怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ④

 魔鬼とアルミレーナが邂逅を果たしている頃、彼方二年一組教室ではとんでもない騒ぎとなっていた。それは何もここ二年一組にのいちに限った事では無く、隣の二組でも、一年教室でも、二階の三年教室でも同じ事であろう。
 放送室前で発生した傷害事件と、校内に侵入した"切り裂き魔"。そのニュースはあの場から教室方面へと逃げ出した生徒によって瞬く間に伝えられ、生徒達は平穏な日常から一転・混乱と恐怖の底へと叩き落とされたのである。
 生徒の速報・・からやや遅れ、職員室から放送が入る。「手近な教室に入り鍵を閉めて絶対に出るな」という単純シンプル且つ直接的ストレートなお達しが、生徒達の更なる不安材料となった事は言うまでもない。
 ある者はすぐそこにある恐怖に怯えてうずくまり、「もう帰りたい」と頭を抱えた。またある者は異様な事態を前に興奮し、野次馬精神丸出しで扉の近に構えている。いざという時教師が必ず助けに来るとも限らないと、箒やデッキブラシ等の掃除用具で武装する者もあれば、いつでも逃げ出せるように外窓付近に待機する者も居る。
 既にいつも通りの北中の姿は崩壊し、誰もがテレビの中の遠い世界と思っていた恐怖と混乱の光景が広がっていた。……いつも通り・・・・・だなんて、何事もない毎日がずっと続くだなんて。そんな保障は今までだってどこにも無かったというのに。

 もはや殆どの生徒が自分の事しか考えていない無法地帯と化した教室の中で、美術部の彼女たちは。混乱の最中姿を現した火遠・花子さんらによって、状況の仔細を伝えられていた。……【月】の襲撃、エリーザの暴走。その全てを。

 エリーザは操られているというわけではない事。【月】の怪しげな研究の成果によって自分自身の意志と記憶をバラバラに砕かれ、『怪人赤マント』の怪談本来の力のみが暴走している状態であるという事。砕かれた時点で「人間ヒトを傷つけよ」という命令が与えられたようだが、それは暴走の起爆剤としての効果しかなく、その後にどう行動するかまでは【月】の者すらも知らないという事。
 斯くして純粋に人を傷つける為だけに行動する怪物と化したエリーザは、既に六人の人間に危害を与えているのだと、彼らは語った。

「……エリーザをおかしくしたそれを、【月】の使者――神楽月はダーツと呼んでいたわ。そして逃げ去った。……ああ、私がちゃんと付いていなかったから……!」
 花子さんは悔し気に顔を歪め、涙を湛えた目を両手で覆った。傍らの火遠も表情を暗くする。
「いいや……花子さんは悪くない。【月】がまた良からぬ企てをしている事に気づいていながら何も出来なかった、全ての責任は俺にある。……だが奴らめ、よりにもよってこんな邪道を」
 火遠はチッと小さく舌打ちした。
「現状だけど、エリーザには姉さんの方で封縛を掛けているから、それが破られるまでは動けないし攻撃も出来ないと思う。けれどこの後の処遇をどうすべきか……。一応この世のものではないから警察には確保出来ないだろうけど、最悪の場合は消滅させることに――」
「駄目よ! それだけは絶対に駄目!」
 最悪の結末を口にしかけた火遠の胸倉を乱暴に掴み、花子さんは叫んだ。
「例え感情のない怪物に堕したとしても、あの子は私たちの仲間なのよ!? 今は無理矢理あんな風にされてしまっただけ……! なのにそんなッ……酷過ぎるじゃない……!」
 ぽつりとぽつりと雨のように。花子さんの足元に雫が落ちる。それは涙の雫だった。やり場のない怒りを込めた瞳を火遠に向けながら、花子さんは静かに落涙していた。
 そんな彼女に気の毒そうな視線を向けながら、火遠はグッと眉根を寄せる。そんな彼らを見るに見かね、乙瓜は遂に口を開いた。
「な、なあ火遠。何とかしてエリーザを元に戻せないのか?」
「……俺たちの力じゃあどうしようも出来ないだろうね」
 残念そうに溜息を吐いて、しかし火遠は続けた。
「だが……そうだね。全く手段が無いというわけでもないな。只、その為には今ここに居ない奴の力が必要なんだ。……夢想を渡り深層心理に通じる底に潜む悪魔、その力に通じている魔女の力が――」
 言いながら火遠は苦い表情を浮かべた。
 そう、彼の挙げるその魔女の名こそヘンゼリーゼ。【青薔薇】の中心人物。裏の世界に通じ、十の悪魔を従える漆黒の魔女。人間を食い物にし、それ故に人間を守るという歪んだ理由から【灯火】に協力する女。
 そんな彼女の、腹の内では何を企てているか分からない、美しくも怪しい笑みを。火遠は思い出したのである。――果たして、本当に彼女に頼るべきなのかと。
 だがそんな彼の心情など乙瓜が知る筈もない。
「そいつが居れば何とかなるんだな!? じゃあ早いところ呼んでくれ!」
 乙瓜は強気に身を乗り出して火遠に請い、次いで両隣の杏虎と遊嬉の様子を窺った。
 杏虎は割と軽い調子で、「それでいいじゃん?」と頷いている。遊嬉の方はというと、珍しく乗り気でない様子で考え込んでいた。
 そんな遊嬉の様子を不審に思って首を傾げ、乙瓜は彼女の肩を叩いた。
「いやちょっと、遊嬉もぼーっとしてないで何とか言ってくれよ?」
「あ! いや……ごめん。ちょっと考え事してた、ごめん」
「……?」
 妙にぎこちない反応に乙瓜が首を傾げる最中、遊嬉は「火遠に任せる」と、これまた珍しい事を口にした。普段ならば手段があると分かった時点でそうしてくれとせがみそうなものだというのに。
(こいつの給食だけなんか変な物でも混じってたのか……?)
 遊嬉の行動に対する違和感を拭えぬまま、乙瓜は再び火遠へ目を遣った。難しい表情を浮かべていた火遠は小さく溜息を吐き、それから相変わらず涙目のまま己を睨んでいる花子さんに目を向けて。観念したように口を開いた。

