怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ⑥

 同じ頃、現実世界の北中では。
「……流石にここまで騒ぎが大きくなると、事件自体を全くなかった事には出来ないですね」
 三階図書室から狭い前庭に冗談みたいに集まった警察車両を見下ろし、一ツ目ミ子は溜息を吐いた。彼女の視界の片隅には、更に数台の救急車。敷地近くの民家には何事かと様子を窺う住人の姿もあり、怪事はすっかり大事件へと発展していた。
「とりあえず犯人は逃走した……という事で辻褄を合わせる為に、一階男子トイレの窓を割っておきましたけど。……その赤マントの処遇についてはどうするおつもりですか。嶽木様」
 言ってミ子が見遣った先には、草萼嶽木と彼女が一階で捕縛したエリーザの姿があった。結界符で体の自由と言葉を封じられたエリーザは、しかし未だ封縛を逃れようと体をうねらせ、芋虫のようにのたうち回っている。
 嶽木はそんなエリーザに容赦なく足を乗せて押さえつ、ミ子を振り返りがてらに壁時計を確認する。
 時刻は午後2時僅かに手前。この事態が始まってから、漸く20分程度の時間が過ぎた所である。
(火遠の報せがあってから、今で丁度5分――遊嬉ちゃん達が上手くやっていれば、後5分以内にエリーザは目覚める・・・・筈……)
 瞬時に考え、嶽木は言った。
「処遇はこの娘が目覚めてから考える。ミ子ちゃんは一先ず丙師匠と出雲の玉織たまおりに事の次第の報告、ついでにこっちの"県付き"に動いてもらえるよう頼んどいて」
「…………。かしこまりました」
 ミ子は軽く頭を下げ、己を包む黒布をバサリと鳴らすとその場から姿を消した。嶽木はふぅと一息吐きつつ、己が足の下でもがき、塞がれまともに喋れぬ口から野犬のような呻きを漏らすエリーザを見つめた。
 平時とすっかり変わり果てたその姿を心底哀れだと感じつつ、エリーザが本来の姿に戻るまで拘束を解くわけにはいかない。やりきれない思いと共に胸にこみ上げる【月】の連中への怒りに、嶽木は奥歯をギリと噛んだ。
(そう、そうだった。これが奴らのやり方なんだ。外道め、芯からの悪党め……!)
 声に出さず吐き捨てながら、嶽木は十年前の出来事を思い出す。
 十年前の、北中大霊道の封印が初めて破られたあの事件――別命あって嶽木が向かう事が出来ず、火遠一人で解決に当たったあの事件の最中。時の【三日月】の使者は一般生徒二名を唆して妖怪の力を与えて駒とし、自らは決して手を下さないという卑怯な手段を取った。
 その結果人間・・と戦うことになってしまった火遠は思うように力が出せず、苦しい戦いを強いられた。過ちを犯せし者は人であろうが罰すると決意しようが相手は少女。元より人と交流のあった火遠は、寸での所で迷ってしまったのだ。
 だが人外の力を与えられし少女たちはそんな事などいざ知らず。その身みなぎる力と衝動に従うままに、幾人もの一般生徒を傷つけた。そんな取り返しのつかない事態になってしまって初めて、火遠は己の甘さを悔い。そしてもはや人間ヒトではなくなってしまった少女二人の討伐を決断したのである。
 そして――最後の少女をその手に掛け、後悔と悲哀に包まれた一瞬の虚を突いて。発動した大霊道封印の術式に投げ入れられた一つの呪に取り込まれ、火遠もまた北中内に封印されてしまった。
 あの時の事を思い出すと、嶽木は今でもはらわたが煮えくり返る気分になるのだ。
やつら】は直接手を下さない。魅玄のようないくらでも取り替えの効く下っ端ならばいざ知らず、幹部連中は基本的に己から動くことは無い。
 人や妖怪を言葉巧みにそそのかし、禁忌を犯させたり手駒としたりするのだ。一年前のアンナも、はじめは直接関係のない人形を操って魅玄を捜していた筈だ。
 ――だが。現在の【月】はもはや惑わす手間すら惜しいか、同朋である筈の妖怪の心を壊す"ダーツ"などという代物を作り上げ、エリーザを純然たる化け物へと変えた。
(あの悍ましい兵器・・が実用化されるまでに、何匹の妖怪が犠牲になった……? 考えただけで胸糞が悪い、反吐が出る……ッ!)
 怒りと悲しみと苦しみと。入り混じる感情に表情を歪ませ、嶽木はチッと舌打ちをした。
 もはや嶽木とエリーザ以外誰も居ない図書室で。嫌に大きく響き渡ったその音は、扉の外の廊下にまでも届いていた。日も当たらず薄暗いそこにはたろさんと闇子さんが、それぞれ反対側の壁に寄り掛かって向かい合う形で立っていた。
 仲間の心配をしつつも現在の姿を見ない方がいいと判断した彼らは、只の人には聞こえぬその呻きを耳に、険しい表情を浮かべていた。
「エリーザ殿は……元に戻るのでござろうか……」
 重々しい口調でたろさんが言う。10分前にエリーザが拘束されてからこの方、既に何度となく漏らした言葉だ。闇子さんは数えるのも飽きた弱音を前に僅かに眉を上げ、しかし怒鳴るのも飽きたか、数十秒前と同じ慰めの言葉を返した。
「大丈夫だって心配すんな。あの美術部と火遠の旦那が動いてどうにもならなかった事があるか? ……ぜってーぜってー何とかなる。あたしを信じろ」
 信じろなどと。そんな言葉を幾度となく口にしておきながら、闇子さんの胸中は不安で焦燥に溢れていた。
 夢想の世界、心の中などという荒唐無稽な未知の領域に踏み込んだ美術部は、本当に大丈夫なのだろうか。エリーザは本当に元に戻るのだろうか。……もしも美術部が帰ること無く、エリーザもまた元に戻らなかったら?
(馬鹿か、何を考えてるんだあたしは……! ぇよ、ぜってー無ぇ。そんな事があってたまるか……!)
 八つ当たりに踵で壁を蹴りながら、闇子さんは祈り続ける他無かった。美術部が無事に戻って来る事を。エリーザを元に戻してくれる事を。何もできない己の無力を噛みしめながら、只ひたすらに祈り続けた――。



