「詩弦の事について? ……ああ、手紙を見て来てくれたんだね。ありがとありがと」
荒寺綾刃はそう言って額の汗を一拭きすると、木陰になった武道館の外壁にペタリと背中を付けた。
彼女の視線の先には小鳥眞虚の姿がある。
時刻は午後。美術部は本日の活動予定を終え各々帰路に着いていたが、眞虚だけはこうして残って未だ活動を続ける剣道部へ――かの手紙の差出人である綾刃の元へと事情を聴きに訪れていたのだった。
否、厳密には眞虚だけではない。
その傍らには彼女の契約妖怪である水祢の姿もあった。
だが綾刃には見えていない様子であり、水祢自身もこのやり取りに口を出そうとはせず、青い葉を茂らせた桜の木に寄り掛かって黙りこくっているので、実質一対一であることは変わりないだろう。
綾刃は外壁に寄り掛かって一息吐くと、眞虚に向かって視線を落とした。
彼女は同学年の、否。中学女子の中でもかなり長身の部類であり、小柄な眞虚などとは頭一つ分くらい違うのだ。
ともすれば威圧的な光景であるが、眞虚は全く臆しない。
それは彼女が、途中からとはいえ綾刃と同じ小学校の出身であり、綾刃が攻撃的で刺々しい性格ではないという事を熟知していたからである。
――大きな背丈と比例するような広い心の持ち主。それが眞虚の知る荒寺綾刃という少女であった。
そんな綾刃を見上げ、眞虚は尋ねた。
「綾刃ちゃん、あの手紙の内容って、その……どういうこと? 詩弦ちゃんに何かあったの?」
「んん、まあ……多分何かあったんだろうと思うんだけど」
「……?」
どこか釈然としない物言いに眞虚は首を傾げた。何かあったんだろうとは? ……と。
そんな彼女の様子を見て己の言葉足らずを察したのか、綾刃は弁明するように事情を語りだした。
「いやあの、違うの! あのね、実は……――」
綾刃曰く。躯売詩弦はもう一週間近い間部活に姿を現さず、連絡が取れない状態にあるという。
ケータイは電源から切られているのか、電話もメールも不通。
自宅電話には母親が出るものの取り次いで貰えず、ならばと直接自宅へ訪ねて行ったがやはり母親に追い返され、詩弦の顔すら見ていない、と。
そう対応されているのは綾刃のみではなく、部活顧問や他の友人も同様に、詩弦と音信不通・面会謝絶の状態にあるらしい。
そんな調子であるため、詩弦に何があったのかは一切不明。
しかし何も無しに音信不通状況不明という事があるだろうか。……それに母親の様子も尋常ではない。以前に訪ねて行ったときは温厚そうな……少なくとも来客に対しにべなく当たって追い返すような人柄ではなかった筈だ。
――と、綾刃は考え、それが件の投書を出した理由であるようだった。『躯売詩弦の様子を見てきて欲しい』という、あの。
「そんな理由で、ちょっと詩弦の様子見てきてくれない?」
「うーんと、それは別にいいけど、みんな追い返されてるのになんで私たちに頼むかなぁ……」
「え、だって。眞虚ちゃん達『お札の家』にゴリ押しで入ってった事あるっしょ? だから大丈夫かなあって思って」
呆れ顔の眞虚を見て、綾刃はケロリとした顔でこう答えた。
途端、眞虚は「ああ」と頭を抱える。
お札の家。新興宗教グッズで埋め尽くされた狂気の家。
嘗て古霊町に存在した名物スポットの一つであり、寂しい少女が住んでいた家。
去る六月、眞虚たち美術部がその家に(結果的に)侵入したという話は、中途半端な形で広がって北中美術部伝説の一つとなってしまっているらしい。
(それでかー……)
がくりと肩を落としつつ、眞虚は改めて綾刃の顔を見た。
そこにあるのは純粋な期待に満ちた表情。
お札の家の時のような明らかに急を要する事態ならまだしも、様子がおかしいとはいえ母親が目を光らせている状況で不法侵入なんてした日にはどうなることか、そういうことはまるで気にしていない様子だ。
そんな彼女にちょっぴり不機嫌な視線を向けつつ、眞虚は言った。
「……何かあって騒ぎになったら、綾刃ちゃんの所為にするからね」
「うん? うん」
目をパチクリさせながらそう答える彼女は、やはり何もわかっていないようだった。
そして引き続き何もわかっていない調子で、「どうにかして、お願い」と手を摺り合わせるのだった。
一応は差出人の依頼を直に聞いたという事で、眞虚は北中を出て詩弦の家へと向かった。
(綾刃ちゃんからの情報じゃ怪事かどうかはまるでわからなかったんだけど……)
思い、眞虚は一言も喋らないままついてきている水祢をチラリと見た。
そもそもが上手い具合に意味不明な綾刃の手紙をして怪事と指摘したのは彼と彼の兄姉である。
ここにきて彼らが意味のない嘘を吐くとも思えないので、恐らく詩弦の周囲では何らかの怪事が働いているのだろう。
(怪事が起こってる、ということは推測出来るんだけど、どういう因果でそういう事になっちゃったのかは全くなんだよねえ)
眞虚はどこかくらりとした感じを覚えて空を仰ぎ見た。