「……わかった。今回ばかりはあいつに助けを請う事にしよう」

 言って、彼が何かしらの行動に移ろうとした、その時だった。
 教室の入口側で、誰かが「ひっ」と悲鳴を上げたのは。直後ガラリと引き戸の開く音が鳴り響き、周囲はざわりとどよめきだす。
 そんな馬鹿な、と乙瓜は思った。否、乙瓜だけでなく教室中の誰もがそう思った。何せ、扉の鍵は閉ざされているのだ。美術部を除く殆どの生徒が階下の状況を知らず、いつ上階に上がってくるとも知れない不審者に怯えるこの状況下、誰かが態々鍵を開くものだろうか?
 実際、扉付近に居た生徒は直前まで錠のつまみが下がっている事を確認しているし、解錠の為の鍵も教室の中にある。そう、不可能である筈なのだ。窓を割るならまだしも、扉を開けて・・・・・教室内に侵入するのは。
 否、ともすればそれは職員室のマスターキーを使えば可能となるであろう。しかし――しかし。最も近くで扉の様子を見ていた生徒は知っていた。錠のつまみは上がっていない・・・・・・・・・・・・・。そもそも開かれていない事を知っていた……! そしてその開く筈の無い扉が開くと言うあり得ない現象を見て、彼は悲鳴を上げたのだ。
 遂に声を上げて泣き出す女子と、一瞬にして表情を強張らせる野次馬男子。武器・・を持った生徒が構える中、それは静かに姿を現した。
「少し騒がしいわね。暫くの間静かにしていて貰えるかしら」
 状況にそぐわぬ冷静な声。僅かな憂いの気配を含んだそれが教室中に行きわたると同時、叫び出しそうな程に口を開いた生徒が、箒を構えた生徒が、ベランダ側に逃げ出そうとした生徒が。まるで繰人形の糸が切れたかの如く、次々と床に倒れ伏し始めたのである。
 あれよあれよの内に教室内を満たすのは、静かで穏やかな寝息。先程とは違った意味で異様な空間の中に於いて、乙瓜ら美術部と火遠・花子さんの妖怪勢だけが健在でいる。
「な……何だこれ!? 一体何がっ……」
 乙瓜が漸く慌てふためきだした中、それは倒れ伏した生徒の間を縫って一歩踏み出した。カツ、カツと靴の音。明らかに上履きのゴムとは異なるその音に、皆一斉に視線を向ける。そして、驚愕する。
 乙瓜も、杏虎も、遊嬉も、花子さんも、そして火遠も。皆目を見開き、驚きを込めてその人物を凝視する。
 そんな集中砲火のど真ん中で。彼女は――アルミレーナは。小さく息を吸った後、火遠だけを真っ直ぐに見つめて言った。

