怪事捜話
第九談・盛暑青海サマーデイ⑥

 部屋に珠美が居ない事を確認すると、遊嬉は自分を落ち着かせるように息一つ吐き、仕切り直すように口を開いた。
「……怪事が起こってるの気付いてる?」
「外が妙に真っ暗で海の方の様子がおかしい、みたいな奴で違いなければ」
 杏虎の回答に同意するよう眞虚も頷く。
 遊嬉はそれを聞いて再び――今度はどこか安心したように――小さく息を吐くと、くるりときびすを返して体を扉の外へ向けた。
「ちょっと一緒に来て。……もしかしたら二人の力も必要になるかもしれないから」
「えっ、遊嬉ちゃんちょっと、ちょっと待ってよ!」
 手招きしながら歩き出した遊嬉を、眞虚は呼び止めた。
「さっき珠美ちゃ――女将さんの事捜してるみたいだったけど、一体何があったの!? ……もしかして、女将さん海に……」
 ハッとして口を閉ざした眞虚を振り返り、遊嬉は「わからない」と首を横に振った。
「わからない……まだわからないけど。民宿ここにも離れの自宅にも姿がなくて、……こんな異様に暗い夜だよ? 例え海に行ったんじゃなかったとしても、捜さないわけにはいかないじゃん……」
 己の唇をキュッと噛みしめた遊嬉を見て、眞虚はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 杏虎たちが一階に降りると、玄関口には狩口夫妻と風呂上がりの深世・魔鬼・乙瓜ら三人が立っていた。
「想像以上に酷い有様よ」
 狩口は遊嬉と目が合うなりそう言って、玄関の引き戸をカララと開いた。
 その開かれた扉の向こうには黒々とした闇がぽっかりと広がっており、本来そこに在るべき石畳や庭先、少し前の道路お姿はおろか、その輪郭の一端すらも確認できない。……屋内から溢れんばかりの光が注いでいるというのに、だ。
 そう。そこには闇一色。塗りつぶしたような一面の黒が、ただただ広がっていたのだった。
「遊嬉ちゃんが離れに行って戻ってくるまではなんともなかったんだけど、さっき開けてみたらこうなってたのよ。……妖界ヨウカイねえ。何らかの意思が、私たちをここから出さないようにしてるみたい」
 やれやれと肩を竦めながら、狩口は徐に己の右手を玄関の向こうへと伸ばした。
 敷居を超えて、の中へ。は指先をじわじわと飲み込んでいき、己の色と同化させていく。指先から掌、手首、そして腕。飲み込まれた部分は色を失い輪郭を失う。
 一見腕そのものが消失してしまったかのようなその光景に、深世は「ひぃ」と悲鳴を上げる。
 しかし狩口は何食わぬ様子で「平気平気」呟くと、の中に投じた右手をスッと引き抜いた。
 そこには以前と同じ腕がしっかりと繋がっており、ぐーぱーと握っている様を見るに神経等にも特に異常はないようだった。
「大丈夫よ、外は黒いだけで一応は空間だから。……でも気を付けなくちゃならないわ。さっきのは、私の大部分は光の中に居たから本当に何ともなかったけど、全身があの中に入ってしまったら……下手すると自分が自分であることを自覚できなくなってしまうかもしれないわ」
「じ、自分が自分であることを自覚できないって何っ!?」
「消えてしまったようになるってことよ、深世ちゃん」
「滅茶苦茶ヤバいやつじゃないですかあ! やだーー!」
 頭を抱えて叫ぶ深世をよそ目に、狩口は最愛の夫へと目を向けた。
「うん……と、登さんは深世ちゃんとここに居てあげて? 他のお客さんもいるし、もしかしたらだけど女将さんが何事も無く戻ってくるかもしれない」
 お願いね、と小首を傾げる妻に、夫は少し困ったような顔をしながらも頷いた。
「わかった。梢なら多分そう言うと思っていたよ。……けれど大丈夫かい? 自分がわからなくなるかもしれないっていうのは……」
「ぜーんぜん!」
 案ずる夫に明るく答え、狩口は右手のピースサインを高々と掲げた。
「私だって伊達に"口裂け女"やってないわよ、こういう手合いの異空間は何度か体験したことがあるしねぇ。……ま、きっと大丈夫。あの子たちも行くでしょうから」
 言って、狩口は深世を除く美術部へと目を向けた。
 その視線の先に居る彼女達は彼女達で、目の前に広がる黒の空間について話し合っているようだった。

