怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ⑤

 夢想と現実を分かつ扉の先には、那由多の先まで覆い尽くさんばかりのが待ち構えていた。
 天も無く、地も無く。見渡す限り圧倒的な黒を前にして、しかし美術部員は恐れない。現世から外れた異界とは即ち、所謂常識の及ばぬ世界であるということを、皆知っているからだ。
 黒一面の虚無の世界。そんな虚無の内側には、美術部の彼女らが訪れた瞬間より絶えず響き渡る声があった。

『私はエリーザ。エリーザ・シュトラム』
『ねえどこへ連れて行くの? そろそろお家に帰らなきゃ』
『痛いよ、怖いよ。言う事聞くからもう許して、悪い事したなら謝るから許して……!』
『井戸。赤い血。暗闇の底。痛い、痛い。お父さん助けて、お父さん……』
『捜さなきゃ、私の帽子。捜さなきゃ……』

 どこからともなく流れては消えてゆくその声は、確かにエリーザのものだった。声は小さすぎず、喧しすぎず。まるで脳内に直接囁かれているようであった。
「ここが……エリーザの心の中なのか……?」
 戸惑い頭を押さえながら魔鬼は呟く。その言葉に、黒闇の何処かで誰かが「そうよ」と肯定した。それは美術部の誰のものとも違う、そして脳内に響き続けるエリーザの言葉とも違う声だった。
「誰だ!」
 魔鬼が叫び辺りを見回すのと同時、乙瓜や遊嬉・杏虎らも同じように周囲を気にし始める。どうやら、その声は皆にも同じように聞こえていたらしい。
 露骨に驚いた表情の乙瓜に、注意深く辺りに目を向ける杏虎。探る様に体全体を動かして声の主を捜す遊嬉と、皆が思い思いの反応を見せる中。それは暗闇の中からそっと姿を現した。
 丁度四人の立ち位置の中点ほどに。そっと静かに音もなく。暗闇の中から生えるように。現れたのは、少女だった。栗色の髪に青緑色の瞳。頭の上に大きなリボンをつけた小柄な少女がそこに居た。ロリータ趣味全開の衣装を纏ったその手には、彼女の身の丈を遥かに上回るフォーク――つい先刻アルミレーナが手にしていた、あのがしっかりと握られていた。
 彼女が姿を現し、バレリーナのようにくるりと回って頭を下げた刹那、魔鬼は「あああああああ!」と大きな声を上げた。
「どうした魔鬼!?」
 乙瓜がそう問いかけた先で、魔鬼は少女をビシッと指さしこう言った。「前に夢の中で逢った奴ッ!」と。
 そう、魔鬼には少女の姿に見覚えがあった。それは一年前、七瓜が美術室に襲撃を仕掛けて来たあの日――魔鬼にとって忌まわしい記憶となっているあの日の事。
 七瓜の傀儡魔法の術中で、眠らされていた意識が見た夢。その短い夢の中で、魔鬼は確かに少女と邂逅を果たしていたのだ。
 それを思い出し、魔鬼は興奮気味にこう続けた。
「あの時の魔法少女!」
「なーんだ覚えてたの? ていうか私、魔法少女じゃないって。あの時も言ったじゃんー」
 少女ははぁっと溜息を吐いた。その様子を見て乙瓜は首を傾げる。
「なんだ魔鬼、知り合いか?」
「いいや……顔見知りっていえば顔見知りだけど……」
 なんと説明したものか、魔鬼は口籠る。よくよく考えてみれば、彼女もあの少女の事をよく知らないのだ。前回の邂逅は夢の中でのごくごく短い時間。思えば、あの時の魔鬼は目覚めることに必死で、少女と碌に会話も交わしていなかったのである。
 それに一年も前の事だ。自己紹介もされたような気もするが、細部なんてすっかり忘れてしまっている。
(どうしよう、説明のしようがないぞ)
 魔鬼はすっかり困り果ててしまった。しかしそんな事情・心情等知る由も無い乙瓜は興味津々の顔だ。魔鬼は「うう」と苦しい呻きを上げる他なかった。
 そんな彼女を見兼ねてか、少女は再び溜息を吐き、そして口を開いた。
