怪事捜話
第十五談・新解心海リメンバー③

 魔鬼を貫いた【月】のダーツ。
 妖怪の中の意思と記憶――心を粉砕し、怪談として語られるままに暴れ狂う存在へと変えるその針は、黒梅魔鬼という人間の心だけを無慈悲なまでに破壊した。
 砕ける、崩れる、損壊する。彼女という人間を構成する内面が、決定的に壊れていく。

 ――暗転。



 時計の針が一時間目終了後の十分休みの折り返しを指す頃、乙瓜・遊嬉・眞虚・杏虎・深世の美術部五人の姿は保健室にあった。
 彼女らが囲うベッドの上には、魔鬼が横たわっている。
 一見して大きな外傷もなく、ただ眠っているようにしか見えない彼女ではしかし、医学には発見する事の出来ない部分に大きな傷を負っていた。

 あの時――校内に展開された異質な妖界に気付き、その領域に介入した花子さんは、今朝ほど巫山戯ふざけた手紙を寄越した張本人であるアンナ・マリーと、彼女に甚振いたぶられる魔鬼の姿を目撃する。
 花子さんは咄嗟に魔鬼の名を叫び、彼女を援護しようとしたが、アンナはそんな花子さんに向けて何か小さなものを投げ放つ。
 それがエリーザをおかしくしたダーツであると花子さんが認識したのは、放たれてから一瞬後。
 たかが一瞬、されど一瞬。剛速で飛ぶダーツに対し、花子さんは回避も防御も間に合いそうにない。
 しまった、と。まさにそう思った瞬間だった。
 魔鬼がダーツの射線上に割って入り、花子さんに代わって直撃を受けたのは。

「――それから神楽月の方は、私とヤミちゃんとでどうにかこうにか四次元空間に落として強制退去させたけれど……」

 五人の前で経緯を説明し終えた花子さんは、心底申し訳なさそうに魔鬼を見た。
 魔鬼の寝姿は綺麗なもので――否、寧ろ綺麗すぎて不気味なくらいだった。
『心が砕かれた』という事の影響であるかどうかは定かではないが、まるで精巧に作られた人形か、葬儀を控えた死体がそこに在るかのような――。

 唯一、よくよく観察すれば辛うじてしていると分かる呼吸だけが、彼女が未だ生きている事を証明していた。
 そんな彼女を見て、花子さんは口惜しそうに言う。

「魔鬼は目覚めないまま。人ならざるモノの人のような心を破壊する攻撃は、純然たる人である魔鬼にどう影響したか分からない。このまま目が覚めるかどうかすらも。……全ては私の責任よ。私が……不用意に介入したせいで……」

 そうして項垂れた花子さんの長い髪に隠れた口から、ギリと歯軋りの音が鳴るのを、集められた五人の内、誰一人として聞き漏らした者は居なかった。
 ベッドを囲うカーテン越しに、壁掛け時計の秒針がカチカチと時を刻み、養護教諭が何かしらの書類にペンを走らせる。
 それらの音がやたらと強く感じられる程の沈黙が、彼女らの間に暫し流れる。
 表向き、魔鬼は「一過性の体調不良」でダウンしたことになっている。
 病院に連れて行ったとして治るものでもないし、敢えてそういう風に認識させた・・・・・・・・・・・
 だが周囲にどう認識させたとしても、魔鬼の状況が良くなるわけでもない。それこそ花子さんの言う通り、このまま目が覚めるかどうかすら定かではない。

 ――ならばどうする。その答え自体は、報せを受けた時点から全員の胸の内に浮かんでいた。
 あの日……今日と同じく北中に現れたアンナによってエリーザが狂わされたあの日。
 思わぬところから救いの手を差し伸べた紅い魔女と、全ての存在の心の奥――夢想の世界を司る悪魔の力。
 今再び彼女たちの力を借りる事さえ叶えば、この芳しくない状況を切り抜け、魔鬼を元の状態へ戻す事が可能だろう。

 しかし、あの日も気まぐれのように現れた紅い魔女――アルミレーナの所在を誰が知っているというのか。
 ましてや、夢想の悪魔を直接び出す方法なんて誰が知っているというのだろうか。
 ……悪魔の喚び出し方なんて、それこそ今ここで意識を失っている魔法使いぐらいしか知らないだろうに。

(どうするんだよ……クソ)

 心の中で悪態をつきながら、乙瓜は眉間にぐっとしわを寄せた。
 この場に居ない彼女の契約妖怪は、魔鬼の状況を見るなり「自分の伝手でどうにかできないかやってみる」とこの部屋保健室を出て行ってしまったきり戻ってこない。
 そのかたわらの眞虚は、思い詰めた表情で微動だにしない魔鬼を見つめていた。