「うーん……私と乙瓜は去年ヨジババの四次元であんな感じの真っ黒を見たことあるけど、流石に自分の輪郭まで失う程でもなかったなあ。そうすると、ビー玉とかの小細工で方向を推し量る方法も当然使えないだろうし、どうしたもんかな……」
「珠美ちゃん捜しに行って自分たちまで迷子になったんじゃ元も子もないからなぁー」
「同感。懐中電灯じゃ意味ないし、でも捜さないわけにゃいかないし。どうしたもんかねー」
 腕組みしながら顔をしかめる魔鬼の意見に、遊嬉と杏虎もそれぞれ同意する。無論、黙ったままの乙瓜もコクコクと頷いている。
 その最中さなか、ふっと思い出したように杏虎は言った。
「そういえば、今日は契約の連中どうしたのさ?」
 それは当然といえば当然の疑問であった。
 そういえば、そうなのだ。乙瓜と遊嬉、そして眞虚は、それぞれ火遠や嶽木、水祢と契約し、特別な加護のようなものを受けている筈なのだ。
 姿を自在に消したり現したり出来る彼らは、本気を出せば強力な霊感の持ち主の目すらも欺く。もしかしたら、今日もまた姿と気配を隠しているだけで、こっそりと近くにいるのかもしれない。
 だとしたら、今の状況に力添えを頼めやしないだろうか? 杏虎の問いにはそんな期待が込められていたのだが、しかし件の三人は揃って首を横に振り、示し合わせたかのごとくぴったりと口を揃えて「居ない」と答えるのだった。
「海行くってそれとなく伝えたら、『じゃあこっちは山の方でも行くか』とかなんとか言ってついてきてねえぞ」
「あたしんとこもー。嶽木もその日は行くところがあるから行けないって言ってた言ってた。まあ、呼べば行くよとは言ってたけど、用事があるとなるとなー」
「乙瓜ちゃんと遊嬉ちゃんのとこもそうなんだね? 私も、水祢くんも来ない? って言ったら断られたけど……もしかして皆火遠くんと同じところ行ったのかな?」
「マジか……山ってどこの山だよ……」
「あたししらなーい」
 口々に言っては首を傾げる三人を見て、杏虎はやれやれと肩を竦め、ハァと溜息を吐いた。どうやら期待していたような手助けは得られなさそうだ。
 どうしたものかと魔鬼に目を遣ると、彼女もまた曖昧な顔で壁に手を突き溜息を吐いているのだった。もうどうしようもない。
 状況は完全に窮してしまった。そんな時、眞虚が思い出したように明るい声を上げる。
「……そうだ! 水祢くんで思い出したけど、もしかしたら護符か宝具の光が道標みちしるべになってくれると思う。多分だけど……ちょっと試してみるね」
 そう言って、彼女は黒闇の広がる屋外へ向けて手をかざした。
「我こいねがう、封陰の札一枚、来たれ」
 呪文のように呟くと、忽ち赤色の紋様を刻まれた輝く護符が一枚現れ、眞虚の手の先から闇へと向けて一直線に飛び立って行った。
 果たしてその護符は扉を超え、黒闇の中へと突入する。しかしその輝きは失われぬまま、護符は流れ星のように尾を引いて真一文字に闇を裂き、暫く進んだ先で何か障害物に当たったように動きを止めた。
「止まったな……」
「止まったね?」
 横から見ていた魔鬼と杏虎が同時に呟く。次いで「敵か?」と身構える乙瓜を振り返り、眞虚は首を横に振った。
「大丈夫。あれは多分、生垣か何かだと思うから。少なくともあれはこの闇に隠されているだけで、今起こってる現象に直接関係があるものじゃないよ。うん」
 一つ頷いて眞虚は再び、今度は闇の向こうで輝く護符に向けて手を翳す。
「戻っておいで」
 そう呟くと、闇の中に静止していた護符はふわりと動き出し、まるでブーメランの如く眞虚の手中に戻って来た。
「ふう……よし! こんな感じで護符で照らしたり様子を探ったりしていけば、進むことは出来ると思うな!」
 眞虚はニッコリと頷いて、更に十数枚の護符を召喚し、一足早く闇の中へと歩を進めた。忽ち護符の群れが彼女を取り囲み、七色の幻想的な光が闇に輪郭を映し出す。
 それを見て、美術部の動向を静観していた狩口がふっと口を開く。
「出発の準備は出来たみたいね?」と。
 それを受けて眞虚は頷き、「行こう」と手招きする。
「よっし! ここを進む方法が見つかったんだ。みんな急ぐよ!」
「いっちょやってやりますかっ、てね」
 遊嬉と杏虎が気合を入れて一歩踏み出し、その後に狩口が続く。
 最後に続いた乙瓜と魔鬼は、数歩進んだところでふっと後ろを振り返った。
 光の中では深世と狩口夫が手を振りそれを見送っている。
 そんな二人に手を振り返し、乙瓜と魔鬼は。彼女ら含む六人は。女将を捜すべく、『りくのうえ』を発ち、そして走り出したのだった。