「やっと――会えたわね」

 直後、暫しの沈黙が流れた。誰も縫い付けられたように動き出さない。凍ったような時間の中で、乙瓜ははっと思い出す。
 アルミレーナ。あの七瓜や三咲と共に居た少女。そして、火遠が娘と呼んだ存在。それを知らされたあの祭囃子の夜、火遠が見せた寂しげな表情。それを思い出して、乙瓜は恐る恐る火遠に視線を向けた。
 火遠は。彼に残された右目を極限まで見開き。己が前に現れた少女の姿をまじまじと見つめていた。その焔を宿した視線の先には、同じく焔を宿す二つの瞳がある。
 見つめ合ったまま、どれ程の時間が流れただろうか。一分か、数十秒か、それともほんの数秒だったか。永遠にも思える時間の後、火遠は言った。
「アルミ……レーナ」
 彼女の名を。どこかぎこちなく、そして確かめるように。対するアルミレーナは口を真一文字に結んだまま、その瞼を僅かに下ろした。その表情は怒っているようでもあったし、悲しんでいるようでもあった。
 そんな彼女の背後から、不意におずおずと顔を出す者があった。それは黒梅魔鬼だった。
「魔鬼?」
 驚き声を上げる乙瓜に、魔鬼は「や」と、少し気まずそうに返事をした。
「なんでお前、そいつと知り合いなのか?」
「いや、知り合ったばかりだけどさ……なんかこの人が力貸してくれるとかなんとかで……」
 魔鬼は乙瓜にそう答え、僅かに頬を膨らませた。そんな魔鬼の様を見て、乙瓜より先に火遠が反応した。
「力を貸す、だって?」
 眉を顰めて問う火遠に、アルミレーナは「ええ」と頷く。
「どの道貴方は魔女を呼ぶつもりだったのでしょう? ならば態々深淵の彼方に潜む彼女・・を呼び出すまでもなく、この私が力を貸すわ。このアルミレーナ・エリス・ガーデン・クロウフェザーが。その名に於いて。力を貸すと言っているのよ」
 恐ろしく自信たっぷりに言い切って、彼女はフッと笑った。誰かによく似た表情で笑った。その誰かの張本人たる火遠は、眉をピクリと動かした後、疑る様にこう問いかけた。「君にできるのか」と。
「愚問ね。私を誰だと思って居るの? ――貴方は知っている筈でしょう?」
 猜疑の言葉を一蹴し、アルミレーナは改めて皆に目を遣る。急展開に只々固まる乙瓜と、事の流れるままにと却って堂々としている杏虎、何やら難しい表情の遊嬉と、己が近くで不安な表情を浮かべる魔鬼。そして泣き腫らした顔の花子さんに目を遣って、彼女はふと目を閉じ腕組みした。
「赤マントの娘は元に戻るわ。けれどそれは私が何かをするからじゃない、貴女達があの子を救うのよ。あの子の壊された心の残骸から、埋もれてしまった大切な過去を見つけ出すの。あの子が今日のあの子に成るに至った根幹を。貴女達の力で捜し当てるのよ」
「心の中で埋もれた過去を捜す……? そんな、そんな事が出来るわけ?」
 問う遊嬉に、アルミレーナは「ええ」と頷く。
「出来るわ。私が夢想の世界への扉を開く。夢想の世界は全ての存在の夢の底――言うなれば心の奥へと通じる道。そこを通じ、貴女達はあの子の心の中へ飛ぶ」
 まるで夢物語のような話を堂々と語るアルミレーナ。しかしその場にその話を否定する者は一人もいない。乙瓜も、魔鬼も、遊嬉も、杏虎も。皆多少心当たりがあるからだ。ここではない場所に通じる空間について。妖海、神域。全くの異空間に飛ぶ方法があるのならば、心の中だなんて突拍子もない場所に飛べる方法があっても不思議ではない。
 戸惑いつつも顔を見合わせ頷き合う、彼女らの心は既に決まっていた。――エリーザの心へ飛び、大切な過去を捜す。
 意を決する美術部の傍らで、花子さんが言う。
「……その、心の中って。私でも行けるのかしら」
 恐る恐ると呟きながら、花子さんは腕に抱えた何かをぎゅっと抱きしめた。それはエリーザの落として行った赤い帽子だった。
 彼女は屋上でエリーザから目を離した事を悔いていた。それその行動自体に一片の落ち度も無かったのにも関わらず、だ。
 出来る事なら自分自身の手でエリーザを救いたい。それが花子さんの真剣で切実な願いであった。……しかし、アルミレーナは首を振る。
「残念ながら貴女には行けないわ。心の中は剥き出しの精神の世界。彼女達のような人間なら兎も角、現状が霊体という名の精神体のみで成り立っている貴女では、赤マント娘の記憶と混ざり合って消滅してしまう可能性があるわ。例え怪談という肉を持っていたとしても、よ」
「……っ、そんな……」
 花子さんは言葉を詰まらせ首を垂れた。
「花子さん……」
「……いいのよ乙瓜」
 心配して歩み寄った乙瓜の手を制し、花子さんは顔を見せないままでエリーザの帽子を差し出した。
「あの子を頼むわね」と。それだけ言うと、花子さんは煙のように姿を消してしまった。
 彼女はこれから声を上げて泣くのだろうか。誰とでもフレンドリーでありながらプライドの高い花子さんの事を思いながら、乙瓜は預けられた帽子に目を落とした。
「覚悟は決まったかしら?」
 その頭に、アルミレーナの声がかかる。乙瓜は口を結んでキッと顔を上げ、杏虎と遊嬉に、そして魔鬼へと視線を遣った。
「……行こう。俺たちで」
 乙瓜の言葉に皆頷く。アルミレーナはそれを最終決定と受け取り、承服したように頷き、天に向かって右手を掲げた。

