怪事捜話
第十談・憑呪四辻デイドリーム⑥

 犬神。
 それは西日本に広く伝わるとされる動物を使った呪詛・呪法の一種である。
 餓えた犬の首を切り落とし、往来のある十字路に埋めて怨念を高めたものを呪物とするというのが有名か。
 或いはその亡骸を焼いた骨をまつると家に富をもたらすとも云われ、そういったものを代々祀っている家系を犬神きと呼ぶらしいが――。
 どちらにせよ重要なのは、犬神とは何らかの意図を持って作られた・・・・・・・・・・・・・・存在であるということ。
 その目的が他者を恨み呪う事であれ、己の私腹を肥やす事であれ、生きた動物を殺す事無しには成立しない。
 雑誌に載っている簡単な『おまじない』とはわけが違う、平均的な感覚の持ち主ならばまず躊躇ためらうような呪術を、躯売詩弦という少女は何故実行するに至ったのか。
 事の発端は、三週間前にさかのぼる――。

 ――三週間前のとある土曜日。
 丁度古霊町に厄介な来訪者が多数訪れていた最中のその頃、躯売詩弦の姿は剣道部の活動場である武道館の中にあった。
 あまり広くない武道館の中は、窓や扉を全開にして尚美術室以上に風通しが悪い。
 一応の措置として扇風機を全力で回しているものの、部員達が動き回るもので熱気は消し飛ぶばかりかこもる一方だ。
 顧問も流石にマズイと判断したのか、こまめに外に出て休憩するように促した。
 屋内もまた炎天下ではあったが、熱気の捌けない武道館内に比べたら何十倍もマシであった。
 その日もまた休憩を取るように促され、滝のような汗を流しながら練習に励んでいた部員たちは各々竹刀を置き、すっかり生温くなってしまった持参のスポーツドリンクのペットボトルを傾けると、砂糖に惹かれるアリのようにぞろぞろ歩きで屋外へと向かった。
 詩弦もまたその波に加わり、木陰を作る桜の木の下で漸く一息を吐いていた。
 アブラゼミとミンミンゼミの大合唱に、グラウンドやテニスコート、体育館で活動する他の運動部の掛け声が微かに混じる。
 ほんの僅かに風が吹き、茹で上がった体を優しく撫でた。
 自然、詩弦の視線はグラウンドへと向かっていた。
 そこには他校との試合を週末に控え、普段よりも一層力を入れて練習に励むサッカー部男子の姿があった。
 つい先日の古井戸の夢に関するちょっとした事件でレギュラーメンバーに幾らか変動があった彼らであるが、詩弦の視線は事件前から変わらず黙々と練習に励む一人の部員へと向かっていた。
 首買くびかい一縷いちる。詩弦とは、中学校に上がってこの方同じクラスのサッカー部員。
 活動的な部に所属する割に普段は必要最低限の事しか喋らず、何を考えているのか今一つ掴めない、ともすれば根暗な少年であるが、詩弦はそんな彼に惹かれていた。

 理由なんて些細なもので、美術の時間にちょっとした怪我をした詩弦に絆創膏を差し出してくれたのが偶々たまたま一縷だったというだけだ。
 偶々。そう、偶々。
 しかしその時その時点では、その出来事は詩弦が一縷を強く意識するほどの決定的な切っ掛けにはなり得なかった。
「偶々絆創膏の持ち合わせがある目立たないクラスメートが、ほんの少し優しさを見せただけ」程度の認識であった。
 だが、しかし。直後偶々・・、彼女の親友である綾刃の放った一言によって、詩弦の気持ちに変化が生じた。

「首買くん、無口だけどさりげなく優しいよね。ちょっとかっこいいし」

 何気ない一言だった。けれども切っ掛けなんて、それで十分だった。
 異性を意識し始めた年頃の少女が、クラスメートのちょっと目立たないだけの、根暗気味だが周囲に不快感を与える程でもない男子を気にし始める切っ掛けなんて、それで十分だったのだ。