「なーんか、顔以外ほぼ忘れられてるみたいだし。直接合うのは初めての子たちも居るから、改めて自己紹介するわー。私の名前はエーンリッヒ。夢を覗き夢を除く夢羊。夢想の悪魔。この世界の案内役」
「案内役?」
「そうよ、案内役。君たち、レーナ・・・の導きでここまで来たんでしょ? これと同じものをつかってさー」
 訝る杏虎に笑顔で答え、少女・エーンリッヒは手に持つ杖を掲げて見せた。唐突に口にしたレーナというのは、どうやらアルミレーナの徒名らしい。
「夢想の杖は夢想世界への扉を開き、夢想世界は君たちをこの場所……エリーザ・シュトラムの心の世界へと導いた。心とは積み重ね。己が己として成立してから今日までの積み重ね。その積み重ねは個々の内面に独自の風景を作り出す。それは生きている者だろうが死んでいる者だろうが同じ事。今この世界が虚無の暗闇に沈んでいるのは、無粋な輩にその積み重ねを無理矢理崩され壊されたから。そのせいで、エリーザ・シュトラムは心無い怪物となってしまった。でもね――」
 エーンリッヒはくるりと杖を振るって見せた。瞬間、杖の先端が光を放ち。同時に黒一面の闇の中から無数の何かが浮かび上がった。
 それは小さな光だった。小さく、蛍のように明滅を繰り返す幽かな光が。一瞬にして闇の中に生まれたのである。
「なにこれ……なんか、綺麗だけど……?」
 驚きつつも警戒した様子の遊嬉に、エーンリッヒは言った。それは記憶の欠片よ、と。
「今夢想の杖の呼びかけ・・・・に応じたそれらの光が、エリーザの心に積み重ねられ、そして無残にも打ち崩された記憶の欠片たち。喜びと哀しみ、怒りと苦しみ。バラバラに分断された一つ一つの叫びが、君たちに聞こえている声の正体」
 聞こえてるよね、と。そう問いかけるエーンリッヒに、四人は静かに頷いた。彼女らの頭の中では、今でもエリーザの声が響いていたのだ。無数に分断されたエリーザの記憶、その叫が。
「それで、あたしたちはここで何をすればいいワケ? あのアルミレーナとかいう人は、埋もれてしまった大切な過去を捜せとか言ってたけど、具体的にどうすれば?」
 頭の中の声に少し耳を貸した後、杏虎は言ってエーンリッヒを見た。他の三人も同様に、早く方法を教えろとばかりに視線を向ける。
 己へ向けられる熱視線を前に、悪魔はちょっぴりめんどくさそうな表情を浮かべた後、吹っ切るように息を吐くと、手近なフォーク・・・・でそっと掬い上げた。
「……正直こっからがとっても面倒なのよ。だけど私が渋ってちゃ何時まで経ってもどうにもならないわね。見ててよ」
 彼女は言って、何事かを唱え始めた。それは果たしてこの世に存在する言語なのであろうか、少なくとも美術部の誰にもわからない言語であった。その詠唱の後、杖のフォーク上にある蛍が眩い光を放ち、世界を白く染め上げる。
 美術部四人は皆短い悲鳴を上げて顔を覆い、閃光の中へと飲み込まれ――そして、を見た。

 異国情緒漂う煉瓦レンガの街並み。道行くのはどこか古風な人々。耳に聞こえるのは異国の言葉と波の音、そしてカモメの鳴き声だった。
 ここはどこかの港町なのだろう。港湾には大きな木造船が停泊しており、白い帆が微風に揺れている。船の上には船員と思われる屈強な男たちが忙しく行き交い、大きな荷物をせっせと運んでいる。
 の中の少女・・は、やはり異国の顔をした初老の紳士に手を引かれ、その大きな船に乗り込む最中であった。
 夢の中だからだろうか。夢を見る美術部の彼女達は、誰から教えられるでもなくその紳士が夢の少女の父親であると分かった。そして紳士が歳が行ってから生まれた我が娘を大事に思っており、先だった妻の分まで愛情を注いでいるという事も。
 少女はそんな父親と幾つか言葉を交わして微笑んでいる。彼女が片手で大事そうに抑える帽子からは、見覚えのある銀の髪が覗いていた――。