 彼女には実績・・があったからだ。
 つい先日の土曜日に、今日と同じくアンナによって心を砕かれたメリーさんを救ったという実績が。

 無論、小鳥眞虚は人間である。草萼水祢の契約による力の譲渡を差し引けば、常人と比べて特筆する程秀でたところもない、ごくごく普通の女子中学生。
 それは紛れもない事実であるが、……つい先日になって状況が変わった。
 かつて、彼女が遭遇した白い孔雀クジャクの悪魔。
 危機的状況に於いてそれと遭遇する眞虚は、自らが助かる事と引き換えに、そのはらの内に悪魔の卵を埋め込まれた。
 悪魔の力を秘めた卵は、その無防備な姿で自ら・・良からぬ存在を惹き付け、それらの力を少しずつ吸収して成長していた。
 元々霊的存在の多い古霊町は卵にとって絶好の環境であり、更に大霊道の封印が解け、宿主しゅくしゅである眞虚本人から怪事に関わるようになってからは、その成長は益々加速する事となった。

 そして程よく肥え膨らんだ卵は、遂に宿主という殻・・・・・・を破って孵化を始めた。
 それが先月・体育祭の終了後に起こった救急車沙汰の正体であり、当然虫垂炎などではない。
 故に医療関係者には未知の症状を訴えながら、小鳥眞虚という存在は悪魔の幼生に食い破られて消滅する――筈だった・・・・
 草萼水祢の存在が無ければ。

 ゴールデンウィーク前の結婚式場で、呪いに取り込まれ消滅しつつあった眞虚を救う為、水祢は彼女と契約を交わした。
『この者の存在を「小鳥眞虚」として証明すること』。
 未だ有効であるその契約の結果、食い破られる筈だった眞虚は原型を留める事となる。
 それは眞虚にとって幸運ではあったが、しかし同時に不幸でもあった。

 中々孵る事の出来ない悪魔の幼生は、眞虚の中で暴れに暴れ、最終的に中途半端に背中を突き破って翼を伸ばし、筆舌に尽くしがたい苦痛を彼女に与えた。
 契約の結果として己である事を留めたものの、人間とも悪魔ともつかない存在へと変じてのた打ち回る彼女を見て、水祢はもはや己の力の及ぶところではないと判断し、旧知である神社の狐へと頭を下げたのである。
 どうか力を貸してほしいと。それまで誰かに頭を下げたことなんて、片手で数えるまでもなく殆どゼロ同然であったであろう水祢が、である。
 旧知の狐はそれに応じ、神の眷属としての力を使って悪魔の幼生を再び眞虚の内に封じ込め、眞虚を人の形へと引き戻した。……だが、その内側は――。

「私や私達稲荷の大元の神様も全知全能の神様ではないですので、ここいらが限界です。とはいえ最善は尽くしましたので、眞虚さんがあまり無茶をしない限りはこれまで通りに暮らして行けますでしょう」

 やり遂げた疲労の中に微かな哀れみを匂わせてそう言った狐の顔を、眞虚はしっかりと覚えている。
 ……覚えていながら、『無茶をしない』という約束を自ら破った。
 人を襲うだけの純然たる怪異と化したメリーさんを助ける為、眞虚は己の中に封印された悪魔の力を敢えて開放した。
 その理由は屁理屈だ。夢想の悪魔が心の奥底に干渉できるのならば、同じ悪魔として定義される存在になれば、己もまた他者の心の底に干渉できるようになれるかもしれないという、何の裏付けも無い博打だった。

 実に愚かな試みだったが、眞虚はその賭けに勝った。

 かくして眞虚は、水祢が頭を下げ、神の力の末端を借りて成された人間としての再定義を自ら破壊し、悪魔として、人で無いモノとしてメリーさんを救ったのである。……故に。

(今の私には、多分魔鬼ちゃんを救う事ができる。けれども……)

 眞虚は思い出す。
 メリーさんを救い上げた後、ありったけの封印護符で抑え込めた翼を引きずりながら向かった夜都尾稲荷で待ち構えていた水祢の罵倒を――警告を。

(人助けに易々と使うには重すぎる。――これからも同じようにこの力を利用し続ければ、私は今度こそ人間じゃなくなる。そう、水祢くんは言ってた。次は戻せないとも)

 ――まあ、それでもお前・・が世の為人の為に人間としての死を願うなら、俺は敢えて止める事はしないけど。
 数日経った今でもはっきりと脳裏に浮かぶその言葉と、見下しきったような水祢の眼光を思い出し、眞虚はキュッと唇の内側を噛んだ。

 己が己であることを止めたいと願う程、眞虚は世の中を悲観してはいない。……誰が好き好んで悪魔になどなりたいと望むものか。
 だが、魔鬼はどうなる……?

