怪事捜話
第十二談・トロイメライデストロイ③

「――あれ? 何ともない……?」
 何時まで経っても己の身に何の異変も無い事に疑問を抱き、魔鬼はハッと目を開いた。
 エリーザから処刑宣告・・・・が下されようとしていた瞬間から、時間にしてほんの十数秒。しかし魔鬼の瞳が映し出したのは、たったの十数秒前まで立っていた一階廊下ではなく。ピアノや木琴等の楽器が静かに佇む、誰も居ない音楽室の光景であった。脚に触れる冷たく無機質な感覚に目線を落とすと、床材の紅いリノリウムが自然光を緩やかに反射している。どうやら現在の魔鬼は、音楽室の床にへたり込む形となっているらしい。
 現在地点が全く見知らぬ何処かでない事には一応の安心を覚えた魔鬼だったが、しかし音楽室は三階である。どう頑張ってもあの一階廊下から十秒足らずで移動できる場所ではない。それこそ、魔法でも使わない限り。
 狂気的な現象に重なる不可解な現象を前に、魔鬼は目を白黒とさせた。混乱、困惑。とりあえず自分が助かったのだという現状を飲み込んだ後、彼女の頭を過ったのはエリーザの異様な姿と血塗れの廊下。
「……ッ! そうだ私、早く止めさせないと!」
 魔鬼は弾かれたように体を動かし、立ち上がるべく右側にある机へと手を伸ばした。――その時だった。彼女が手を伸ばさなかった、左側の机の上から、誰かの静かな声が響いたのは。
「駄目よ。貴女、死にたいの?」
 憂いと呆れの色を帯びたその声に魔鬼は全く聞き覚えが無かった。恐る恐る顔を上げると、左の机上には少なくとも北中のものではない制服に身を包んだ、細身で色白の少女が足を組んで腰掛けていた。大凡おおよそ端正と現わして差支えないその顔には、どこか詰まらなそうな表情が貼り着いている。
 彼女は赤々とした長髪をさらりと掻き上げると、同じように赤く紅く、燃えるほのおの色を宿した瞳をじとりと魔鬼へと向けた。
 その、どこか見覚えのある赤色と俗人離れした佇まいを前にして、魔鬼はふと火遠を思い出した。かつて相棒である乙瓜がそう感じたように。魔鬼もまた、その少女の姿に火遠の面影を見たのである。
 それが魔鬼と少女――魔女アルミレーナとの最初の出会いであった。
 アルミレーナ。魔鬼が未だその名を知らぬ魔女は、依然机上にその身を置いたままで言葉を続けた。
「あれはただ正気を失っているわけではない。心を壊されている。それでも戦うつもりであれば、滅ぼすか滅ぼされるかの覚悟で行きなさい。知った顔だからと、戦いの最中さなかで正気を取り戻すかもしれないと。そんな淡い期待は抱かない事ね。……何も出来ずに死ぬだけよ」
 淡々と告げて、彼女はすっと瞼を下ろした。脚組解いて立ち上がると、整ったプロポーションが強調される。身長はともすれば170近くあるだろうか。魔鬼に背を向けた彼女はモデルのようにすらりと伸びた手足を動かし、靴を鳴らしてカツ、カツ、カツと三歩進んだ。そんな動作が形容しがたい程美しく、魔鬼は思わず喉を鳴らした。……魅了されてしまったのだ。ほんの一瞬、少女の歩くただの音楽室の床を煌びやかなランウェイに錯覚してしまう程に。
 しかしながら、しかしながら。そんな錯覚を振り払うように頭を振ると、魔鬼は己が内に生じた疑問を声へと変換した。
「……誰なのさあんたは。その口ぶり、エリーザ――赤マントがおかしくなっちゃった理由を知ってるのか? 心を壊されたって言うのはッ!?」
 言いながら改めて立ち上がる魔鬼を振り返り、赤毛の少女は小さく溜息を吐いた。
「そのままの意味よ。心とは積み重ね。己が己として成立してから今日までの積み重ね。己を己として形成するもの。根幹。最も大切な所。それを壊されたと言っているの。……貴女、誰にも言わなかったのね・・・・・・・・。伝えられた言葉を」
「何……?」
「知っている筈よ。あの体育祭の昼、確かに伝えられたのだから」
 少女の意味深な物言いに、魔鬼は一時眉をひそめた。何を言っているんだと、頭の中を疑問が過る……が。直後彼女は思い出す。「伝えられた言葉」「体育祭の昼」――そのキーワードから導き出された、つい先日の出来事を。