「六つの魔導六芒星ヘキサグラム、黒きいばら紋章エンブレム! 魔女の森の夢羊を呼び覚まし、夢想の鍵たるその杖を我に与えよ!」

 伸ばした手の先に紅い光が生まれ、光は間もなく魔法陣の形へと生成される。その中心からは雷鳴走るような縦一直線の先行が走り、それは直後アルミレーナの手の中で一本の奇怪な杖へと形を変えた。
 一見して巨大なフォーク。見ようによってはよく空想上の悪魔の持っている三又の矛にも似ているか。目分量でもアルミレーナの身の丈よりも長いとわかるその杖は、教室の明かりを照り返して翡翠色に怪しく輝いた。
 アルミレーナはそれを天井を刺さんばかりに掲げると、呪文の続きを詠唱する。

「夢想の杖よ、夢とうつつの狭間を穿ち、夢想の扉を今こそ開け!」

 刹那、杖の先端が鋭く光り、アルミレーナはその光で天井に円を描くよう杖を振るった。
 くるりと一回り円を描くと、円の内となった空間はぐにゃりと歪み、そこに真っ黒な穴を生じさせた。
 その黒穴をフォーク・・・・穿つ・・と、アルミレーナは杖をゆっくりと水平に下ろして行く。すると黒穴もまたそれに合わせるように空間を移動し丁度教室の中心付近で止まった。
 教室の中央にぽっかりと黒い穴が開いている光景。見るも不思議なその光景を前に息を飲む美術部員に、魔女は言った。
「それが夢想の扉よ。夢想の世界に行くならば、恐れずその穴に飛び込みなさい!」
 その強い言葉に後押しされ、乙瓜は穴に飛び込んだ。魔鬼と杏虎も後に続き、最後に遊嬉が飛び込んだところで穴は消滅した。
「それでいいのよ、勇気ある子たち。後の事はあちらの住人が教えてくれる」
 消えた美術部員達の背の名残に目を向けたまま、アルミレーナはそっと呟いた。後に残るは眠る生徒に埋め尽くされた教室と、いつの頃からか黙り込んだ火遠のみ。
「……君はヘンゼリーゼの意志でここに来たのか?」
「私は私の意志でここに来たのよ。例えそこにヘンゼリーゼの介入があったとしても。最終的に何を成すべきかを決めるのは私だわ」
 思い出したように口を開いた火遠にそう返し、アルミレーナは顔を上げた。
 再び重なり合った同じ色の瞳。別々の国の名を持つよく似た顔の二人は、しばしそうして見つめ合う。彼方から響くサイレンは救急車か、パトカーか。すっかり壊れた日常にこだまするその音をBGMに、アルミレーナは静かに言った。
「二十年ぶりくらいかしらね。――父さん」
「覚えて……いたのかい?」
「忘れていたわ。でも、時々聞く名前に薄々そうじゃないかとは思っていた。直接会って確信に変わった。……それだけの事よ」
「…………そうかい」
 火遠は何も言わなかった。アルミレーナも、それ以上は何も言わない。

 穏やかな日差しの照らしていた午後の空は陰り、何か良からぬ兆しを伝えるようだった。
 美術部の向かう未知の世界。その先に待ち構えているものが、せめて過酷な試練でないことを。火遠はそっと祈るしかなかった。

HOME