不穏な気配に眞虚と杏虎が振り返ったその瞬間には、事態は既に始まっていた。
一瞬にして街を支配する、夜よりも深く黒い闇。そこに僅かに遅れてやって来た不気味な黄色が、空の色へと成り替わる。
確かにそこに居た筈の人々の姿は綺麗さっぱりと消え失せ、絵画的な警戒色の街に居る人間は、今や美術部の二人だけ。そんな異様な空間の正体を、彼女たちは誰に問うまでも無く知っていた。
「――妖界ッ!」
二人が同時に叫ぶと同時、振り返った先の人ではないものの影はさも愉快そうに言葉を紡ぐ。
「はァん、流石は場数を踏んだ美術部サマ達だ! 空間変質程度じゃあ怖がってすらくれないと」
アンナ・マリー・神楽月。眞虚たちは彼女と直接相対するのは初めてだったが、彼女の口ぶり、そして彼女の周辺に渦巻く異様な気配から、それが敵であることを一瞬で理解した。
そんな彼女の右腕に支えられる形で、ほんの数秒前まで元気だったメリーさんがぐったりと項垂れている。その様子だけで、少なくとも目の前の相手は警戒すべき対象である、と。美術部二人は悟ったのである。
「あなたは……ッ!? メリーさんに何をしたの……!!」
平時温厚な眞虚の眉間に力が籠る。僅か後方に控える杏虎も眼力を鋭くし、この先に予測される衝突に備えて両の手足を軽く構える。
アンナはそんな二人を嘲笑うように見つめ、鼻で笑うと、相変わらず力なく己の腕に寄りかかるメリーさんの髪を弄りながら、馬鹿にするように首を傾げた。
「アタシはアンナ。アンナ・マリー・神楽月。【三日月】のアンナって云えば、君たち的にはピンと来るものがあるんじゃないかな?」
「アンナ……みかづきの……【月喰の影】のッ!」
「そうそう、いいねその反応! 非常にいい反応をありがとう。そうだよ、アタシたちが【月】。そして【灯火】側に居る君たちの敵ってこと」
舐めるように嫌味ったらしくそう言って、アンナは笑いを噛み殺すように肩を揺らした。同時に人間のものとは違う関節がカタカタと鳴り、声の代わりに嗤う。
滅多に対峙する事のない明確な悪意を前にして、眞虚は背筋にヒヤリと冷たいものを感じていた。果たしてそれが本能というものなのだろうか。言葉では上手く説明できない超直感的な部分が眞虚の脳内に警鐘を鳴らしていた。
目の前のそれは尋常な存在ではないと。とても敵うような存在ではないと。
手足を揺らす微かな震えを悟られぬようにと歯を食いしばる眞虚の背後で、フーと獣の唸るような音が立つ。
否、それは獣の唸りなどではなく只の呼吸音だ。身体の中の不純物を吐き出すように、白薙杏虎が吐いた息の音だ。
杏虎はその瞳に青と金色の光を宿らせ、射殺すような視線を一直線にアンナに向けている。
「……そうか、あんたが神楽月。この間はとんだ目に遭わせてくれてありがとう。やっとお礼が出来そうだね?」
恐ろしく抑揚のない声でそう言って、杏虎は再びフーと息を吐いた。
アンナは一瞬キョトンとしたものの、すぐさまにんまりと表情を緩める。
「おー怖いこわい。鵺の奴をぶち殺してくれた時と同じ顔してら。そんなおっかない顔してたら、お礼を受け取ってもらうどころか逃げられちゃうと思わないかい?」
「鵺? あの五月の怪事もあんたが? ……へえ、そう。だったら尚の事お礼がしたくなったよ。心からの」
杏虎がますます眼光を強める中、アンナはやれやれと肩を竦めた。
「いやいや本当にお礼なんて結構だよ。寧ろあれら程度の贈り物でいいのなら、いつでも喜んでお渡しするよ? なんならこれからだって」
と、アンナが言い終わるか終わらないかの刹那、眞虚は気付く。
先程までアンナの右腕にもたれ掛かっていたメリーさんの姿が、いつの間にか消えている事に。
(嘘、そんな……)
眞虚の中に更なる動揺が広がる。おかしいじゃないか、と。
(だって、私が震えている間も、杏虎ちゃんが話している時だって、……一瞬たりともアンナから目を離したりなんかしてないのに……!)
そう、眞虚は内心臆しこそすれ、一瞬一秒たりともアンナから目を離したりなどしていない。今この瞬間だってそうだ。
だというのに。メリーさんは一体いつあの状態から復帰し、アンナから離れ、そして姿を消したというのか……?
