躯売家の玄関先に立ち、眞虚は深く深呼吸をした。
自らを落ち着けるように、ここから先自分たちが成そうとしている事についてある種の覚悟を決めるように。
肺の限界まで空気を取り込み、ゆっくりと吐き出す。
彼女の両隣には乙瓜と魔鬼の姿。
そこから一歩後ろには恐る恐るといった様子の明菜とつま先立ちで興味津々の柚葉が立ち、水祢の姿はというと玄関から離れた生垣の傍らにあった。
――自分なりに考えた結果がそれなら、やれるところまで一人でやりな。
再び躯売家へ向かう眞虚に対して彼が零した言葉だ。
その前言通り眞虚の「やれるところ」の範疇を超えるまで協力する気はないのだろう、つまらなそうに腕組みした水祢の視線は干からびた地面を行き交う蟻の行列へと向かっている。
だが、それでも尚姿を隠さずに居てくれるのは、彼なりの優しさなのかもしれない。
そんな契約妖怪をチラとだけ振り返り、眞虚は微かに震える指で躯売家のチャイムを押した。
経年でやや固くなったボタンが沈み、一瞬遅れて呼び出し音が鳴り響く。
閉ざされた扉の向こうで空気が震え、慌ただしい足音が彼方から此方へと近づいてくる。
そして見えざる何者かの気配がいよいよ扉の向こう側に立った時、何処かで微かに蛙が踏み潰されたような音が鳴った。
それは多分、誰かが生唾を飲み込んだ音だったのだろう。
その誰かは眞虚だったかも知れないし、魔鬼や乙瓜だったかも知れないし、もしかしたらその場に居た美術部全員だったかもしれない。
それが誰のものであろうがおかしくはない雰囲気が、そこには在った。
ただ同じ学校に通う生徒の家を訪問して、呼び鈴を鳴らしただけなのに。
どこを切り取っても不審な事はまるでない、日常的な行動だというのに。
……扉の向こうから漏れ出る異様な気配のせいだろうか、今眞虚達の立つ躯売家の敷地一帯には、妙に張り詰めた空気が充満していた。
特にチャイムが鳴らされてからは、あの柚葉でさえも黙り込んでしまうくらいに。
辺りは不穏で不快な空気で満ち満ちていたのだった。
そんな空気を破るように、玄関扉がギギギと音を立てた。
「……どちらさまでしょうか」
か細い声がして、軋むドアの向こう側から覗き込むような女の顔だけが姿を現した。
その頬はこけて目の周辺は落ち窪み、左の瞼の上や右の頬などは青紫色に腫れあがって、土気色の肌に不気味な斑模様を描いている。
そしてそんな肌の上には、瑞々しさを失った白髪交じりの髪の毛がぺたりと力なく寄り添っているのだった。
そんな、ともすれば亡霊のような女の登場に明菜は思わず悲鳴を上げかけるが、言葉が零れかけたのとほぼ同時にその口を両手で覆った。
少し考えれば分かることなのだ。
現れた女は十中八九躯売詩弦の母親だ。そして恐らく彼女は、娘のしでかした事が原因でこんな風に窶れてしまっているのだ。
恐怖に傾きかけたギリギリの理性でそう判断し、明菜はなんとか己の口を塞ぐことに成功したのだった。
一方、明菜が叫び出しそうになるほど変わり果てた詩弦の母親と真正面から対峙する眞虚は、眉ひとつ動かすことなく、毅然とした様子で口を開いた。
「詩弦ちゃんと同じクラスの小鳥です。体調が優れないらしいと聞いてお見舞いに来ました」
極めて冷静に告げて頭を下げる眞虚を見て、詩弦の母親は何を思ったのかハッと目を見開いた。
死んだ魚のような瞳に微かな生気の光が宿る。……しかしそれも一瞬の事、彼女はすぐさま元の生気のない表情へと戻ってしまった。
「……帰ってちょうだい。詩弦は、今は誰にも会えません」
か細さの中に静かな苛立ちを含んだ声でそう言うと、母親はそのまま再び扉を閉ざそうとした。