 道路に出た辺りで杏虎が言った。
「海! 海へ向かって! 海の方から声がする。何かが呼んでる声がする! ……この辺りの海の怪談。月のない暗い浜辺を一人で行くと……って奴! 仮にその一人が女将であってもそうじゃなくても、今起こってる事の原因は海にあると思う!」
「……! そうか、杏虎は耳がいい・・・・んだっけか……! よっし、眞虚ちゃん!」
「わかった!」
 遊嬉の叫びに応え、眞虚は右手を翳してしるべとなる護符たちに命ずる。
「海に向かって道を作って!」
 その言葉と共に周囲を浮遊する護符は隊列を組み直し、左右平行一列に並んで闇の中に道を浮かび上がらせた。まるで、トンネル内の明かりのように。
 綺麗な一本道が形成されると同時、遊嬉は我先にと走り出した。その先に居るかもしれない親類の安否が余程心配なのだろう。杏虎と眞虚も一瞬遅れて走る速さを上げた。
 そんな彼女らにやや取り残されながら、乙瓜はぼやくように言った。
「……前々から思ってたんだけど、眞虚ちゃんの札幾らか優秀すぎないか? 俺の札、投げたら投げっぱなしで戻ってこないんだけど。結界作れるけど道とかアバウトな命令とか全然聞いてくれないんだけど」
 おかしくね? と首を傾げた彼女の肩を、魔鬼の手がポンと叩く。
「大丈夫、私の使い魔も帰ってこない」
 それは果たして慰めになっているのだろうか。本来戻ってこないものが戻ってこないのと、戻ってきて然るべきものが戻ってこないのとでは比較になっていない気がするのだが。
 乙瓜は内心そう思いながらも、そうとは口に出さないままで遊嬉らの後を追うのだった。



 輪郭のない黒の世界の終点、月の無い闇夜の浜に珠美は居た。
 素足で佇む彼女はまるで魂を抜かれてしまったかのような虚ろな表情で、瞳はまるで曇った硝子玉のように何も映していない。
 そんな瞳の向く先には海がある。真っ黒の海。波の音だけがそこに在る、黒くて暗くて寂しい海が。
 その海から、声がする。おいで、おいでと声がする。
 それは嗄れた老人のような声でもあり、甲高い子供のような声でもある。男のような低い声でもあり、女のような柔らかな声でもある。
 声は無数の多数の複数の大勢であり、同一の単一の唯一の只一人である。
 おいで、おいでと皆が呼ぶ。
 おいで、おいでと誰かが呼ぶ。
 そんな声の中に、懐かしい声を聞いたような気がして。珠美はふわりと微笑んだ。硝子の瞳をスッと細め、虚ろの口角をニッと吊り上げ。
 そうっと踏み出す右足。静かに追従する左足。一歩また一歩と歩き出す。じゃりじゃりと砂を踏み、その行き先は黒い海。冷たい水がつま先に触れる。

 ――陸野上珠美は強い人だった・・・
 少女の頃から見ているだけで元気を分け与えられるような明るい性格で、人前で弱音を吐くことは殆どない。
 責任感と正義感が強く、自分の気持ちよりも学校や会社の都合を。自分が困る事よりも、困っている他者の事を優先するような――強く、優しく……そして危うい女性であった。

 去年の八月、彼女は夫・照一を喪った・・・
 否、書類の上ではまだ照一は『行方不明』――失踪扱いである。だが、彼が既にこの世の者ではないだろう事は、誰の目から見ても明らかであった。
 否……否。万が一という可能性が完全に途絶えたわけではないが、……ないが。仮に照一が、奇跡的にどこかの浜に漂着して生きていたとして。記憶喪失にでもなっていて、己がどこの何者か分からなくなってしまっていたとして。それを誰かが保護していたとして。
 ……この時代、そんな身元不明の人物を通報もせずに匿ってしまう人間なんて、果たして居るのだろうか。顔写真を公開した捜索までされていたというのに、在り得るのだろうか?

