、私は貴女たちと、特に強く【灯火】の息の掛かった貴女たち二人とこうして話してみたかった。それじゃあ駄目かしら?」
「【灯火】と?」
訝る遊嬉に「ええ」と頷き、ヘンゼリーゼは続ける。
「特に貴女は大分秘密を教えられているみたいだから――私の事も初手から警戒していたでしょう? でも駄目よ、聞き伝いの情報だけで事実を知った気になっては。事、あの無粋な【月喰の影】絡みでは、私ほど【灯火】に協力的な魔女も居ないのに」
「協力的、ね……。その言葉の裏じゃあ何を考えているんだか。そうやって、"クインエルゼ"の事も葬ったんでしょ?」
「……遊嬉?」
唐突に出現した"クインエルゼ"という言葉に不可解な引っ掛かりを覚え、乙瓜は動揺の瞳で遊嬉を見た。
視線の先の遊嬉の表情はというと、少し前の不安げな色は一掃され、まるで仇敵と相対したかのような冷たい怒りを宿したものに変わっている。
……この世界に来る前、あの悪魔と話す中。彼女は確かにヘンゼリーゼを知らない様子だったのに。
そんな彼女の顔つきを見てヘンゼリーゼは「ああ」と漏らし、その白い顔に赤い半月を浮かせた。
「貴女、なにも知らないふりしたくせにそんな事まで聞いているのね。……でも勘違いしないでくれるかしら。私はエルゼには何もしていない。あの女は――気が付いたら消えていたのよ。この世界から。だから、友人の私が空いたその座と残された娘を預かっていたとしても、特に不自然な事は無いでしょう?」
両の手指を組み合わせ、魔女は陰りのない、しかし何の感情も籠らない笑顔を遊嬉に向けた。
一方、遊嬉は眉一つ動かさないままで「もういい」と吐き捨て、右腕を前に伸ばした。
「もういい。あんたからは具体的な答えは返ってこないって事がよくわかった。だから早い所あたしたちの前から失せてくれない? あたしたちは、そこの魔鬼を連れて帰る」
止まったままの魔鬼を指さす遊嬉に、しかしヘンゼリーゼはすんなりと、「ええそうね」と頷いた。
それから一歩二歩と後方に下がり、「この娘をちゃんと帰してあげてね?」と小首を傾げた。
刹那、どこからともなく青い薔薇の花弁が舞う。
それが七瓜や三咲も使用していた転移魔法であるといち早く気づいた乙瓜は、花弁の暴風の向こうに消えていく黒い影に向けて声を張り上げる。
「ッ、待て! お前は結局魔鬼や七瓜を――」
どうするつもりだったんだ。何をしようと企んでいるんだ。
そうした問いを乙瓜の口が紡ぎ出すより早く、花弁の向こうからは魔女の嗤い声だけが高らかに響く。
「時間切れよ、影の妹。貴女とはまた会う事になるでしょうね。その時を楽しみに待っているわ」
暴風は勢いを増し、乙瓜と遊嬉の視界を一時完全に塞ぐ。
やがてその奔流が消え去った後、黒い魔女はその場から完全に姿を消していた。
気が付けば記憶の世界の雲は動き出し、小川はせせらぎ、杉木立からは蜩の声が蘇る。
魔導書を持った少女は突として消え失せた"お姉さん"の姿を探し求め、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見る。
「お姉さん……?」
不安な声で呼びかける彼女の手を、誰かの手がそっと掴んだ。
驚き顔を上げる少女が見たのは、姉たちが通っている中学の制服を着た、見知らぬ女生徒の姿だった。
――いや、少女は知っていた。その見知らぬ顔を、左右で少しだけ色の違う瞳を、肩までの髪を、少し不器用に切られた前髪を知っていた。
知らない筈なのに、違う。既に知っている。
そして彼女は気づいた。ここが既に終わった過去である事を。
(そっか、夢だったんだ)
魔鬼、と呼ぶ声にコクリと頷く。
瞬間、手にしたままの魔導書から紫の光が爆ぜ、辺り一面の景色を埋め尽くしていった――。
――この魔導書開きし者よ。魔女ヘンゼリーゼの名のもとに、その力と法とをいざ授けん。
魔鬼の頭に何処からともなく響き渡る何者かの言葉。幼き日の衝撃と感動。
それを漸く思い出せたという感慨の中で、魔鬼の意識は一旦途絶する。今まさに蘇りつつある、夢想の光に包まれながら。
「思い出した……」
そんな呟きと共に目を覚ました魔鬼は、ゆっくりと起き上がりながら周囲に目を遣り、そこが保健室である事に気づく。
「……なんで保健室……ていうか私、さっきまで月のアンナと戦って、花子さんが、……ん?」
寝ぼけているからか微妙に上手く回らない頭でうんうんと一頻り悩んだ後、彼女はとりあえずと起き上がる事を選択する。カーテンを開け、「もう良くなったの?」と問う養護教諭に話を合わせて保健室を出ると、すぐ目と鼻の先にある窓が目に入る。その向こうに広がる屋外は相変わらずの雨模様だったが、今朝から悩まされていた頭痛はというと、心なしか良くなったような気がして。魔鬼は自然と表情を緩ませたのだった。
と、そんな時だった。
「魔鬼ィ!」
「ほあ!?」
廊下の向かって左手、美術室に通じる角の向こうから現れた人影に思いっきり抱きつかれ、魔鬼は体感2メートル程(実際はあっても30センチ程だろう)右へ飛ばされた。
一瞬何が起こったのかわからず混乱した魔鬼は、しかし自分に抱き着き飛ばした人物の正体に気づいて安堵する。
「……お前、私を改めて保健室送りにするつもりか?」
安心の中にたっぷり呆れを込めてそう言った先で、その人物――普段の彼女らしからぬ泣き笑いの表情を浮かべた烏貝乙瓜は、実に嬉しそうな声音でこう言うのだった。
「違ぇよ、馬鹿」
その日、黒梅魔鬼は思い出した。魔法使いとしての己の始まりを。
そして改めて。自分にはいざという時に頼っていい仲間が居たことを。
廊下の角の向こうには、様子見するように顔を覗かせ、嫌に仲良さげな二人の姿を見てニヤニヤとする美術部同期四人の姿。
遅れて場に現れた花子さんと闇子さん、そしてたろさんの姿が、魔鬼を更に安心させた。
そして彼女は決意する。あの日、体育祭の日に七瓜に伝えられた事を。いままで秘密にしてしまっていた事を。
今更の事かも知れないが、改めて皆に伝えようと――。
……秘密を抱えているのは何も自分だけではないのだと、知らないままに。
烏貝乙瓜には誰にも話していない秘密がある。
戮飢遊嬉には誰にも話していない秘密がある。
小鳥眞虚には誰にも話していない秘密がある。
白薙杏虎には誰にも話していない秘密がある。
皆がそれぞれの秘密を胸に渦巻かせる中、何の力も持たない歩深世は只々口を閉ざす。
彼方では、一度遠ざけた月の使者が再び北中を狙っている。また彼方では、完全な味方とも言い切れない薔薇がほくそ笑む。
そんな不穏の雲の下で灯火の炎は黙々と燃え盛り、今宵も見えない月を睨んだ。
(第十五談・新解心海リメンバー・完)