しかし眞虚は見越していたようにすかさず扉の隙間に足をねじ込み、既の所それを阻止した。
「何するんですかっ、やめてください……!」
予想だにしない眞虚の行動に思わず声を荒げながら、詩弦の母親は困惑していた。
今日まで訪ねて来た詩弦の友人や顧問の教師等の中で、ここまで強引に押し入ろうとした者は一人として居なかったからだ。
彼女は恐れていた。一週間前、娘が体調を崩したと言って部活動を休んだあの日から起こるようになった怪現象を。
娘――詩弦に接触しようとした者はほぼ例外なく見えない何かに襲われる。
何もないところで見えない何かに突進されたり噛まれたりするような感覚に襲われ、大なり小なり傷を負う羽目になる。
階段の途中で突き飛ばされ、顔面を強かにぶつけた。
洗い物の途中で膝に体当たりされ、手から滑り落ちたた皿が割れ、破片で手足に傷を負った。
地震でもないのに本棚から本だけが落ちてきて、全身を強く打った……等々。
例え信心深くなくとも「もしかしたら……」と疑ってしまうような現象の連続の末、藁をも掴む思いで縋った霊能者すらも凶事に見舞われてしまった現実を前に、彼女はこの先誰一人として娘に近づけまいと決めたのだった。
本当は誰かに救ってほしい、助けてほしい。しかし果たして寺や神社に相談していいものか。
またこの間の霊能者のようになってしまうのではないだろうかという一抹の不安が彼女の足を止めた。
近所の者や親しい友人などは尚更いけない。娘の友人も、担任も。
いくら自分たちが困っているからといえ、進んで他者を不幸にしていい道理があるものか。
――どうせ不幸になるのなら、自分達だけでいい。
どこか諦めにも似た願いを胸に、詩弦の母親はここ数日の間この家を訪れて来た人間を悉く拒絶し追い返してきた。――だのに。
今自分の目の前に立つ少女は拒絶の意志に屈することなく、それどころか近づけてはならないその先へと力ずくで踏み込もうとしてきている。
その事実に詩弦の母親は恐怖した。
仮にこの相手が警察だとか児童相談所あたりの職員であるならば、まだ話はわかる。
彼女自身、ここ数日の自分の態度を不審に思われ通報されても仕方ないと思う部分はあったからだ。
だが、現実としてそこに居るのは詩弦とクラスメートなだけの少女である。
過去に数度だけ詩弦の友人としてこの家を訪れて来たことはあるものの、部活動も違う筈だし、飛びぬけて仲がいいわけでもない筈だ。
そんな少女が何故ここまでするのか? 詩弦の母親にはそれが全く理解できなかった。
動揺は包み隠す事のない言葉となり、そのまま彼女の口から溢れ出した。
「何なのあなたッ!? 詩弦の何なのッ!? この家がどうなってるか分かってるっていうの!?」
大凡他所の娘に吐くべきではないような言葉を吐いて、彼女はドアノブを引く手に力を込めた。
何も痛めつける為ではない。牽制のつもりだった。容赦しない姿勢を見せれば簡単に引くだろうと思っていた。
しかし眞虚は頑として引かない。それどころか外側のノブを引いて何が何でも閉じさせまいと応戦している。
もう何が何だか分からずに怯える母親に向かい、眞虚は叫んだ。
「このままでいいと思ってるんですか!? 詩弦ちゃんは死にますよ!? いいと思ってるんですかッ!?」
途端、詩弦母がドアノブに込める力がさっと緩んだ。その隙を見逃さず、眞虚は一気に扉を開け放った。
そして扉と言う名の盾を失い顔面蒼白の詩弦母の前へと立つと、静かに一言。
「お邪魔させてもらいますよ」
一方、眞虚以外の四人はというと。