 ……奇跡なんて、早々起こるものではないのだ。

 照一の『失踪』後、照一の母・大女将は悲しみに暮れて体調を崩して入院し、民宿の仕事が出来なくなってしまった。
 珠美も勿論悲しかったが、生来の性分故か、集まった親類縁者の手前涙も見せずに気丈に振舞い、そしてこの小さな宿を愛してくれた常連の為にもと、『りくのうえ』を続ける事にしたのだった。
 たった一人の経営となってしまったが、元々小さな旅館・客室はオンシーズンでも満室になることは稀で、数キロ先の中心街に立ち並ぶリゾートホテルのようなルームサービスもない。
 要は掃除と洗濯と炊事が出来ればいいのだ。いくらか量は多くとも、仕事の中身は世の専業主婦とそれほど変わらない筈だ。
 そう自分に言い聞かせ、珠美は精一杯働いた。客の居ないオフシーズンでも客室を隅々まで掃除し、内職をしながら献立を考え、月に数度は重い布団をせっせと運んで虫干しした。
 珠美は誠意を持って働いた。身を粉にして働いた……。

 気付けば、照一が失踪してから一年近くが経とうとしていた。
 そこで珠美はふと、まだ照一の葬儀を挙げていなかったことを思い出した。
 そういえば、既に生存の望み薄だが、せめて書類の上でも死亡扱いになるまで待ってくれと頼んだのは自分だった。線香の一つも上げずに罰当たりかもしれないが、せめて一年後までと。
 ――あの人を死なせないで・・・・・・やってほしいと懇願したのは、他ならぬ自分自身であったな、と。
 自分でも滅多な事を言ってしまったなと、珠美は思う。親族には迷惑をかけてしまったと、今更ながらに反省する。
 そんな事を考えながらとぼとぼと、『りくのうえ』までの道を歩いた夜の事。忘れもしない七月三日、月のない新月の晩。珠美はその声を聞いたのだった。

 ――おいで、おいで。

 はっとして、彼女は立ち止った。
 海の方から声がする。おいで、おいでと呼ぶ声が。
 この港町で生まれ育った彼女は、即座に件の怪談を思い出す。老人たちの間で実しやかに語り継がれる怪談を。

 ――月のない夜、或いは月の遅い夜に暗い海辺を一人とぼとぼと歩いていると、海から呼ばれる。
 話にこそ聞いていたが、実際に『呼ばれた』のは初めてであった。寧ろよくある作り話か、遅い時間に危険な場所に出歩かぬようにという戒めの類だろうと思っていた。
 故に珠美は驚き、今行く道――防潮堤上の道から見下ろす先にある海を振り返った。

 ――おいで、おいで。

 声は再び珠美を呼ぶ。不安に駆られて辺りを見渡すも歩く人影は見当たらず、ここには全く自分しかいない。
 誰かが隠れて脅かそうとしているのかとも思ったが、声のする海の方角に隠れられるものなどない。
 その上、道の下の砂浜から呼んでいるにしては間にあって然るべき空気感がまるでなく、声はまるで防潮堤の手摺を隔ててすぐ向こうから聞こえているかのように鮮明だ。
 これは一体どういうことか。
 ……否、どういうことであろうとも、人気のない夜道を一人行く女性に声をかける者なんて、どうせ碌なものではないだろう。悪戯だか幽霊だか知らないが、構わない方が吉と決まっている。
 背後に冷たいものを感じつつ、珠美は早足で歩き出した。――その時だった。

 ――おいで、おいで。……珠美。

 追い打つように背後から聞こえてきた声に、珠美の足は再び動きを止めた。
 背筋に冷たいものを感じつつも、恐る恐る珠美は振り返る。ゆっくりゆっくりと視線を移し……、しかしそこには誰も居ない。しかしそこには、何も居ない。
 その誰も居ない虚空に脱力してへなへなとその場に座り込み、珠美は呟いた。