 ――私はエリーザ。医師シュトラムの娘。エリーザ・シュトラム。
 ――私はエリーザ。"怪人赤マント"の弟子。赤マント娘。
 ――私はエリーザ。赤い色が好き。…子…さまが好き。…………で、……で……。
 ――私はエリーザ? ……それは私で、でも私じゃない。私は誰。私は、誰。

 道行く貧しい姿の人々の間を縫って、彼女・・は一人歩いていた。
 ふらふらと、ふらふらと。頼りない足取りで道行く彼女を、気に留める者は誰も居ない。振り向きもせず、話しかけもせず。一心不乱に食料を求める人々の群れ。その流れに逆らって、少女は行く。一人行く。
 彼女は何も履いておらず、裸足の底は砂利を踏む。……しかしちっとも痛くはなかった。体全体がボロボロなのに、彼女はこれっぽっちの痛みも感じていなかった。……否、それもその筈。彼女は既にこの世のものではないのだから。
 薄ら汚れながらも生きようとあがく人々の群れを見送りながら、彼女は思う。羨ましいと。
(ヒト。人間。生きてる人。生きてる人は羨ましい。……生き残れるのは羨ましい。私が生き残れなかったこの世界で、この人たちは生きている。羨ましい、羨ましい)
 虚ろな瞳で生者を眺め、少女はふらふらと道を行く。するとやがてその行き先に、比較的・・・身綺麗な少年が現れた。血色も良く、健康そうな少年だった。
(元気そう。楽しそう。お金持ちの子? それとも泥棒の子? どっちでもいいわ……どうでもいい。この人にしよう。決めたの……決めた)
 少年をぼんやりと見つめ、少女はそう思った。雑踏を行く彼に向かい、ゆっくりと手を伸ばす。
 途端、少年の顔色が僅かに悪くなった。血の気の良かった肌は影が差すように青白くなり、両の目から生気が消えてゆく。
 その様を見て、亡霊少女は幽かに笑った。少年は彼女に障られたのだ。
 少女は悪霊。これから先の将来も健やかで幸せに暮らしていけるだろうと、何の疑いも無く信じている者を障る悪霊。生者への理不尽な恨みを見境なくばら撒く怨霊。
 過去の怨恨も先祖の因果も関係なく、彼女にとっては全ての人間が等しく恨みの対象であった。特に若く健康で如何にも未来への希望溢れる雰囲気の若者が憎らしくて堪らず、見かけ次第生気を奪い取っていた。……そう、今し方道行く少年にしたように。
 それが全くの八つ当たりである事くらい、少女にはちゃんとわかっていた。何の意味も無い八つ当たりであると。
 ……だがしかし。理不尽な悪意と暴力によって己の生を絶たれた彼女は、そうすることでしか己の中の深い悲しみと怒りを消化することが出来ないでいたのだった。