 ――たしかにちょっと、かっこいいかも。優しいのは勿論だけど、他の男子みたいに下ネタで盛り上がってるの見たことないし、なんだか大人っぽい気もするし。

 気になって、今までなにげなく見過ごしていたことに思い当たって、強く意識するようになって。
 あっさりと、呆気なく。躯売詩弦は首買一縷に恋をしてしまったのだ。
 それは一方的な片思いだった。一度勇気を出して告白らしきものをしてみたもののまるで脈なしで、本人にはあっさり断られてしまった。
 失恋。初めての失恋。詩弦の気持ちは暗く沈んだ。
 しかしだからとて詩弦の想いが消えてしまうわけではなく、彼女の視線は相変わらず一縷を追い続けていた。
 どうやら一縷には他に付き合っている女子がいるわけでもなく、お節介焼きの友人がそれとなく尋ねてみた感じだと、別に詩弦の事がまるで嫌いというわけでもないらしい。
 何か他に専念したい事があって今は彼女を作らないと、そんな具合であるようなのだ。
 その情報を聞かされて、詩弦の気持ちは少なからず救われた。
「今は」ということは、将来的には希望があるという事。専念したい事が部活なのか勉強なのか、それともそれ以外の何かなのかは分からないが、他の誰かが好きというわけでもないならばいくらだって望みはあった。

 だから詩弦は待っていた。いつの日か、一縷の「専念したい事」に一段落着く日を。改めて彼に告白する日を。
 そんな思いを胸に、詩弦はその日もまた一心にボールを追う彼を遠くから眺めていた。

 その日――三週間前の部活終わり、ふと見遣った校舎の前で、とある女子と親し気に話す一縷を見てしまうまでは。

 詩弦もはじめは『偶々』だろうと思っていた。
 しかしそれから何度も同じ女子と話している所を目撃し、詩弦の心の平穏は次第に掻き乱されていった。
 人に聞けば、一縷とよく話しているのは彼のはとこ・・・で、殆ど幼馴染同然の娘だと言う。付き合うとか好きだとか、そういうのはおそらくないんじゃないかと言う。
 しかし詩弦には許せなかった。
 誰に対しても自分に対しても不愛想で不器用で、それでも優しく接する彼が、その少女の前でのみ自然な笑顔を見せているのが。どうしても許せなかった。
 彼女にだってわかっていた。付き合ってすらいない自分が、一縷にとって何者でもない自分が彼の交友関係に許すだの許さないだのと言う権利のない事くらい。
 しかしどうしても許せなくて、ゆるせなくて。憎悪と羨望のような感情が詩弦の中でじわりじわりと増殖を始めた頃、部活帰りの彼女の前に一人の女が現れた。
 その女は今日日きょうび珍しく着物姿で、悩ましげな顔立ちはどことなく猫にも似ていた。
 艶やかな黒髪を夏の夕闇に溶け込ませるように揺らめかせ、心の底を優しく撫でる様な声音でこう言った。

 ――恨み呪ってもいいのですよ、と。

 女は詩弦の心を見透かしたように微笑むと、人気ひとけのない四辻通りの前でとある「おまじない」を詩弦に教え、どこから取り出したか一匹の子犬を差し出したのだった。

 ……そして、詩弦は。
 只でさえ人通りの少ない四辻通りのやぶの中で。
 十日ほどかけてかけて犬を餓えさせ衰弱させ。罪悪感の涙と念願達成の笑顔の入り混じった鬼のような表情で――否、鬼そのものの形相で。スコップを振りおろしその首を切断した。
 そして――そして。彼女は呪った。
 コンクリートで舗装されていない辻道の中心に切断した犬の首を埋めながら。
 首買一縷と親し気に話すあの少女を呪った。呪った。夜が明くまで呪った。飽くまで呪った。