「――と。この欠片はここで終わりみたいね」
 エーンリッヒのそんな独り言と共に、美術部はハッと我に返った。
「えっ……今の夢って……えっ?」
「なんつーか、あたしら今一瞬小さい女の子になってたような……?」
 狐狸に化かされたような気分で頬を抓る魔鬼と、信じ難いものを見たという表情の杏虎。遊嬉と乙瓜の二人もそれぞれ頬を抓ったり意味も無く両手を裏返して見てみたりして落ち着かない様子だ。
 すっかり動揺した様子の彼女らに向かい、エーンリッヒは静かに告げる。
「それが記憶を捜すという事よ。無数に散らばる記憶の欠片を再生し、追体験する。故にこれをするのは自分と云う存在を確固として持っているモノでなければならない。怪談を肉とし妖怪としての疑似的なせいを得た幽霊あがり等では、この無数の記憶に呑まれて自分が何者であるか分からなくなっちゃうから。君たちはここにあるエリーザ・シュトラムの記憶の欠片を追体験し続け、彼女の心を再生するに足る……核となる一片を見つけるの。これから」
 言って、エーンリッヒは杖をバトンのようにくるくると回した。そして「次はどうする?」と、再び暗闇と戻った世界に無数に散らばる達を見て両腕を広げた。
 悪魔の悪魔たる由縁か、簡単に言ってのける彼女を前に、乙瓜は拳を固く握りしめ、そして叫んだ。
「おい待てよ! ……それってつまり、このやたらと多い欠片の中身をちまちま追体験してかないといけないって事だろ!? そんな事してたら日が暮れちまうどころか何日あろうが終わらねえじゃねえか! ふざけんな!」
「そういう事だけど。やぁだ、怒んないでよ。夢想世界で何日何時間過ごそうが現実世界では十分かそこらしか経過しないわよぅ?」
「いやいやそういう問題じゃないだろ!? このペースだとエリーザが元に戻るかどうかの前に俺らがくたびれ死んじまうじゃねえか! せめて何かヒント寄越せヒント!」
「そーだそーだ! ヒーント! ヒーント!」
 乙瓜に同調し、ヒントコールを始める魔鬼に遊嬉らも続く。曲がりなりにも知人のピンチを救うという面目であるにも関わらず……否、寧ろ知人がピンチであるからこそか。傍若無人な彼女らを前に、夢想世界の主は遂に根負けした。
「ああもう、ああもう! わかったわよ! ……私だって頼まれてここに来てる以上鬼じゃないわ、それっぽい輝きを放つ欠片を幾つか見繕ってあげる」
 本当かと乙瓜らが沸き立つ中、エーンリッヒはフンと不機嫌そうに鼻を鳴らした。それから再び不可思議な言語で呪文を唱えると、闇に飛び交う蛍の中から一際強く輝く四つの光が飛び出し、構えられたフォークの上に自ら乗って来た。
「……無数に砕けた記憶の中で、一際強く輝く欠片はこの四つ。輝きが強いという事は、思い入れもそれなりに大きいという事。つまりこの中のどれかが正解である可能性が高いってコトよ。……あくまで可能性だけど、手あたり次第よりは余程当たり・・・に近い筈。今からこれを連続で再生するから、君たちは本物だと思う記憶を捕まえてきなさい!」
 告げて再び詠唱を開始したエーンリッヒに向けて、魔鬼は問う。
「待って、捕まえるって……何を、どうやって!?」
 エーンリッヒはそんな彼女を見てニヤリと笑った。四つの欠片が閃光を放ち、世界が再び白一色に包まれる刹那、美術部四人は確かにエーンリッヒの声を聞いた。