 故に。少女は街から街を歩き続け、歩き続け。見知らぬ土地を渡り、渡り。長い年月をかけて人々を呪った。呪い続けた。

 そうしている間に、彼女の死からは既に半世紀以上の時間が経過していた。
 大きな戦いが幾度か起こり、沢山の人々が死んで、死んで。あちこちの街が焼けて、焼けて。それでも彼女は呪い続けた。行く先々で恨み呪い続けていた。……そんなある日の事だった。彼女の前にその男が現れたのは。
 夕暮れ、がれ、逢魔が時。昼と夜との境目、混ざり合う時間帯。恐ろしく人気の失せたその道で、悪霊少女は彼に出逢った。
 身形のいい男だった。どこの華族気取りか、天鵞絨ビロードの光沢を持つ赤いマントを纏い、頭には同じ色のシルクハットと洒落込んでいる。夕陽を背に気高き赤の輪郭を覗かせる彼の瞳は、はっりとエリーザの姿を見据えていた。死してこの方誰にも見られることの無かったエリーザの姿を、だ。
 薄影に包まれた顔で、しかし確かに口角を吊り上げた彼を見て。少女はハッと気が付いた。
 彼には足元の影法師が存在しないのだ。現世の人間ヒトや獣や木々や建物は、皆黒い影を長々と伸ばすのに。その男には、影が無かったのだ。亡霊の自分と同じように。
 彼女がそれに気づくと同時、影無き男はククッと笑った。
亡霊ゴースト、それも悪霊イヴィルゴーストか。よもやこんなお嬢さんの悪霊が長年に渡り猛威を振るい続けて来たとは、哀しきかな、皮肉かな、この世の理不尽ここに極まれりと。……云った所かな?」
 さも愉快そうに告げる低い声は怪しく妖しい音色を含み、その男が紛れもなく人外の存在であることをひしひしと伝えていた。
 そんな男をギロリと睨み、少女は言った。誰、と。長い事誰とも話すことが無かったからか、その声はすっかり嗄れ果てていた。礫石で砂を擦ったようなざらつく声は、まるで死にかけの老婆のそれで。生前の面影の欠片もないその音を前に、誰よりも少女本人が困惑した程だった。
 男は僅かに動揺した様子の少女を見て再び笑い、しかし彼女の掠れた問いに対しこう返答する。怪人、と。
「私は怪人。怪人赤マント――と。ちまたの噂にそう呼ばれている者さ」
「怪……人……?」
「ああ。そうだよ幽霊のお嬢さんゴースト・レディ。あなたが人の想いが生前の形を模してこの世を彷徨うモノならば、人の噂が尾鰭おひれと手足を付けて歩き出した存在、それが私だ。まあ、同じ人でなし同士仲よくしようではないか」
 言って、彼は少女に手を差し出した。どうやら敵意は微塵もないらしかった。赤マントの下から覗く服もやはり赤色で、怪人とは読んで字のごとくあやしい人なのだと少女は思った。