「あな……た……?」

 背後から聞こえて来た三度目の声は、確かに。記憶の底ですっかりほこりを被りながらも、しかし未だ消えやらぬ懐かしい声――照一の声だった。


 その日からである。珠美が夜の浜辺に立つようになったのは。
 意識してそうしたわけではない。気付けば夜の浜に素足で立っているのである。……そう、それはまるで夢遊病の様に。
 それは一日だけではなく、毎晩である。どんなに気を付けていても、夜の10時頃を境に記憶が途絶え、気が付けば真夜中になっているのである。……酷い時は明け方ということもあった。
 流石に三日も続けば珠美も流石に奇妙だとは思った。精神の病を疑いもしたが、誰かに相談したり医者にかかったりすることをしなかった。
 異常であることはわかっているが、せめてこのシーズンが終わるまでは我慢しよう。そんな風に考えて、宿の仕事を優先してしまったのである。
 実際、現状はただ浜に立っているだけ。幸い、何故か人が来る手前で気が付いたりするので奇妙に思われた事はないし、特に疲れたりだとか、溺れかけたりだとかの不都合を被ってはいない。
 宿の方も一応はつつがなく。何の娯楽設備もない宿なので、今の所泊り客にも異様な姿を見られてはいないようだ。だから大丈夫だと、軽く考えていた。
 ……軽く考えていたのだが。

 十日を過ぎた頃、いつものように我に返った珠美は膝まで海に浸かっていた。
 その有様を前にして、彼女は気づいた。――私は死んでしまうのかも知れない、と。
 やはり病んでいるのか、あるいは浜に伝わる怪談が原因か。……どちらともわからないが、このままいけば自分は近いうちにこの海で死んでしまうのかもしれないと。
 それに思い至った時、彼女は初めて「どうしよう」と思った。その段階になって尚、彼女の中には宿を休む等の選択肢は浮かんでこなかった。
 恐ろしかった。只々恐ろしかった。だが言えなかった。だが言えなかった……!

 そして彼女は、一つの結論に達した。

 ――誰か、人を呼ぼう。

 それは自分が助かる為でなく、自分にもしもがあった時に、出来るだけ速やかに対応できるように。
 なんとも迷惑な話ではあるが、彼女にはそれ以上の事を思いつけなかった。
 もしも誰かに話してしまえば、きっと宿の仕事を止めるように言われてしまう。病院に連れて行かれるかもしれない。
 それは決して間違っていない、至極真っ当な反応であろうが……しかしそれでは駄目なのだ。
 そう、そこまで来て、そんなにまでなって、珠美は漸く気付いたのだ。
 一人になっても、心配されても、辛くても。自分が頑なに宿の仕事を続けて来た、その理由。それは常連の為などではなくて本当は。本当は。

 帰ってくるのを待っていたのだ。『りくのうえ』に、照一が帰ってくるのを待っていたのだ。
 葬儀を出さなかった理由も、もう帰ってこない事を認めたくなかったが故の言い訳だ。死んでしまったと思う一方で、まだ死んでいないと願っていたのだ。ずっとずっと、ずっとずっと。
 夫が帰って来た時に、汚い有様だったら、きっと悲しむ。
 夫が帰って来た時に、自分がそこに居なかったりしたら、きっと悲しむ。
 だから必要以上に綺麗にして、必要以上に執着して、……珠美は自分が強かったのではないことに気付いた。自分はどこまでも弱かったのだ。
 悲しむべき時に、泣き叫ぶときに、それが出来なかったから。宿という目に見えるものに執着することで、縋りつくことで。それを隠そうとしていたのだ。

 だがそれも、もう終わりだ。
 あの日聞いた照一の声。幻聴のような、幽霊のようなその声を聞いたあの日。珠美は我に返ってしまった・・・・・・・・・のだ。

 陸野上照一はもう、生きていない。待っていても、帰ってこない。
 もう、戻ってこない。


(もう、待っていたって、しかたがないものね)
 走馬灯のような追憶の世界から浮上し、珠美はふっと意識を取り戻す。見上げる月のない空は暗く暗く、小さな星々が弱々しい輝きを放つのみ。
 体はすっかり腰の辺りまで海水に浸かっている。
 濡れそぼって重りのようになった着物と揺さぶる波が体の自由を奪い、もうここから引き返す事は出来ないだろう。
 まだ辛うじて足は底についているが、少しでもバランスを崩したら最期、このまま夜の海中へと飲まれていくだろう。
 そんな彼女を取り囲むのは無数の声。おいで、おいでと誘う海の声。
(そういえば……海で亡くなった人たちは海に溶けて海になっていくんだって、どこかで聞いた気がする)
 どこだったかしら。そう呟いた一瞬後、どこだっていいと首を振る。そんな珠美の耳を、懐かしい声がくすぐった。
 珠美、珠美と、照一の声がする。あちらからもこちらからも、優しい声で呼びかける照一の声が響いてくる。
 珠美、珠美。おいで、おいで。
「照一さん……!」
 己を揺さぶる闇の中に最愛の夫の姿を見た気がして、珠美は宙に向かって手を伸ばした。