「名前を呼んで捕まえてくんのよ。記憶の中に居る彼女を、誰でもいい、君たちの内の誰かが――」

 世界が染まる、光に染まる。己が己であるという感覚が眠り、四人は再びエリーザの記憶の中へと落ちていった――。


 ――百数十年前、日本。
 長い長い鎖国が終わり、交易の限定の解かれたその時代。欧州某国から家族と共にこの日本を訪れた、一人の男が居た。
 彼の名はシュトラム。本国で医師であった彼は、この文明開化の日本に近代医学を広めるべくしてやってきた内の一人であった。
 そして、その一人娘こそがエリーザであった。8歳の幼さで母国を離れた彼女は、船の中でこそまだ見ぬ異国の地に心躍らせていたものの、いざ訪れたその国では言葉も通じず文化も違い。道行くたびに向けられる奇異の目を前に、日に日に気持ちが沈んで行ってしまった。
 指さされて見られながら、見知らぬ言葉で何か言われるのが苦痛で仕方なかった。悪い事など一つもしていないのに、責め立てられているようで。馬鹿にされているようで。それがとても悲しかった。
 父は新しい地での仕事に忙しく、まともに話せる相手は母国から一緒に渡って来た使用人只一人。その使用人すらもずっとエリーザに付きっ切りというわけにもいかず、幼い彼女はひたすらに孤独であった。

 ――来なければ良かった、こんな国。お父さんもお父さんで、ずっと元の国に居れば良かったのに。どうして、なんで……。
 記憶の追体験。夢の中の出来事のように、過去のエリーザの視点となってその考えに同調する中で、魔鬼はふと我に返った。
(違う、ここじゃない。確かに強い気持ちの残る記憶だけど、ここにはエリーザの大事なものはない……!)
 自我が蘇ると同時、彼女の視点がぐるりと変わる。それまでエリーザと同じ位置にあった視点がぐるりと変貌し、次の瞬間には膝を抱えて涙するエリーザを俯瞰ふかんするようなアングルになっていた。
(なにこれすごい、背後霊みたいな視点になった!)
 驚き感心する魔鬼に、ふっと誰かが触れた。再生される記憶の世界に於いて、彼女の姿など無いも同然なのに。それでも確かに誰かが触る感触に、魔鬼が周囲を見渡すと。そこには半透明で宙に漂う遊嬉と杏虎、そして乙瓜の姿があった。
 気が付けば、魔鬼自身の姿もまた半透明となってそこに在る。現実世界ではエリーザの方がお化けだというのに、ここでは立場がまるきり逆であるようだ。
「やぁっと気づいたのかよ」
 半透明の乙瓜が言う。何の事かと魔鬼が首を傾げると、乙瓜はちょっぴり呆れたように肩を竦めて言葉を続けた。
「エリーザ視点。そもそもそっから抜け出さないと、呼んでくるとか捕まえてくるとか無理ゲーじゃないか」
「ああ、そういう……。ていうか、お前らいつから気が付いて?」
「割と最初の方からだったぞ。な?」
 乙瓜の言葉に遊嬉と杏虎がうんうんと頷く。どうやら皆エーンリッヒの言葉で何かしら思う所があったらしく、記憶再生の開始から程なくしてエリーザの視点から抜け出したようだった。
 自分ばかりが悠長にエリーザ視点に留まっていた事に気づき、魔鬼はその顔を赤くした。皆それを見てやれやれと肩を竦める。それと同時、彼女らの周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。まるでコーヒーに落としたミルクをかき混ぜるように、グルグルと混ざり合って消えていく世界を見つめ、遊嬉がポツリと呟く。「この欠片は終わったみたいだね」と。
 ドロドロに収束した世界は闇と消え、次の瞬間にはまた新たな光が世界を包む。次なる記憶の再生が始まったようだった。