(夢想の悪魔の協力がまた得られるとも限らないのに、私は私の為に魔鬼ちゃんの事を見捨てていいの……?)

 思い詰めた面持ちで、眞虚はじっと床を睨んだ。
 そんな彼女の様子に気付き、杏虎はムッと眉根を寄せた。

 ともすれば不満を感じているようなその表情の内側にあるものは、先日見た眞虚の力に対する不安だった。
 あの時に見た白い翼と、己の想像の及ばない未知の力。
 当人の口からは何の説明もなく、事後になって「大丈夫」という何の保証もない言葉で片付けられたそれに対し、杏虎は漠然とした不安を抱えていた。

(……絶対に大丈夫じゃない。あれは……見た目こそは天使か何かのそれだったけれど、あの姿を見た時に感じたどうしようもなく嫌な気持ちと雨月張弓の震え……とても善いものとは思えない)

 まさかあの力を使う気じゃないだろうね? そんな心配を胸に、杏虎は己の腕をキュッと握りしめた。

 それぞれの焦燥や不安が漏れ出しそうな沈黙の中で、こんな時に一番大騒ぎしそうな深世は異様に静かだ。
 現実として現れた友人の危機に恐れをなしているのか、それとも無力感に絶句しているのかは定かではない。

 そして遊嬉も何も言わない。
 だが、口を真一文字に結び、微動だにしない魔鬼の姿を真っ直ぐに見つめている姿からは、静かな怒りがにじみ出ているようであった。

 間もなく壁掛け時計は二時間目の始まりを指し、保健室の中にチャイムの音が響き渡る。
 花子さんの認識妨害の術中にある為、カーテンの向こうの養護教諭が残っている元気な生徒に対して退室を促すことはないし、カーテンの内側の遣り取りに耳を傾ける事もない。
 それぞれのクラスでも、彼女らの不在を気に掛ける事もなく次の授業が始まっている事だろう。
 何事も無かったかのように進む日常から切り離された世界で、彼女たちは重々しい沈黙を続けていた。
 やがて15分ほど過ぎた頃だろうか。シャッと軽快な音が沈黙を裂き、日常と非日常を隔てるカーテンが開かれたのは。
 果たして薄く遮られていた蛍光灯の灯りと共に姿を現したのは、いつになく真面目な面持ちの闇子さんだった。
 彼女は助けた魔鬼の様子を前に「エリーザを助けた夢想の悪魔なる存在への呼びかけを試みる」と、火遠とは別に暫くどこかへ行っていたのだった。

「ヤミちゃん……悪魔の件はどうだったの?」
「いや、それがだな……まあここじゃあなんだ、一度あんたらみんな美術室まで来い」

 顔を上げて久方ぶりに口を開いた花子さんにそう言うと、闇子さんはちょいちょいと指を動かして退出を促した。
 その言葉に従い、花子さんと美術部の面々はぞろぞろと保健室を後にした。
 認識妨害の術中にある養護教諭はその間も顔を上げる事なく、来月分の掲示物の作成に勤しんでいる。
 最後尾となった乙瓜は、そんな養護教諭の姿をチラリと振り返り、次いでベッドの上で眠り続ける友人の姿を見て、「必ず助けるからな」と。
 誰にも聞こえないような声で呟いた。

 ガラリと音を立て、引き戸が閉まる。
 その段階になって、養護教諭は思い出したように顔を上げる。
 だが、出入り口には『特に異常はない』。
 ベッドの上には相変わらず、『一時間目の終わりに具合が悪いと薬を飲みに来た生徒が横になって眠っている』。
 彼女を起こさないようにしなくては。そう思い、養護教諭は再びペンを動かし始めた。


 一方、闇子さんに誘われるままに何処の学年にも使われていない美術室にやって来た美術部員たちは、そこで信じられないような光景を目撃していた。
 そこに在ったのは、誰も居ない事をいいことに、作業机の上に堂々と外履きの靴を載せて立つ人物の姿。だが、美術部たちが驚いたのはそこではない。

「向こうの方からやって来たんだよ。協力してやってもいいって」

 困惑気味に闇子さんが視線を送る先で、その人物――夢想の悪魔エーンリッヒは、実に自然なカテーシーをしてみせたのだった。

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