 ――それが悪霊少女と怪人との出会いだった。

 以来怪人は少女の行く先々に姿を現すようになった。少女が誰かを呪い障ろうとする度、怪人はどこからともなく姿を現し。まるで関係のない世間話をしては去っていくようになったのである。
 少女はそんな怪人に苛立つものの、しつこく付きまとわれる内に人を呪う気は次第に減って行き。気が付けば、少女はいつしか只目的も無く彷徨い続ける無害な霊と化していた。
 他に変わったところといえば、当所ない放浪に一人の奇怪な同行人が増えたという事か。今更に追い払う気にもならず、少女は怪人赤マントといつ終わるとも知れない旅を続ける事とした。
 二人は共に様々な場所をした。人里離れた山の奥へ。恐ろしく水の澄み渡る湖へ。彼方に別天地を拝む岬へ。
 そして奇妙な伝説の息衝く地を通りすがった夜、少女は怪人に尋ねた。何故自分を付け回すような真似をしたのかと。それは恐ろしく今更な問いであった。
 怪人は少し困ったような笑みを浮かべると、訝る彼女の瞳を真っ直ぐに覗き込み。それから静かに語りだした。
 ――曰く。彼は本来恐ろしい噂を元に成った怪異であったという事。そして彼もまた嘗ての少女と同じように、見境なく人々を傷つけて来たという事。
 少女に出逢ったあの日、怪人は少女を害するつもりであった。しかし彼女が自分と同じようにこの世のものではない事、そして未だかつて見たことのない程暗く沈んだ目をしているのに気づき、――ふと。自分が何とかしてやらねば、と思ったのだと言う。
 何とかしてやらねば、だなんて。自分がそんな大それたことの出来る存在ではないと、分かっていた筈なのに。
 しかし彼は少女の為に動き出した。何もせずには居られなかった。少女の瞳の奥に溜まったどす黒い闇を取り払ってやらねばならぬと、無我夢中で行動した。
 無論、策なんてものはなかった。人を傷つける事しか知らない怪人に、悪霊少女を救うノウハウなんてある筈もない。分からないなりに考え、とりあえず少女が人を呪いそうな瞬間に現れ、気を逸らす事を思いついた。
 今まで取るに足らないものと考えていた人々の言葉に耳を貸し、巷の少女たちが面白がって話す愉快な噂を聞きかじっては少女に伝えた。少女が世間話に幾らか耳を傾けるようになってからは、喜んで新しい話題を集め続けた。
「――そうすると、あなたの瞳に少しずつ輝きが戻っていくのが分かった。そこいらの生きているお嬢さん方にも負けず劣らず……いいや。ともすれば彼女たちよりもずっとずっと美しい光がね。私は、それが嬉しくて仕方なかったのだよ」
 長い長い語りを終え、怪人はにこやかに微笑んだ。それは少女と初めて出会った時の如何にも怪しい笑みではなく、それこそ只の人間のような自然な笑みだった。
 人間の笑みを浮かべた彼は、それから寂しそうな声音で言った。あなたとの旅もそろそろ終わりが近いのかもしれない、と。
 どうして、と少女は問う。今更終わりにする事もないではないかと。これからもずっと共に旅を続ければいいではないかと。駄々を捏ねる子供のように、取り縋って問い詰めた。
 対し彼は短く謝る。すまない、と。
「私は人間ヒトのようになりすぎた。もうすっかり怪人では無くなってしまったようだ。人の噂に生まれた者は、噂の忘れ去られた後には消えゆく宿命さだめ。……或いは噂を纏って怪の名を得た人間か亡霊ならば在り続けるのだろうが、私にはそろそろここいらが限界のようだ」
 怪人は残念そうに言って、白手袋に包まれた己が手を見遣った。少女もつられてその手を見、そして愕然とする。夜の冷たい空気に溶かされるように、彼の手のひらは薄らと透けていたのだ。
「何故黙っていたの!」少女は叫ぶ。しかし怪人は寂しい笑顔で謝るのみ。最早全ては後の祭りか、彼の手のひらから始まった透け・・は見る間に全身に広がって行き、彼が消えるのは時間の問題に思えた。
 それを悟り、少女は泣いた。死してこの方一度も涙を見せる事なかった少女が、見た目通りの少女のように、わんわんと声を上げて泣き叫んだ。
 怪人は消えゆく手のひらでその背を撫で、ふと思い出したように、その懐から何かを取り出した。
「そうだ、いつかあなたに上げようと思っていたんだった。渡しそびれることになってはいけない、今のうちに貰ってくれまいか」
 そう言って彼が差し出したのは、丁度彼の被るシルクハットと同じ色をした、婦人用の小さな帽子だった。
 しゃくり上げる少女の頭に帽子をそっと載せ、怪人赤マントは白い歯を見せニコリと笑った。
「やっぱり。その色はあなたの銀髪に良く似合う」
「良く似合う、じゃないよ……! 貴方が居なくなったら私はこれからどうすればいいの!? 私はもう……一人じゃ歩けないよ……」
「…………。ここへ来る途中の場所で、とある人にあなたのこれからを頼んで来た。朝になったら迎えが来る。あなたは決して一人にはならない……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ、大丈夫じゃない……。貴方も来るのよ赤マント、貴方も一緒に……」
 大粒の涙の中で、少女の視界はぼやけていく。そのぼやけた視界の中で、怪人の姿が薄れて消えていく。少女は声にならない声を上げてその姿に縋ろうとするが、その指は虚しく空を掴むばかり。
 もう彼の姿は殆ど消えてしまっている。あの笑顔も、もう見えない。
 最後に彼の声が響いた。優しい優しい声だった。