 次なる記憶は、唐突に見覚えのある風景であった。それもその筈、そこは古霊北中の校舎の中であったのだから。
 恐らく二階廊下だろうか。美術部二年はそんな廊下の天井付近に浮かび、見知った校舎を見慣れぬアングルから眺める形となっていた。
 校舎の中は、彼女らが知る北中よりも随分と新しいように見えた。クラス表示の札も今とは大分違っており、子供が沢山いた時代なのだろう、現在多目的室として使われている部屋もすべて学年教室として埋まっていた。現在パソコン室として使われている部屋には資料室なる木札が掛けられている。
「急に時代が飛んだなー」
 周囲を見渡し杏虎が呟く。時刻はどうやら夕方から夜の時間帯であるようで、校舎の中は大分薄暗く静まり返っている様子であった。
 そんな時間帯の校舎の中を、タッタッと音を立てて走る者が居た。それは先程の明治の記憶よりは大分美術部に馴染みのある姿となったエリーザであった。
 赤いマントに赤い帽子と赤いブーツ。お馴染の赤揃いの装束だが、マントの中身はスクール水着なぞではなく、恐らく北中の旧制服と思しきセーラー服であった。
 美術部の視点はその背中に追従する形で移動を開始する。一体何を急いでいるのかと、魔鬼はそっとエリーザの傍らからその目線の行く先を覗き見る。
 そして「あっ」と声を漏らした。気づきと驚きの感嘆詞。他の皆も、各々エリーザの向かう先にあるものに気付いている様子だった。
 元々そこに存在しない筈の彼女らの反応などいざ知らず、エリーザは"資料室"の扉の前で足を止める。
「ねえ、そろそろここから出なよ。ずっとこんな所に居たって面白くないよ」
 ドアを叩いて呼びかけ。エリーザは資料室の扉をそっと開く。この時代は教室に施錠する事など無かったのだろう、扉にはそもそも鍵がかかっていないように見えた。
 外開きのまわし戸を開けて資料室の中へ。やはりというか当然というべきか、室内は美術部達の知るパソコン室とはまるで違う様子であり、壁際の書棚には古い教科書や歴史資料と思しきものがずらりと並び、黒板にはこの時代の時点で既に古めかしい壁掛けの世界地図が掲げられていた。
 そんな部屋の片隅に、寂しく膝を抱えて座り込んでいる人影があった。
 袴姿の男。恐らくこの時代が昭和であろう事を考えても、早々居ないであろうと思われる恰好をした人影。その人物こそがエリーザが資料室を訪れた目的であると、皆既に分かっていた。エリーザがどこを目指しているかと意識を向けた瞬間、彼の姿がビジョンとして浮かんだのだ。そしてその男の正体も、また。
「たろさんだ……!」
 魔鬼が呟く最中、袴の男がゆっくりと顔を上げた。馴染みのない恰好をしてこそ居たが、それは確かにたろさん――美術部が"トイレの太郎さん"と認識している彼であった。
「また来たのか……」
 男は面倒そうにそう吐いて、眼前に仁王立ちするエリーザをうんざりと見上げた。当時はあのわざとらしい「ござる言葉」ではなかったらしい。
 明かな拒絶の気配をひしひしと醸し出す男を前に、しかしエリーザは引くことなく言葉をかけ続けていた。
「花子さん言ってたよ、あんまり塞ぎ込んでるとアクリョーになっちゃうって。そしたらすごーくすごーく面倒な事になって、開かずの間作ったシンカンの人たちに退治されちゃうかもしれないんだよ? だから今日こそはこっから出て、みんなにも挨拶しよう。ね?」
「…………。なら今日もおれは言う。放っておいてくれないか。……悪霊だろうが怨霊だろうが、成る様に成ってしまえばいい。己などは今更になって亡霊として黄泉返るべきではなかったのだ。退治だろうがなんだろうが好きにすればいい――」
Dummkopf愚か者! もうッ、あなたなんてことを言ってんのッ! アクリョーになんてなっちゃ駄目だよ、ばかばかばか……!」
 エリーザは涙目になっていた。涙目のまま男の胸倉を掴み、彼を強引に引っ張り立たせる。小柄な少女がそこそこの体格の少年を掴み起こすなんて、生身の人間では早々無い事であるが。既に生身の人間でない彼らにとって、体格などはもはや関係ないに等しい。
 驚き目を白黒させる男に向け、エリーザは強い口調で言った。「あなたは生きるの、死んでいるけど、死んでいるなりに生きるの!」と。気が昂ぶっていたからか、それは冷静に考えてよくわからない発言だった。しかし、その意味するところは男に伝わっていたし、記憶を辿ってそれを聞く美術部の四人にもまた伝わっていた。
 そして同時に美術部は知る。この時点でエリーザの持っていた記憶の一部を。