 ――私は……ただ、ここへ行くように頼まれただけ……。貴女達に伝えるために……。
 ――【月喰の影】がやってくる。明確な悪意と明確な敵意を持って、日常を脅かしにやってくる。それは【いつか】なんて不確定未来じゃなくて、目と鼻の先【間もなく】。その未来が現実となった時、ヘンゼリーゼは動き出す。

 あの体育祭の昼、七瓜の放った予言めいた言葉。誰かから自分達への伝言。それが脳内で閃光の如く蘇り、魔鬼はあっと口を開く。
「お前っ、七瓜のッ!」
「ええ、そうよ。私は七瓜の友人で魔女。……折角助けてあげたというのに、お前だなんて随分な言われようね。……でもそうね、私と貴女が直接顔を合わせるのはこれが初めて。呼ぶべき名を知らない貴女がそう呼んでしまうのも、まあ仕方のない事だわ」
 驚き目を剥く魔鬼を前にして、少女は涼しい顔で前髪を払い、そして言った。
「私はアルミレーナ。アルミレーナ・クロウフェザー。そして貴女の名前は名乗られずとも知っている。クロウメマキ。魔法に魅入られた娘」
 小首を傾げるアルミレーナ。魔鬼はそんな彼女に向ける視線に僅かな警戒の色を混ぜた。「七瓜の友人」という発言ワードがどうにも引っかかっている様子である。
「……どうして魔女が北中ここに。まさかエリーザをおかしくしたのは――」
 疑念たっぷりに表情を険しくする魔鬼に、アルミレーナは小さく首を左右に振った。
「勘違いしないで。私は居合わせただけ。私たちはこの学校に何もしない、そういう約束。だからあのの事で貴女が私を疑うのは筋違いよ」
 否定し肩を竦め、彼女は「あの娘を壊したのは【月】の連中よ」と続けた。
「【月】? それって、世界を征服するとかしないとか云う妖怪連中のことか?」
「……貴女はそういう風・・・・・に聞かされているのね。まあ、あながち間違いでは無いから訂正はしないわ。そうね、その【月】よ。その月があの娘の心を壊し、最早もはや言葉の通じない、人を襲い続けるだけの化け物へと変えてしまった」
「そんなッ、なんだってそんな酷い事を!」
 アルミレーナがさらりと言い放った言葉に憤り、魔鬼は自然と拳を握りしめた。片やアルミレーナは涼しい表情を崩さぬまま腕組みし、静かな声で魔鬼の言葉へ答えを返す。
「奴らは酷いとすら思っちゃいないわ。奴らの狙いは貴女達人間の世界を壊す事。中途半端に人間にくみするようなものは同朋にあって同朋にあらず、……これは見せしめなのよ。逆らうものはじきにこうなると。絶望と恐怖を与える為の」
 言い切り、アルミレーナはまた小さく溜息を吐いた。一瞬の静寂。その刹那を縫って、遥か階下からの悲鳴が空気を揺らす。それを聞いて魔鬼は思い出す。そうだ、まだあの異様な状況は終わっていないのだと。自分だけ一時安全圏に逃れただけで、エリーザの暴走と生徒襲撃についてはまだ何も終わってはいないのだと……!
 魔鬼は考える。事が事だけに、今回は警察救急沙汰になるだろう。それ以前に、教師たちも対不審人物用の備えをして動き出す筈だ。……だが相手は人ならざる存在、人を動員すれば動員するほどいたずらに被害者を増やすばかりである。
(行かなきゃ……私が、私たちが行かなきゃ……! 今よりももっと最悪の事態になる前に、私たち美術部でエリーザを止めなきゃ……!)