「例え哀しみと憎しみに終わった人生であっても。死んだ後までそれを持ち続ける事は無いんだ。……自由になれ」
「待って赤マント――」

 少女が手を伸ばした先で、彼自信を体現していた天鵞絨ビロードの赤マントがぱさりと地に落ちる。
 その瞬間が、最後だった。世界は再び闇へと染まり、虚無の底へと沈んでゆく。
(どうして……嫌だよ! 消えないで! 貴方はとっくの昔に失った筈の家族みたいな人だったって、お父さんみたいな人だったって……何なら師匠せんせいみたいな人だったって、私まだ伝えてないよ、伝えてないのに……!)
 悲しみに暮れたまま世界と運命を共にする少女。崩壊の渦に埋もれてゆく刹那、誰かの手が彼女を掴んだ。
「――目を覚ませ!」
 その誰かが叫ぶ。少女は困惑したまま声の方へと顔を向け、そこから差し込む眩い光に思わず目を閉ざす。
 眩しさが赤く焼け付く閉ざされた視界の中で、彼女を引っ張り上げようと力を籠める誰かは再び声を張り上げた。

「目を覚ませ――黒梅魔鬼ッ!!」

 はっとして。少女は――魔鬼は再び目を開く。蘇った視界の先には己が手を引く乙瓜と遊嬉と杏虎の姿。
「なっ、私は……!?」
「馬鹿、記憶世界の感情に引っ張られ過ぎたんだ! わかったら早く、エリーザも連れて上がって来い!」
 力の限界か、乙瓜は顔を真っ赤にして叫んでいる。そんな彼女の必死の言葉に、魔鬼は己がもう片方の腕がエリーザの手を掴んでいる事に気付いた。
「……エリーザ!」
 そこに居たのは明治の少女でも昭和の悪霊でもセーラー服の娘でもなく、魔鬼の良く知る珍奇な姿のエリーザだった。気を失っているのか、その双眸は固く閉ざされ反応が無い。
(もしかして、このエリーザがあの悪魔の言ってた核?)
 眠ったように動かない彼女を見て、魔鬼はふと考える。しかし直後自分達の足元に広がる記憶世界終焉の渦を思い出し、のんびりと考えている暇も無いかと動き出す。
(まだ少しぼんやりしてるけど、何となくわかる。私はついさっきまでエリーザと完全に同調してたから、あの渦は私を記憶の一部と見なして取り込もうとしてるんだ。……だけど悪いね。私は黒梅魔鬼、あの記憶の中に私は居ない。取り込まれるわけには行かないんだ。ただ、このエリーザの核だけ貰っていくよ……)
 蟻地獄の如く口を広げて迫る渦を一瞥し、己が両腕に力を込めて魔鬼は唸った。
「こンのっ、負けるかァ……! ファイトぉーッ!」