 ――エリーザ・シュトラムは、悪霊だった時代がある。

 自然と脳裏に浮かび上がった情報を前に、魔鬼も、乙瓜も、遊嬉も、そして杏虎も。皆が一斉に目を見開く。同時に資料室の風景がぐにゃりと歪み、再び世界は闇へと帰した。
「二つ目の記憶が終わった……!」
 闇の中、遊嬉が呟く。
「どうしよう、今のが当たりか? だったらっ……」
「いいや、きっと今の記憶じゃない。何となくだけど……ここがエリーザの記憶の世界だからなのかな。そんな気がする」
 不安がる乙瓜に答え、魔鬼はふっと彼方へ目を向けた。その方向から新たな光が起こり、全ての景色を塗り替える。
 閃光が辺り一面を覆う瞬間、杏虎は言った。
「三番目の記憶の再生が始まるね――」

 第三の記憶は、再び明治の記憶であった。エリーザ・シュトラムの生前。まだ赤マントになるより昔。
 教科書の挿絵でしか見たことの無いような街並みに浮かびながら、美術部はエリーザの姿を見つけていた。
 彼女の姿ははじめの記憶と比べて随分成長しており、丁度美術部の知るエリーザと同じくらいの外見年齢となっていた。ただ、珍奇な恰好をしていない分現在よりも大人びているように見えたが。
 髪は現在のショートではなく二つの三つ編みを垂らしており、何処かに買い物にでも出かける様子であった。
 その姿を追う最中、美術部の脳内には予備知識・・・・が入り込んでくる。
 記憶の中の現在は医師シュトラムの来日から五年後、エリーザは13歳の少女となっていた。幼き日に彼女を悩ませた言葉の壁は現在では殆ど無いと言っても過言ではなく、こうして一人で買い物に出かけることも出来るようになっていた。
「よかったねえ。あれから友達も出来て、道行く人とも大分話せるようになったみたいだ」
 安堵する魔鬼の横で、しかし遊嬉は難しい表情を浮かべていた。
「遊嬉? どしたん?」
「……いや、思ったんだけど……」
 不審がる魔鬼にそう前置きし、遊嬉は言った。
「エリーザがあたしらの知ってるくらいの年齢になったって事は、これからあの子……死ぬって、事だよね?」
「あっ……」
 忽ち、魔鬼の表情から血の気が引いた。傍らの乙瓜もまた表情を凍らせ、杏虎は少し不機嫌な表情で横を向いている。
 そうだ。そうなのだ。魔鬼は気づいた。夢想の悪魔・エーンリッヒの示した一際輝く記憶の欠片は、エリーザにとって思い入れの強い記憶たち。ならば、この明治の過去に人間であり、平成の現代に学校妖怪等という存在となっている彼女にとって。無条件で思い入れの深いものとなるであろう記憶が、一つだけあるではないか、と。
 死んだ日の記憶。生きていた日の最後の記憶。
 ――エリーザ・シュトラムは、悪霊だった時代がある。二つ目の記憶世界で与えられた情報。それが確かであるならば、エリーザの死の記憶は――。
 それに気づいてしまい、魔鬼は無意識のうちに口を手で覆った。見下ろす先のエリーザは、記憶の世界のエリーザは。そんな事など露知らず、ご機嫌に鼻歌など歌いながら、軽快な足取りで街を歩いて行くのだった。
 ああ、これがこれから死に行く者の姿なのだろうか。魔鬼は思った。丁度今の自分達と同じ年頃の彼女は、丁度今の自分達と同じように。明日からも昨日までと変わらず生きていくと信じて疑って居なかったろうに!
「……っ、止めなきゃ! 今止めれば、エリーザは……!」
「馬鹿、何言ってんだ魔鬼! これは只の記憶の中だぞ、もう終わってるんだ!」
 思わず手を伸ばしかけた魔鬼を引き留め、乙瓜は叫んだ。
「仮にこの記憶だけ変えたってエリーザは生き返りはしない……! 俺たちが助けるのは現在いまのエリーザであって過去の世界こっちのエリーザじゃないんだっ……!」
「分かってるよ、でもっ……、……ッ」
 言い返しかけた言葉を飲み込み、魔鬼は堪らず顔を覆った。彼女は丁度見てしまったのだ。いつの間にか進んだ場面で、エリーザが道で待ち伏せていたガラの悪い男たちに攫われていくのを。
 ごろつきか、それとも『人攫い』か。男たちはエリーザの細腕を掴んで人目の少ない道へと強引に連れ込むと、抵抗する彼女を簀巻きにして何処へかと連れ去った。記憶の主たるエリーザの視界が途切れたからか、世界は一旦暗転する。
 そして、後に復帰した視界の中で。飛び込んできた光景に、魔鬼のみならず皆が目を背けることとなる。
 薄暗い、どこかの小屋の中。身ぐるみを剥がれたエリーザは、自らを攫った男たちに生きたままその肉を切り刻まれ、削ぎ落されていた。
 男たちが何故にそのような事をするのかは分からない。狂人か、猟奇趣味か、それともこの時代まだ一部に存在していた異国の者に対する迷信故の凶行か。いずれにしろエリーザ自身がそれを知る事が無かった故に、美術部もまたその理由を知らない。知りたいとも思わない。
 確かなのは、比較的グロいものを見慣れている筈の杏虎ですら目を背けるような光景がそこに在ったと言う事と、魔鬼が目を瞑って顔を覆っても尚聞こえる様な声でエリーザが叫んでも、誰も助けてはくれないような場所がここであるという事だけ。
「何で、何で……!? 何でこんな……どうして……ッ」
 目を隠して尚進行の伝わる狂気の宴を前に、魔鬼は叫んだ。乙瓜はそんな魔鬼を後ろからそっと抱き留め、それから彼女二つの耳をそっと塞いだ。耳を覆うものを自ら放棄した彼女は、歯を食いしばってエリーザの悲鳴に耐え続けた。
 遊嬉は血が滲むほどに唇を噛みしめ、杏虎は固く拳を握りしめる。四人はその時間が終わるのを、只々待つ事しか出来なかった……。