そんな疑問が焦燥に変わるか否かの瞬間、眞虚の耳は杏虎の叫びを捉えた。
「眞虚ちゃん避けてッ! 上だッ!」
「えっ……」
唇の隙間から間抜けな呟きを漏らすと同時、誰かが眞虚の右腕を強い力で後方へと引いた。誰か、否。その誰かは確認するまでも無く杏虎であった。
杏虎の両腕が眞虚の右腕を掴み、不意を突かれて抵抗することもできない眞虚の身体は引かれるままに後方へ向かう。
その瞬間、眞虚は見た。確かに見た。目撃した。
コンマ秒前まで己が居た場所に翻る黒いスカート。カールのかかったハニーゴールドのツインテール。モノトーンのロリータ服。――メリーさん。
知り合ったのは今日とはいえ、既に見慣れた姿がそこに在った。……ただ一つ、その瞳が氾濫した川の水のように濁っている事を除けば。
眞虚への急襲に失敗したメリーさんは体勢を崩しながらも真っ黒な地面に着地し、繰り人形のような不自然な動きでゆらりと立ち上がると、感情の無い白い顔を眞虚たちに向けた。
「メリーさん……!」
眞虚が驚きに目を見開くと同時、黄色い空の彼方から嘲笑の声が降ってくる。
「今日はその子が遊んでくれるってよ? それじゃあ、生きてたらまた会おうね。――小鳥眞虚ちゃんに白薙杏虎ちゃん」
ハッとして眞虚が見た先、先程までアンナが居た場所には既に誰もいない。
杏虎は舌打ちと同時に眞虚から手を離して雨月張弓を展開するが、時既に遅し。アンナの気配は妖界の彼方へと消え、光の矢は虚しく空を切る。警戒色の世界には眞虚と杏虎、そしてメリーさんだけが残された。
その間眞虚は腕を引かれたときの勢いのままに足を動かし、様子のおかしいメリーさんとの間に数メートルの距離を置く。アンナへの追撃を不可能と判断した杏虎もまた後方へと飛び退き、更に二、三度舌打ちを重ねながら言う。
「眞虚ちゃんもっと距離取って! この状態、きっとこの間のエリーザと同じだ……! 既にやられた後だったっぽいね……」
「この間って……私が居なかったときの、あの!?」
振り返り、杏虎がコクリと頷くのを見て。眞虚はそれまで感じていた恐怖にではなく、新たに湧き上がった全身の毛が逆立つような感覚に震えた。
それは怒り。身を震わす怒り。
己の不在時に起こった先の事件の一部始終については、眞虚も人伝に知っていた。
【月】の怪しげな研究によって生まれたダーツ。それは妖怪の人格と記憶――心をバラバラに引き裂き打ち壊し、純粋に人間の怖畏の対象であった怪物本来の姿に戻してしまう禁断の兵器。心優しき赤マント娘の心を破壊し、北中を惨劇の現場とさせた悪魔の道具。
(そんなものが目の前に立つメリーさんに打ち込まれたっていうの……!?)
冗談ではない。眞虚はギリリと歯を食いしばった。
現時点での眞虚とメリーさんの関係といえば、ほんの数時間前に出会い、半ば強引にぬいぐるみ捜しを手伝う事になったくらいの浅いものだ。そこに大きな義理もなければ、友情を育んだと言えるほどのエピソードもない。何を好み何を嫌うのかも知らないし、過去なんて当然知らない。怪談としての本性も。要するに、殆ど他人のようなものだ。
だがしかし、何も知らないなりにもただ一つ。眞虚にはわかっている事があった。
(メリーさんは、良い人だった)
脳裏に蘇るのは、あの鍋パーティの中メリーさんが何気なく零した言葉。
――小鳥ちゃんは盲腸の手術したんだ? お鍋とか食べて大丈夫なの?
それは些細な言葉だったが、確かに眞虚を気遣った言葉だった。……それだけで十分だった。
メリーさんは強引で、マイペースで、調子ばっかり良くて、ちょっぴり迷惑な奴かもしれない。けれど、ほんの気まぐれでも、相手の事を思い遣る気持ちを持てる存在だ。
……確かに、怪談としては人を襲うかもしれない。けれども彼女は機械的に人を襲う事しか出来ない存在ではない筈だ。道路でこけもするし、失くしものもする。怪談と言う掴みどころのない存在でありながら、日常の隣で確かに生きている存在だ。
そんなメリーさんの在り方を否定し感情の無い化け物に変えてしまう権利なんて、どこの誰にも無い筈なのだ。
故に眞虚は叫ぶ。心の底から叫ぶ。「メリーさん!」と、彼女の名前を叫ぶ。目覚めさせるように叫ぶ。……それが無駄だと知りながら。
少女の悲痛な叫びを受けて、心を失った怪異は虚ろに笑み。何も映すことの無い瞳を怪しく光らせ、その身体を文字通り霧散させた。
「消えた……いや、姿を消した?」
杏虎がピクリと眉を動かした瞬間、二色の街にジリリリリリと、今や過去の遺物となった黒電話のベル音が鳴り響いた。
四方から、八方から、取り囲むように。辺り一面の空気を揺らしてけたたましく鳴り渡るそれに耐え切れず、二人は思わず耳を塞ぐ。
眞虚が目まで瞑って堪える隣で、杏虎は凄まじい形相で辺りを見渡す。只でさえ耳のいい彼女には殆ど拷問同然の状況だろうに、今耐える事に集中すればどうなるか分からないという危機感が、辛うじてその意識を外部へと向けさせたのである。
怪音波はたっぷり三十秒程続いた後、電池が切れたかのようにピタリと止まる。耳を狂わすような騒音から一転、世界は死んだような静寂に支配される。
……スピーカーを通したようなか細い声が、どこからともなく聞こえてくるまでは。
「もしもし、わたしメリーさん」――と。