 世界が、砕けた――。



「――時間リミット、か」
 静寂の図書室で嶽木は呟く。彼女の視線の先の時計は美術部四人が夢想世界へ飛んでからきっちり10分後を指しており、尚も止まらぬ秒針の音をやけに喧しく響き渡らせていた。
 エリーザ・シュトラムは刻限間近から抵抗を止めて眠るように大人しくなっており、流石の嶽木も押さえつける足を退けたものの、未だ護符の封縛を緩めることなくその様子を慎重に見守っている。
 図書室の扉は僅かに開き、10cm程開かれたその隙間からたろさんと闇子さんが不安気な視線を覗かせている。そこにはいつの間にか赤紙青紙やてけてけまでもが加わっているようで、物言わぬ彼らはそわそわと心配そうにその身を震わせていた。てけてけと共に現れた異怨は、そんなてけてけ達を見て不思議そうに首を傾けている。……花子さんの姿は、依然として無い。
 誰もが固唾を飲んで見守る中、図書室内の空間に炎が生じ、火遠が姿を現した。
「姉さん。……どうだい、エリーザの様子は」
「大人しくなったきり動き出す様子がない。遊嬉ちゃん達は成功したのか否か……」
 真剣に問う火遠にそう答え、嶽木は再びエリーザを見た。元から死んでいるとはいえピクリともしないその様子に、嶽木は正直もう駄目かもしれないとも感じていた。
(もし、このまま目覚めることが無かったら。……人間の身なればまだ僅かな希望があるとはいえ、心を壊された幽霊妖怪おれたちなんて抜け殻も同然。可愛そうだが一思いに送って・・・やるのが情けというものか……。そうだろ、火遠)
 嶽木が厳しい表情でエリーザを見る最中、ずっと姿を隠していた花子さんが図書室に現れる。思い詰めた顔で現れた彼女は、ずっと手にしていた赤い帽子と横たわるエリーザを交互に見比べ、それから静かに口を開いた。
「……駄目、だったの?」
 震える声。誰も何も答えられなかった。花子さんはその沈黙をどう受け取ったか、ゆっくりとエリーザの元に歩み寄ると、腰をかがめて顔を近づけ、悲しみに満ちた顔のまま話し出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい。私は何もできなかったわ。貴女を守ってやれなかった、貴女を救いに行くことも……!」
 懺悔はやがて大粒の涙となって花子さんの頬を滑り落ち、床に幻想の雫を垂らす。
 ごめんなさい、ごめんなさい。遂に彼女は床に手を突き、人目を憚らずに泣きじゃくった。……と、そんな中。固く閉ざされていたエリーザの瞼が、ピクリと動いた。
 花子さんは気づかない。廊下から見守るたろさん達も距離がありすぎて気付いていない。それに気付いたのは、ある種の重い決意を抱きながらも冷静に状況を観察していた嶽木と火遠だけ。
 あっ、と思わず声を上げそうになった嶽木を、火遠はそっと手で制した。
『――火遠、なんで』
 嶽木が彼ら独自の念波で問う中、火遠はゆっくりと首を振る。
『姉さん、いいから』
 そう答え、火遠は再び花子さんとエリーザへと視線を落とした。嶽木はそんな弟を見て、しかし彼らしい・・・かと呆れ笑いを浮かべ。緊迫した状況の終わりを飾る小さな茶番に付き合う事にした。そして囁く。封縛解除と。
 そんな事など露知らず、花子さんは未だ嗚咽を続けていた。その頬に、ふと誰かの手が触れた。
 驚き目を見開く花子さん。そのぼやけた視界の先には、ちょっぴりくたびれた様に……そして今までと同じ様に微笑むエリーザの姿があった。
「え、な……んで……?」
 お化けの癖に、まるでお化けでも見たように口をパクパクとさせる花子さんに向かって、「なんで、じゃないです」とエリーザは言う。
「……花子お姉様、いいんです。寧ろ私の方こそ……助けられてばっかりで、迷惑かけてばっかりで。……全然駄目です。駄目駄目です。…………ごめんなさい」
「――! エリーザっ! ああエリーザ……エリーザ!」
 いつものように喋り出した妹分をきつく抱きしめ、花子さんは再び声を上げて泣いた。エリーザは困り顔で「苦しいですよ」と訴えるが、やがて彼女も泣き出してしまう。
 ともすれば長い長い年月を現世で過ごした筈の彼女たちは、互いを抱きしめ小さな子供のように泣き叫んだ。気が付けばドアの外で様子を窺っていたたろさんや闇子さんも号泣しながら図書室へ押し寄せ、数分前まで場を支配していた重苦しい空気は何処へか飛び去ってしまった。
 今この場に満ちているのは、湿っぽくも騒がしく、そして暖かい空気だけ。校内の大半の生徒には認識できない光景を前に、火遠はやれやれと肩を竦めた。
「……はあ、やれやれ。裏生徒サイドではめでたしめでたしって所か。表じゃ警察沙汰でそれどころじゃないってーのに、呑気なもんだよ全く」
「それを言ってやるなよ、折角こっちはいい話っぽく纏まってるんだから。……けれど、大元の原因は別にあるとはいえ、いずれあの子には【灯火】として何らかの処分を言い渡さなければならないだろうね。……あーあー。嶽木姉さん気が重いー」
「そんな事言ったら俺だって気が重いよ。……ま、情状酌量の余地はありまくりだから、酷いことにはならないだろけど」
 火遠は大きく溜息を吐いた。そんな彼を見て、嶽木は思い出したように言う。
「そういえば火遠。アルミレーナはどうしたのさ。……ずっと捜してた自分の娘だろ?」
 不思議そうに眉を顰める姉を前にして、火遠はじわじわと不機嫌な表情へと変わった。そして表情に見合う不機嫌そうな声音でぼそりと一言。
「……逃げられた」
「は? 何、逃げられたって。それおかしくない? おかしいよね?」
「知るかよ……。あいつ自身が帰るって言うんだから仕方ないだろ……! しかも事情を知った上で……あんな性悪女の所に……!」
「ふうん。ふーん。……嫁に逃げられ娘に逃げられ、次は誰に逃げられるんだろうねえ。きしししし」
「姉さんその笑い方やめて。……えらく不快だし不愉快だ」
 こちらもこちらで緩んだ雰囲気を醸し出す双子の背後で、何か重々しい音が響いた。どすん、と。高い場所からそれなりの重量のあるものが落ちる音が。
「へぶ!?」
「んにゃッ!」
「うわっ!」
「おー」
 四つの異なる声を伴ったその音に振り返れば、間抜けな姿で折り重なる美術部四人――魔鬼と乙瓜、そして遊嬉と杏虎の姿がそこにあった。どうやら出口は自動ドア・・・・だったらしい。行きはよいよい帰りは怖いとはこのことか、あまりにも恰好の付かないヒーロー・・・・を前に、いじけ顔だった火遠は何とも呆れた表情を浮かべ。一瞬の後にふっと笑うと、彼女らに労いの言葉をかけるのだった。