 ……永遠にも思えた時間の後、エリーザの残骸はどこか井戸ような穴の底へと打ち捨てられる。そんな段階になって尚、彼女にはまだ息があった。
 深い穴の底へ。暗闇の底へ。落ちる恐怖を知っていた。もう動かせない体を苛む痛みと、背筋を駆け抜ける冷たい悪寒を感じていた。
 泣いて謝って許しを請うても、止まる事無い理不尽な暴力がある事を。叫んで喚いて助けを請うても、物語のようには行かないという事を。彼女は最期に知ってしまった。

 ――後悔。こんな事になるならば。もっとしておきたいことがあったし、会って話しておきたい人たちが居た。この日あの時間に出掛けて行かなければ良かった。
 ――懺悔。こんな事になるならば、些細な言い争いをした人々に謝っておけば良かった。もっと人のいう事を聞いて置けばよかった。お父さん、ごめんなさい。
 ――怨讐えんしゅう。決して許さない。自分をこんな目に逢わせた人々を。例え動けずとも、この身が果てようとも。決して決して許さない……許さない。
 ――恐怖。やっぱり、こわい。死ぬのは怖い。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……!

 感情の奔流。走馬灯。その大きな波は記憶世界の部外者たる四人に容赦なく襲い掛かり、遂に耐えきれなくなった魔鬼が叫びをあげる。
 次の瞬間、世界は終わった。今までのように徐々に消えゆくのではない。唐突に、何の前触れもなく。テレビの電源が落ちるように、あっけなく。
 世界は、終わったのだ。エリーザ・シュトラムという人間の人生は、そこで終わりを告げたのだった。
 第三の記憶・死の記憶が終わる。魔鬼は未だに叫び続けている。彼女はエリーザの記憶と深く同調してしまっていたのだ。
「おい魔鬼、魔鬼! しっかりしろって! おいッ!」
 乙瓜が肩を掴んで揺さぶる中、闇に沈んだ世界の彼方から次なる記憶世界の始まりを告げる光がやってくる。未だ魔鬼が元に戻らない中、美術部四人はその閃光に包まれ、そして。

 最後の記憶の再生と共に、黒梅魔鬼は姿を消した――。

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