 許せない、許せない、許さない。消えろ、消えろ、消えてしまえ。

 ありったけの怨念を込めて土を掘り、呪詛を込めて土を踏む。
 一通りの狂気の行動の後朝日が昇ると、詩弦はあの日からずっと掻き乱れていた気持ちが不思議と穏やかになっているのに気付いた。
 鬼のような形相も消え失せ、今や「おまじない」が本物だろうが嘘だろうが、呪った少女に何が起ころうが何ともなかろうがどうでもいい。そんな心境であった。
 しかしそんな気持ちも束の間、でなくなった詩弦の中には、「取り返しのつかない事をしてしまった」という後悔がどっと噴出した。
 人の言葉を話せぬとはいえ、生物を一匹なぶり殺しにしたのである。
 それも飢えを満たす為という理由も研究の為という大義もなく、己の恋愛絡みの目的を果たすための手段として。
 途端に恐ろしくなった彼女は今更ながらの良心の呵責かしゃくに涙し、嘔吐し、頭痛を覚え。
 部活を休んで一日中、自分が手に掛けてしまった小さな命に対して祈り、謝罪し続けた。……ごめんなさい、ごめんなさいと。

 ――だが。
 世の中には謝って済む事もあれば逆もまた然り。詩弦はその時気付いていなかったが、彼女の成したそれは紛れも無く本物の・・・呪術であった。そして今更泣こうが謝ろうが、彼女が呪詛を込めて犬の首を裁断し、土中に埋めた瞬間から。それは既に発動してしまったのである。
 今、犬神は成立し。あるじたる彼女の恨み憎む存在に向けて攻撃を開始しようとしていた。

 人を呪わば穴二つ。……そう。その時詩弦が最も嫌悪し憎悪していた存在――他でもない躯売詩弦自身へと。

 犬神は詩弦の為に詩弦を呪い、その生命をじわじわと削り始めた。
 詩弦の事を気にかけて救おうとする存在が現れればそれを攻撃し、詩弦に接触出来ないように危害を加えた。
 まず最初に襲われたのが躯売家の家族だった。
 母親も父親も数日の間に酷く傷つけられ、「これはもしや」と藁にも縋る思いで呼んだ霊能者などは、家に辿り着く前に不可解な事故に遭い病院送りとなった。
 両親は恐れをなし、外部からの訪問を一切を拒んだ。
 綾刃ら友人や部活仲間からの連絡を拒み、詩弦に接触させずに追い返したのもそれが理由だ。
 眞虚が襲われたのも、彼女に詩弦に接触する意思があったからだ。
 そうして徹底的に外部から隔離された詩弦は犬神の呪詛でみるみるやつれ痩せこけて、容貌はすっかり変わり果ててしまっている。
 己の他に誰も居ない筈の部屋の中には、今日も無邪気な子供のような声が響く。
『詩弦、詩弦』と、まるで褒めて欲しい子供のような声が。
 それが己を主と慕う犬神の声である事も、そして己を呪った成果を褒められたい言葉だということも、詩弦にはもう分かっていた。

 切っ掛けなんて些細な事だった。その些細な事で、自分はしてはいけない事をしてしまったのだ。
 大義も無く、あらゆる一切の言い訳も効かない。人の道を外れるような事を。
「……して……ゆるして。赦してよ……」
 薄暗い部屋で弱々しく呟き続けながら、彼女は思った。何度となく思いつづけたことを思った。
 幾ら謝ったところで、幾ら赦しを請うたところで。
 幾ら泣こうが、叫ぼうが。赦されない事がこの世にはある。どうにもならない事が、この世にはある。
 これは報いである。してはいけない事をした、手を出してはいけない事に手を出した、その報い。
 一時の嫉妬心を押さえられずに血で汚れる事を選んだ自分への報いなのだ、と。
 ――きっと、罰があたったのだ。
 詩弦は今もまた聞こえ続ける犬神の声に耳を塞ぎ、何も見てしまわぬように堅く目を瞑った。