天上には容赦ない日差しを放つ太陽が高く輝き、眼前に広がる舗装された道を白く焼いている。
そこに先には旅先にあった涼しい海の気配は無く、彼方まで広がるコンクリート・ロードの照り返す光と熱と蝉時雨の饗宴があるのみ。素晴らしすぎておかしな幻でも見てしまいそうだ。
そんな気分で炎天下の道を進む眞虚の傍らで、水祢が初めて口を開いた。
「お前、躯売とかいう生徒の家を知ってるの」と。
それは短い言葉だったが、眞虚の脳味噌を夏の茹だった幻覚から引き揚げるには十分に効力を持った呪文であった。
眞虚はハッと我に返るなり水祢を振り返り、それから利き手の人差指をピンと立てて道の彼方を指し示した。
「えっとね、詩弦ちゃんの家はあっち。こっから裏道に入った先の、北中と南中の学区の境目近くの十字路の近くなんだ」
そう言って眞虚の指さす先には確かに、細く車通りもない昔ながらの風情を残した田舎道が伸びている。
水祢はそれを確かめなぞるように目を細めると、「ふうん」と気のない返事をして再び黙った。
眞虚はそんな彼の様子を、……しかしいつもの事かと諦めつつ。気を抜けば再び襲ってくる眩暈のような暑さに飲まれてしまうのを防ぐように、一方的に話を続けた。
「詩弦ちゃんと綾刃ちゃんとは小学校が同じだったから、家に遊びに行ったことがあるんだよ。といっても、一回二回なんだけど……詩弦ちゃん家は学区の一番外れで大きな犬を飼ってたから、よく憶えてる」
歩いてきた本道から裏道への角を曲がり、眞虚は更に歩を進めた。
目印たるカーブミラーに眞虚の姿が映る。鏡の中には他に青々とした夏草と疎らに立つ家々、そして地平線の彼方から沸き立つ白い雲も像を結ぶが、水祢の姿はそこには無かった。
そんな鏡を一睨みし、水祢は先行く少女の姿を追う。
ほんの少しふらりと頼りない足取りで歩く眞虚は、流石にある種の危険を感じたのだろう。一旦足を止めて荷物の中からスポーツドリンクのボトルを取り出し、ゴクゴクと呷った。
そして大きく深呼吸し、水祢にボトルを向けたのだ。
「水祢くんは平気?」
「要らないよ。人間じゃあるまいし」
自らに向けられた眞虚の好意を、水祢は首を横に振る事で否定した。
眞虚は「そう」とちょっぴり残念そうに呟くと、手団扇で申し訳程度の風を扇いだ。
再び歩き出す気配はまだない。どうやらこの辺で小休憩しようというわけらしい。
道のど真ん中ではあるが、如何せん人通りも車通りも殆どない裏道である。誰かが来るまでの間なら、こうして屯していたって文句は言われないだろう。
「火遠くんは、呪いって言ったよね」
徐に眞虚は呟いた。それは他の誰でもない水祢に宛てた言葉だ。
あの美術室で、火遠と水祢が分かった風に話し合っていた事についての確認と、疑問文。
水祢はそんな言葉を受けて、それがどうしたと言わんばかりにフンと鼻を鳴らすと、蚊の鳴くような声で「そうだけど」と答えた。
「そうだけど、何か疑問でも?」と。
どこか突き放したようなその言葉に頷くと、眞虚はポツリと言った。
「だとしたら、詩弦ちゃんは呪われてる……のかな。どうしてそんな事になっちゃったんだろう」
「知らない。……俺や兄さんに分かったのは、手紙の人物に関する呪いの気配の有無だけ。そこにどんな因果があったのかなんて知らないよ。だから捜しに行くんでしょ」
「……それもそうだね」
ちょっぴり厳しい水祢の言葉に苦笑いし、眞虚は気合を入れ直すように伸びをした。
――そうだ、水祢の言う通りじゃないか。怪事にしろそうでないにしろ、何か起こっているのは既に明白。
例え先人たちのように追い返されたとしたって、行ってみない分には何もわかりっこない。
詩弦への面会が適わなかったとしても、『美術部』であるからこそ気付ける事があるかもしれないではないか。
件の躯売家まではあとわずか、目印の十字路までもあと十メートルとない。
それを確認し、眞虚は努めて明るい声を上げることで己を檄した。
「よしっ! じゃあ行きますか!」
両手を大げさに振り歩き出す眞虚と、相変わらずの態度でその後に続く水祢。
二人の目指す先は躯売家。一週間も音信不通で姿を現さない同級生の少女・躯売詩弦の自宅。
そこに行きさえすれば、恐らく何かが掴める筈だった。
何か原因と思しきものの一端が垣間見える筈だった。
それはさほど難しい事ではない筈だった。
――しかし、二人は知らなかった。躯売家近くの十字路――世間で四辻通りと云われるその場所に関して、今どんな噂が飛び交っているのか。
その日、部活の後偶々……否。意図的にその場所を訪れていた古虎渓明菜と岩塚柚葉は目撃する。
犬のような何かに襲われる、小鳥眞虚の姿を。
――四辻通りには、犬の幽霊が出る。
『詩弦、詩弦。やってきたよ』
誰も居ない空間から響く声に耳を塞ぎ、彼女は懺悔を繰り返し繰り返す。
ゆるして、許して、ゆるして、赦して。
きっと、罰があたったのだ――。