「行っちゃ駄目えええええええええッ!!!」
 その時、だった。遥か後方より響き渡った絶叫に、珠美は前方へと伸ばした手を止めた。
 水に埋もれた体をのそのそと動かし、浜辺を振り返る。眩い光が目に飛び込み、珠美は堪らず目を伏せ、……恐る恐る開いた。
 果たしてそこには、戮飢遊嬉が立っていた。珠美が己の我儘わがままから呼び出した親類の少女。
 彼女は星のように輝く無数の何か――護符に囲まれて立っており、珠美に向かって必死になって叫んでいる。彼女と共に来た友人たちであろう影も見える。
「珠美ちゃんそこに居て! あたし行くからッ!」
 遊嬉は喉を潰さんばかりにそう叫ぶと、着衣のまま海へと歩を踏み出した。
 珠美はその姿にギョッとして目を見開く。そして自分の状況を棚上げし、何を馬鹿なとそう思った。浮きもなく命綱もなく、あれではミイラ取りがミイラになりに行くようなものだ。
「来ちゃ駄目よ!!」
 珠美は叫んだ。そうだ、遊嬉をここに来させてはいけない。無様な自分を助けようとして若い命を散らせてしまうなんてことがあってはいけない……!
 珠美は力の限り遊嬉に叫んだ。来てはいけないと叫び続けた!
 しかし遊嬉は歩を止める事無く一歩一歩深い場所へと体を沈めて行く。躊躇ためらうことなく珠美に向かって進んでいく。
「何で止まってくれないのよぉッッ!!!」
 絶叫する珠美に連動するように、周囲の海が一斉に騒めく。無数の声が「くるな、くるな」と遊嬉を威嚇する。その中には照一の声もあった。
 だが、遊嬉は止まらない。もう膝下まで潜ってしまっているが、気にしたものかと進み続け、言い聞かせる様に静かな声で語りだした。
「……珠美ちゃん。それは照一おじさんじゃない。照一おじさんじゃないんだよ。姿も声もまるで忘れてしまったモノが、珠美ちゃんの中のおじさんの姿を借りて話してるだけだよ。……だから行っちゃ駄目だ」
「な……にを言って……」
 狼狽したように辺りを見渡す珠美の傍で照一の声が、沢山の照一の声達が一斉に叫び出す。

 ――違う! 違う!
 ――嘘だ! 嘘だ!
 ――信じるな! 信じるな!
 ――嘘つきめ! 嘘つきめ!

 声は次第に遊嬉への非難に変わるが、遊嬉は臆する事無く言葉を続けた。
「珠美ちゃん思い出して。本物の照一おじさんは、珠美ちゃんを海の底に連れて行ったりしないよ。だって命を助ける仕事をしていたんだよ? 最後の最後まで命を助けようとしていたんだよ? ……そんなおじさんが、珠美ちゃんを連れてくわけないじゃんか……」
 遊嬉は言って、寂しげに微笑んだ。その微笑みは逆光になって珠美には見えなかったのだが、遊嬉が微笑んだ瞬間、珠美はぽろぽろと泣き出していた。
 そうだ。そうだった。珠美は思い出す。
照一さんあのひとは命を守る人だった。最後の最後までそうしていた人だった……! ああ、少し考えれば分かる事なのに。ああ……ああ……!)
 大粒の涙を零しながら、珠美は再び沖へと振り返った。歪む視界の中には、もう照一の幻想は見えなかった。当たり前だ。ここに居るのは照一ではないのだから。
「ここに居るのは幻……! ここに在るのは幻……!」
「そうだよ……ここには照一さんなんていないんだ。元から誰も居やしないんだッ!」
 遊嬉がそう言い切ると同時、海が叫んだ。
 それはもう照一の声などではない。男も女も老いも若きもないまぜにして強いノイズをかけたような悍ましい声で、激昂したように「黙れ」と叫んだのだ。
『黙れ! 黙れ黙れ! 私は居る、俺は居る、ぼくは居る、儂は居る、あたしは居るッ! この世界に存在しているッ!』
 地獄の底から響くような声に珠美はビクリと震えるが、遊嬉は何食わぬ顔で言った。
「……まーそうね。あんたらは確かに居るよ。うんうん。……だけどもう人じゃない。未練に囚われ成仏できず、行くべき場所も還るべき場所も、己が何なのかすらわからなくなった雑霊、それがあんたらだ! 悪いけど、哀れだとは思うけど同情はしないよ。そんなモンには死んだってなりたくないからね!」
 フンと吐き捨て、遊嬉は珠美に手を伸ばした。
「珠美ちゃん、早くこっち! 奴らが来る・・・・・!」
「奴らって……遊嬉ちゃん一体……っ!?」
 一体どういうことなの、と言いかけ、珠美は言葉を失った。何故ならその瞬間に海がぐらぐらと、まるで地震のように揺れ始めたからだ。
「地震ッ……!?」
「違う! これは地震なんかじゃない! クソッ……!」
 揺れとそれに伴う波の動きと自身の動揺から手を伸ばす事すら出来ないでいる珠美に向けて、遊嬉は大きく大きく手を伸ばした。
 話している内にあと少しの距離まで来ているのだ。珠美が手を伸ばせば届くのだ。
 しかし振動は遊嬉の動きさえも鈍らせ、そのあと僅かを埋めさせない。
 この厄介な振動は、遊嬉の言う通り地震などではない。この海に蔓延る雑霊たちの最後の悪あがきだ。
 彼らは海の怪談に結びついて幾らかの自我を得たこの地の雑霊たちで、珠美は折角見つけたその獲物。その獲物を奪われそうになって抵抗するも、怪談の内容以上の力を持たない彼らにはこうして震える事しかできないのだ。
 しかしそのあがきは波を立たせ、遊嬉や珠美の顔に水がかかるようになる。生臭く塩辛い海水が口中に入り、遊嬉は何度となくそれを吐き出した。
 珠美を見れば、同じく水を飲んでしまったのかゲホゲホと咳込んでおり、今にも溺れそうだ。
(……ふっざけんな、こんな所で、ここまで来て! 諦めるわけにいかないじゃないかッ!)
 遊嬉は己に喝を入れ、その右腕を天高く掲げて叫んだ。