 地獄のようなあの場から離脱して、もう何分が経過しただろうか。もしかしたら既に乙瓜たちが動き出しているかもしれない。そう考え、魔鬼は居てもたってもいられずにその場から走り出す。
 音楽室の閉ざされた扉の硝子越しに見える廊下は、授業時間だからという理由以上に静まり返っている。その違和感の理由を探るべくよくよく見てみれば、全ての教室の扉は固く閉ざされているようで、廊下側の硝子には不安気な表情で外の様子を窺う生徒たちの姿が見られた。あの場から逃げおおせた誰かが伝えたのであろう、皆未知の脅威に怯えて立て籠っているのだ。
 そんな現状を見てしまったとなっては益々此処に留まる理由も無い。魔鬼は意を決してドアノブを回し、脅威待ち受けるあの場所へ向かうべく、廊下に向けて一歩を踏み出そうとした。
 その背に向けて、アルミレーナは問いかける。どうするつもりなの、と。
「初めに言った筈よ。戦うつもりなら、滅ぼすか滅ぼされるかの覚悟が無いと駄目だと。もうあの娘には一片の躊躇ちゅうちょもない。それが知った顔の貴女達であれ嘗ての仲間であれ、あの娘は平気で攻撃を仕掛けてくるわ」
「そんなのわかってるんだよッ! でも行かなくちゃいけないんだよ! 今エリーザを止めないと、学校が益々大変な事になっちゃうじゃんか! ……どうするつもりも私は行くよ、エリーザを止めなきゃ。例え倒してでも……ッ!」
 叫び、魔鬼は奥歯をギリと噛みしめた。
(倒すことそれ自体は、きっとそんなに難しい事じゃないんだ……。乙瓜の護符の力があれば動きを封じる事くらい容易いだろうし、遊嬉や杏虎の力があれば、あの切り裂く能力を使われる前に消し去ってしまう事だってきっと出来る……けれどっ)
 どうしてか、こんな時に限って。あの滅茶苦茶な体育祭の時に見たエリーザの笑顔が脳裏を過り、魔鬼は苦悩に顔を歪めた。
「くそぅ……!」
 悔し気に呟き、魔鬼はやり場のない感情の籠った拳を扉に打ち付けた。踏み出そうとした足からは萎むように力が抜け、魔鬼は再びその場へとへたり込んでしまった。
 アルミレーナはそんな魔鬼を一瞥すると、やれやれと言わんばかりに腰に手を当てた。
「やはり貴女の中には躊躇いがあるのね。それを優しさと呼ぶべきか、非常において非情になり切れない甘さと呼ぶべきか……。口ではどう言おうとも、そんな思いじゃ貴女にあの娘は倒せないわ。他のお仲間の足手まといになるだけよ」
「……じゃあっ! じゃあどうしろって言うんだよッ!? 私には何にも出来ないから引っ込んでろって、態々それを伝えるためにやって来たのかよあんたはッ!?」
 怒りと悔しさと悲しみと。魔鬼が再び握りしめた拳を床にぶつけたその時、音楽室内の空気がざわりと動き出した。部屋中の窓という窓は閉ざされているというのに、まるで風吹くようにざわざわと。
「いいえ違うわ」
 アルミレーナは言う。その長い赤毛はによってざわりと靡き、魔鬼の瞳に炎と見せた。
 そして燃える炎のアルミレーナは、その小さな唇を微かに上げた。微笑びしょう。ほほえみ。その意味するものを魔鬼が知るよりも早く、少女姿の魔女は言った。

「私は力を貸しに来たのよ。魔鬼、甘ちゃんで優しい貴女に」

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