 ゆるして、許して、ゆるして、赦して。

 赦して欲しいのは、果たして誰にか。首買一縷か、両親か、友人か、呪った少女か。それとも――。
 躯売詩弦には、本当に赦して欲しい相手がわからなかった。



 四辻通りにごく近いコンビニの駐車場に、新たに自転車が二台止まった。
 一台は烏貝乙瓜のもので、もう一台は乙瓜から連絡を受けた黒梅魔鬼のものだった。
 彼女らはほぼ同時にスタンドを立て終えると、小走りで駐車場の隅で待つ明菜らの元へと向かった。
「烏貝先輩、黒梅先輩!」
「古虎渓さんっ、眞虚ちゃんは!?」
「大丈夫みたいですっ」
 明菜は走り寄る乙瓜にそう答え、徐に背後を振り返った。
 彼女の視線の向かった先には、コンビニと他の敷地を隔てる緑色のフェンスがあり、眞虚の姿はそこにあった。
 眞虚は丁度乙瓜らに背を向けるように立っており、フェンスの網目に指を掛け、その向こう側にあるもの――四辻通りの詩弦の家をじっと観察している様子だった。
 その傍らには同じようにして躯売家を見る柚葉の姿があり、フェンスの天辺には水祢が脚組みして座っていた。
「眞虚ちゃん!」
 不意に魔鬼が呼びかける。眞虚はその時漸く二人の到着に気付いたようで、ふっと振り返った後に大きく手を振ってそれに答えた。
「魔鬼ちゃん、乙瓜ちゃん! こっちこっち」
 言って手招きする眞虚の元へ向かいながら、乙瓜は言う。
「捻挫はもう大丈夫なのか?」
「大丈夫だいじょうぶ、平気へいき」
 眞虚は平気であることを強調するように笑顔を作ると、その場で縄跳びするように三度飛び跳ねて見せた。どうやら本当に治ったらしい。
 乙瓜はほっと一息吐いた。傍らの魔鬼も同じように胸を撫で下ろしている。
 そんな二人を見て少し照れたように小首を傾げ、眞虚は再びフェンスの向こうへと目を向けた。
「足が治ってから二人が来るまでの間、私ずっと詩弦ちゃんの家の方を見てたんだけど」
 背を向けたまま徐に口を開く眞虚に、乙瓜も魔鬼もここへ来た目的を思い出し、自然と真剣な表情となった。
 一歩後ろに控える明菜は、心配げな表情でそれを見守る。
 柚葉はまるで気にしない様子で引き続き四辻通り付近を観察している。
 水祢は……果たして何を考えているのやら。誰よりも高い視点からつまらなそうに少女達を見下ろしていた。
 眞虚の言葉は続く。
「やっぱりね、詩弦ちゃんの家や四辻通りに居るのは幽霊なんかじゃないと思うの。犬神――詩弦ちゃんが呪術の為に犬を殺していたとしても、私を襲ったのは呪詛と結びついた犬の怨霊だとか、そういう類のモノじゃない気がする。……きっとそうなんだと思う。あのね――」
 そこまで言って、眞虚は再び二人に振り返った。
 そして恐ろしく真剣で、どこまでも冷静な声音のまま。こう言葉を繋げた。
「どうして水祢くんが遊嬉ちゃんや杏虎ちゃんを呼ぶなって言ったのか、分かった気がする」
 乙瓜と魔鬼は一瞬キョトンとした後、彼女の言葉の意味についてそれぞれ考えを巡らせた。

 四辻通りの『犬の幽霊』は幽霊ではない。それは呪詛と結びついた犬の怨霊などではない。
 躯売詩弦はしてはいけない事をした。あそこに在るのは呪詛と呪詛に手を出した故の因果だけ。

 ぼんやりと与えられていたヒントを元に想像を膨らませ、可能性を推測していく。
 そしてとある答えに行きついた時、乙瓜と魔鬼はほぼ同時に「あ」と声を上げた。
 ――まさか。『呪詛』とは。
 あまり良からぬ想像の結果に黙り込んだ二人に代わり、眞虚は再び口を開いた。

「有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し。詩弦ちゃんに何があったのか、何を思って呪術を成したのか、私にはわからないけれど――」

 どこかから鴉の禍々しい鳴き声が響く。
 四辻通りの方角から生温い風がざわりと駆け抜ける。
 その不吉な空気の流れの中に混ぜるようにして、彼女は残りの言葉を吐いた。

「多分、これから私たちは詩弦ちゃんと戦わなくちゃいけないんだと思う」

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