「お帰り、美術部達」

 その日北中を襲った怪事……もとい連続殺傷事件は、裏事情を知る者の間ではそこで収束したものの、全国ニュースにも流れ、世間を大きく騒がせた。
 押し寄せる多量の報道陣を前に学校は機能を停止し、生徒の心のケアも兼ねて、北中は一週間ほどの臨時休校となった。その期間中、病院に搬送されて何とか一命を取り止めていた斉藤メイをはじめとする六人の被害者は意識を取り戻す。不幸中の幸いか、全員思ったより傷は浅く、身体機能への後遺症は少ないだろうと医者は判断した。
 彼らがそんな状態だと嗅ぎ付けるや否や、無神経なマスコミが大挙して押し寄せるが……不思議な事に誰一人としてはっきりとした犯人像を証言することが出来ず、次第にマスコミの熱は冷めていった。……と言うより、事件発生後何日目かを境として、不思議なほどにマスコミと世間の反応が冷めていったのである。近年稀に見る大事件だったと言うのに。
 その不可解な流れは、休校をいいことに自宅に籠ってゲームばかりしていた乙瓜ですらも流石に不審に思う程で、六日目に火遠がふらりと烏貝家を訪れた折、乙瓜は「お前らが何かしたのか?」と尋ねてみた。
 人の家の漫画を勝手に読み漁りはじめていた火遠は、いつもよりかぼんやりとした表情で振り返り「そうと言えばそうかもだけど、違うと言えば違うかもしれない」と、何とも曖昧な返事を返す。その為、乙瓜は何故あの事件が急速に世間から廃れていったのかを知ることは出来なかった。
 ただ、火遠との雑談の中でエリーザが能力の一部を封印されたと知っただけで。今後も同じような事が起こるのか、とか。そういえばあの後アルミレーナはどうしたか、とか。それを尋ねることは、その時の乙瓜にはなんだか恐ろしく思えて。ついぞ聞くことが出来なかった。