「願いましては四の五の双つ! 退魔宝具、出でよ崩魔刀!!」

 宣言と共に右腕の中に炎色の光が生まれ、棒状となって迸る。退魔宝具・崩魔刀。
 今は日本刀の形をとる、魔に類するモノを裁断・崩壊させる力を持つやいば
「水は嫌いかもだけどごめんね……!」
 弁明するよう呟くと、遊嬉はその刀身を海中へ向けて振り下ろした。
「8月盆も近いんだ、まとめて成仏……していきなッ!!」
 瞬間、海が赤く光った。否、正しくは崩魔刀から迸った閃光が海中を波紋のように駆けたのだ。

『あぁあああああぁあああぁぁああああああああッ!!!』

 雑霊達の断末魔の叫び声が辺り一面にこだまする。
 長らく海の怪談に寄って存在し、弱った珠美の心に付け込んだ有象無象の影たちもこれが最期だ。
 末期の声は次第次第に大人しくなっていき、1分も経たぬ間には綺麗さっぱり消え失せていた。
 揺れは収まり波も凪いで大人しく、辺りには只々静かな夜の海が広がっている。海を囲うように存在していた黒い闇の妖界も、今頃姿を消した事だろう。
 遊嬉は周囲の禍々しい気配が完全に消え失せたことを確認し、珠美の方を見た。彼女はすっかり気を失っているようだったが、幸い仰向けになって浮かんでおり、息もあるようだった。
「……よかった」
 ほっと一息吐くと、遊嬉は片手で珠美の体を支え、もう片方の手に持つ崩魔刀を浜の誰も居ない場所へと向けた。
 すると遊嬉たちの体は忽ち海中から陸上へと移動し、濡れ鼠の体にじゃりじゃりとした砂が纏わりつく。
 それは最近使える事に気付いた崩魔刀の能力の一部で、刃先を向けた対象の前へと瞬間移動できるという、ある種の急襲技の応用であった。
 斯くして陸の上へと帰還した遊嬉と珠美の元に、美術部の仲間たちと狩口が心配そうに駆け寄る。
 遊嬉はそれに気づいて刀を仕舞い、「だいじょうぶー!」と声を張り上げた。その腕の中では、珠美が意識を取り戻しており、薄く目を開いて駆け寄ってくる人影をぼんやりと見つめていた。
「……あなたの所へ行くのは、当分先になりそうね」
 蚊の鳴くような声での呟きは、恐らく遊嬉には聞こえて居ないだろう。しかし珠美は、それに応える誰かの声を聞き――そして再び涙するのだった。