眞虚が玄関に足を捻じ込むという強引な手段に出た段階ですっかり呆気にとられてしまい、何もできないままその場に立ち尽くしていた。
「……凄いですね小鳥先輩」
柚葉がポツリと漏らす。明菜もそれに同意する様に頷く。
そんな二人を振り返り、魔鬼は言った。
「眞虚ちゃんはいざというときの地力が凄いから……」と。
同学年をしてしみじみと言い放たれた言葉に、後輩二人は普段優し気なあの先輩ばかりは敵に回すまいと心に誓ったのだった。
強行突入のような形で躯売宅に押し入った眞虚は、その場で腰を抜かしている詩弦の母に何の説明もせずに、乙瓜・魔鬼を引き連れて詩弦の自室へと向かっていった。
先輩三人が廊下の向こうへと消えていく一方、後輩二人は開け放たれた玄関先で未だ呆然としていた。
それもやむなし。二人はそもそも『犬の幽霊』の噂を追いかけて来ただけで(しかも明菜は半ば強引にだ)、殆ど縁もゆかりもない先輩宅に押し入るだなんて想定もしていなかったのだから。
どうしていいか分からない二人は、目の前で腰を抜かす赤の他人の親を只々見つめた。
顔だけでは老婆のようにも見えた詩弦母は、その服装や手足の皺の様子を見るに思ったよりも若い――四十歳代だろうか、明菜や柚葉の母親たちと大して変わらない年代のようだった。
しかしその手足の至る所に絆創膏や包帯だけでは隠しきれない傷や痣があり、この家が尋常ではない状態にあることは明白であった。
あまりに痛々しいその様子に益々何もできずに立ち尽くす明菜と柚葉に対し、彼女らよりもよほど困惑しているだろう詩弦母は、すっかり怯えた声音で問う。
「あなたたち……一体なんなんですか」
明菜と柚葉は顔を見合わせた。……なんなんだって、こっちが知りたいと。
たっぷり困ってじっくり躊躇した後、明菜は怖々と言った。
「北中美術部の者です……」と。
家の奥からは三人がバタバタと階段を昇る音が響き渡る。
その音に犬の唸り声のような音が混じり、詩弦母は短く悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
明菜は少し心配になって、見えざる階上を窺うように顔を上げた。
柚葉は一旦鳴りを潜めた好奇心が蘇って来たのか、今にも家の中へと上がって行きたそうにそわそわしている。
そんな三者とは距離を置いた生垣の傍で、ずっと蟻を観察していた水祢がふと顔を上げる。
しかし彼の視線は眞虚達が向かった躯売宅二階にではなく、生垣の外――躯売家敷地に接して走る四辻通りへと向かった。
昔ながらの土道をカラカラに罅割れさせた四辻通りには、人っ子一人の気配もない。
しかし水祢の青く輝く人外の瞳は、そこに確かに存在する何者かの気配を捉えていた。
「……居るんだったらこそこそしないで出てきたら」
気配を睨み、水祢は忌々し気に呟く。
刹那乾燥しきった空気がクツクツと震え、何もない虚空が陽炎のように揺らめいたかと思うと、和装の袖で笑う口許を覆い隠した黒髪の女がそこに姿を現した。
彼女は猫のような黄金の瞳をニヤニヤと歪ませると、水祢に対して慇懃に頭を下げた。
「暫くですわ、水月の」
「……琴月亜璃紗」
水祢がその名を口にすると、着物の女――亜璃紗は口許を隠していた着物の袖を下ろし、恐ろしいほど吊り上がったその口角を露わにした。
すっかり愉悦に染まり切ったその表情を前に、水祢の顔はいよいよ嫌悪の色に染まって行った。
「そう、お前だったわけか。この家の女に呪詛を吹き込んだのは」
眉間に皺寄せて問う水祢を見て、亜璃紗は再びクツクツと笑った。