 丁度同じ頃、魔鬼は魔鬼で考え事をしていた。己が前に姿を現した魔女アルミレーナ。夢想の悪魔エーンリッヒ。乙瓜に似た少女、七瓜からの伝言。頭の中で支える言葉・ヘンゼリーゼ。魔導書グリモワール
 自室のベッドの上でそれらを代わる代わる思い浮かべ、魔鬼は深々と溜息を吐いた。
(伝言の中身は未だ誰にも話せていない。だけど、あの時七瓜あいつが言ってた「明確な悪意と明確な敵意」ってのは、ほぼ間違いなくあの事件の事だよな……)
 先の事件。エリーザの心を破壊したのは【月】――秘密結社【月喰の影】の使者。明確な敵意と悪意。それは確かに【いつか】なんて不確定な未来でなくて、七瓜と出逢った体育祭から目と鼻の先の【間もなく】だった。
 最早予言と言っても過言でない程に一致する伝言と事件の中身を前にして、魔鬼はこれから起きるであろう事態について考える。
(【月】の悪意は確かに起こった。なら、これから起こるべきことは一つだけ。「その未来が現実となった時、ヘンゼリーゼは動き出す」……ヘンゼリーゼ、以前三咲って奴が言ってた「魔女」。あの時私の前に現れたアルミレーナと同じ……だけど違う。何となくだけど、アルミレーナはその魔女じゃない。そう思う)
 ズキリと鈍い痛みを頭に感じ、魔鬼は小さく舌打ちした。
 あの後――エリーザの最後の記憶の欠片の世界から抜け出した後。エーンリッヒは魔鬼にだけそっと告げた。
 ――君の記憶は一部ロックされてるよ。私がしたんじゃない、多分別の子の仕業。どのタイミングか知らないけれど。現に君、思い出せないでしょ? ヘンゼリーゼと何があったか。
(ヘンゼリーゼと何があったか……。それはつまり、あの悪魔が嘘を吐いていない限りは。過去に私はその魔女と何かあったって事で……。……ああくそ、色んな事が最近になってから一度に動きすぎてるんだよ! まるで示し合わせたみたいに……!)
 体を預けるマットレスに拳を下ろし、魔鬼はキッと天井を睨んだ。これからもまた何かが起こる。そんな予兆を胸に抱きながら――。

 それぞれの想いを胸に、しかし乙瓜や魔鬼は未だ知らない。彼女達が一時の安息と捉えたその時間の中で、確実に動いている事態がある事に。
 それは先の成果をほくそ笑む【月】ではなく、頻繁に活動を開始した魔女たちの【青薔薇】でもなく、彼女達のすぐ近くに。

「ッあぁぁぁああぁぁああぁあぁぁあぁぁぁぁあぁぁ!」
 白いベッドの上で、彼女は今日も苦痛の悲鳴を上げる。
 病院の一室。閉め切られた室内はどこまでも寂しく薄暗く、外の廊下には人の往来があるにも関わらず、苦痛に悶え絶叫する彼女を気に留める者は一人もいない。医師も看護師も家族すらも。
 ……否、一人だけ。たった一人だけ彼女に付き添い、守る様に手を握り続ける者が居た。
 彼女が苦しむ度万力のような力で締め上げられる己が手を見つめ、彼は静かに呟いた。

「――眞虚」

 ベッドの上でのたうち回る彼女の背を突き破るのは、白い大きな鳥の翼。片や大きく片や小さく、不格好に生えたそれを見つめ。何処からか姿を現した白い孔雀がくくと笑った。



(第十二談・トロイメライデストロイ・完)

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