 ――ゆっくりおいで。



 真夏の怪事の中心に居て、少々傍迷惑な騒動を起こしてしまった珠美はというと。狩口に応急処置を受けた後大事を取って救急病院に搬送されるも、翌日の昼には何事も無かったかのように戻って来た。
 検査もしたが異常なし。何故あんな夜中に海で溺れたかについては、狩口が何やら話をでっち上げて誤魔化したらしいが、美術部が一体どんな物語を捏造したのか尋ねても頑なに口を割らなかった辺り、『この子たちがふざけて夜の海で遊んでいたら溺れてしまって、それを助けるために云々』といった具合で話を付けたのだろう。
 美術部は、というと。
 一泊して朝に帰るつもりだった予定を伸ばし(各々自分の家族と交渉したようだ)、女将の留守を守って宿の仕事を――多少つたなくとも――こなしたのであった。
 ドタバタだが微笑ましい光景は宿泊していた二組の親子に笑顔にし、深夜の不穏な事件については午後のチェックアウトまで悟られずに済んだようだった。
 帰って来た珠美も珠美で、美術部の無茶苦茶な仕事ぶりを見て怒るよりも大笑いしたのであった。
 それから美術部は、珠美の口からあの夜に至った経緯と懺悔を聞かされた。
 何度も何度も頭を下げた彼女に、遊嬉はいつもの調子で「そういう事もあるって」と笑ってみせて。それが珠美の涙腺を更に刺激する事となってしまったのだが、そこは割愛。
 その夜にはお詫びという名のアイスを食べながら、まだ泊っている狩口夫妻と縁側で花火。大変だったけどちょっと充実した夏っぽい二日間を過ごした美術部一行であった。
 そして来る七月三十一日、予定より一日遅い電車の時間に合わせ、彼女らは帰路についた。
 またねと手を振る女将が道の向こうに見えなくなるまで手を振り返し、歩いて、歩いて。来た時と同じ無人駅のホームに立つ。

「いやー、まだ始まったばかりだというのになんとも劇的でハラハラドキドキな夏休みになってしまいましたなぁ」
 何とも軽い調子でそう言う遊嬉に、「劇的すぎんだろ!」「ハラハラドキドキにも限度があるわ!」と突っ込みが入るが、そこは知らん顔。何の事かなと口笛を吹き始めた遊嬉を見て、深世がはぁっと溜息を吐く。
 その時プァンと音がして、陽炎揺らめく線路の彼方に電車の姿が見えた。古霊町を通る帰りの電車だ。
「電車来たねえ」と眞虚が言う。
「忘れ物ない?」と言う魔鬼に、「多分ない」と答える乙瓜。
 荷物をアスファルトの上にどっかりと置いたままの遊嬉に、「ちゃんと持て」と杏虎が背中を叩いた丁度その時、二両編成の可愛い電車はホーム停まり、プシュウと扉が開いた。
 その扉の向こうから、何組かの親子連れが次々と降りてくる。やはりシーズンだからだろうか、海水バッグを提げた子供達は皆楽しそうだ。
 そんな彼らと入れ違うように、美術部は電車の中へと乗り込んだ。
 程なくして電車は発進し、ゆっくりと彼女らの帰路を走り出す。
 ボックス席のシートに座って遠ざかっていくホームを見つめながら、乙瓜は楽しかった青い海の事、ヒヤリとさせられた夜の海の事、アイスの事、花火の事、トランプの事など、この二日ばかしの出来事に思いを馳せていた。
 恐らくほかの皆も多かれ少なかれそうだろう。……遊嬉などは、ケロッとした調子でトランプでもしようぜと提案しているのだが。
 けれどそれも、悪くない。家に帰るまでが旅行で、帰り路の会話やおふざけも立派な旅の思い出なのだ。
(また来年も来たいなあ)
 そう思いながら、乙瓜は遊嬉の提案する勝負に乗るのだった。


 そんな、美術部メンバーがキャイキャイと盛り上がる隣の車両では、ピンクの日傘を抱えた少女と白い帽子を膝上に置いた少女が、すっかり疲れ果てたように眠っている。
 そんな二人の間に座る赤毛の少女は、彼女らの頭を優しく撫でながらポツリと呟いた。
「きっとその日は遠くない。……きっとあちらから仕掛けてくる。遠からず、確実に。その日が来た時、あの子たちは果たして笑って居られるのかしら」
 その呟きに耳を傾ける者は誰も居ない。少なくとも、この電車の中には居ない。
 少女は――アルミレーナは。ふうと目を閉じ、こう続けた。

「……貴女は行くの? ヘンゼリーゼ」

 一時の平穏と僅かな不穏を乗せて、盛暑の中を電車は走る。



(第九談・盛暑青海サマーデイ・完)

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