そう、彼女こそは【三日月】――この世に人外の楽園を作る為に人類の追放を目論む組織【月喰の影】の幹部中の幹部にして、トップに君臨する曲月嘉乃の側近中の側近・琴月亜璃紗。人の世にありとあらゆる手段で呪詛をばら撒く毒婦であり、……水祢にとっては因縁深い相手でもあった。
「あらあらあら、お前だなんて。仮にも元直属の上司に向かって。……随分憎まれたものですわね私も」
亜璃紗は大げさに肩を竦めて見せた。
――そうなのだ。彼女は水祢の元上司。
かつてとある理由で水祢が【三日月】に所属していた際、彼と彼の同期(その中にはあの魅玄も含まれている)に幹部自ら教育係として仕事を教えていたのだ。
仕事とは即ち人の世へ呪詛をばら撒く事。
その時の経験が水祢の呪術への知識へと繋がっているのだが、現在【灯火】側に立っている身としては、その時の事を掘り返されるのはあまりいい気分ではない。
チッと一つ舌打ちし、水祢は亜璃紗を強く睨み付けた。
「そんなに情熱的に見つめられては困りますわ。うふふふ」
「黙れ。……そして何のつもり。お前の呪詛は成功し、この家の女は見事呪われた。そこに今更戻ってきて、今度は何を始めたいわけ?」
水祢は冗談めかして体をくねらせる亜璃紗に向けて鳥の式符を構えた。それは問答無用でいつでも攻撃できる臨戦態勢だった。
それを見た途端、亜璃紗の表情が激変した。
呆れと怒りと絶望と侮蔑、そのどれとも取れるが全く形容しがたい形相がそこに在った。
……水祢は僅かに鳥肌立った。あの水祢がだ。ゾクリとしたものが背筋を駆け抜け、一瞬足が竦む。
――こわい、などと。夜の闇すら恐れぬ身で、悪鬼悪霊すらものともしない身で。
そんな考えが頭を過ったのは、果たして何百年ぶりだろうか。水祢は思った。
(……この女は何か異様だ。何か……何か他の妖怪連中とは違う底知れなさを感じる。ともすれば兄さんよりも――)
水祢は無意識のうちに一歩だけ足を引いていた。
その瞬間には既に亜璃紗の表情は元の愉悦の笑みへと戻っており、顔を覆う袖の向こうからはクツクツとあの押し殺すような笑い声が漏れ出ていた。
「嫌ですわ、そんなに身構えて。今日はほんのご挨拶ですわ」
「挨……拶?」
呆けたように復唱する水祢に、笑い交じりで亜璃紗は続けた。
「ええ。ええ。貴方が契約を結んだあの娘。悪魔の卵を持つ彼女にどれ程の値打ちがあるものか、その下調べですのよ。丁度そちらも見定めている最中なのでしょう? その娘たちの力量を。だから私はお手伝いを少々……うふふ。させていただいただけですわ」
「……ッ、その為に! その為に呪詛を蒔いたか!」
「ええ。ええ! その通り! ……とはいえ人間もなかなか残酷ですことね。恋心と嫉妬心に少し付け込んでしまえば、小動物の命を屠る事すら厭わない! この家の娘が子犬を嬲り殺しにした時の表情ときたら、ンふふ……全く愉快痛快でしたわ! ……さあ! そこまでお膳立てしたんですから。私に見せて下さいな! 私の蒔いた呪詛の種を、貴方の契約者が見事打ち破ってみせる所を! 他でもない貴方の契約者、これくらい出来て当然ですわよね!」
押し殺す事無いケタケタ笑いを高らかに上げる亜璃紗を他所に、水祢の視線は躯売宅二階へと向かった。
四方のと窓を覆うカーテンに隠されたその空間からは、いつの間にやら壁を全力で叩きならしているような音が断続的に響いて来ている。
「小鳥眞虚……!」
どこか狼狽したように呟く水祢を見て、亜璃紗はフフフンと嬉し気に鼻を鳴らすのだった。
「さあ、さあ。見せて下さいな。神楽月が動くまでの、楽しい愉しい余興を……!」