怪事捜話
第九談・盛暑青海サマーデイ①

 太古はじめ、この世は海であった。
 すべて生命は水底より生まれ、やがておかへと上がったものが我々人間の祖となった。
 茫漠ぼうばくたる群青の海洋。未知なる漆黒の深海。そこが生命の起源であるならば、底へ還りたいと願うのはある種の帰巣本能からだろうか。

 半月の下、夜の浜辺に佇むのは、妙齢の婦人一人きり。
 黒々と沈む潮へ向けて、彼女はポツリと呟いた。

 ――わたしも連れて行ってください、と。



 かの夜都尾稲荷夏祭から数日後。
 夏休みといえども部活は続くわけで、終業式後はじめて美術部が勢揃いした水曜日。
 一年生たちが引き続き芸術祭用の絵の作業をしている中、不真面目な二年生たちは(約一名除く)というと、9月頭に控えた体育祭用の横断幕やシンボルマークの作業に取り掛かっていた。
 珍しく真面目である。
「しっかしさぁー。折角夏休みだってのに、この冷房も暖房も無い教室ん中でひたすらペンキをペタペタしてるだけってのもどうかなーって思うんだよねぇ」
 ふと作業の手を止め、うんざりしたように遊嬉は言った。その額には大粒の汗がにじんでおり、着て来た体操服のそでは肩が見える程大胆に捲り上げられていた。
 そんな彼女の様子から分かる様に、美術室の中は非常に蒸し暑かった。
 窓という窓を開け放っているにも関わらず、である。その原因はひとえに風が全く吹き込まない事にあった。
 窓際に控える白いカーテンと黒い暗幕は部活が始まってこの方微動だにせず、観葉植物の葉はそよぎもしない。
 窓外には焼ける様な日差しと雲一つない青空が広がっており、陽炎揺らめく前庭越しに、野球部やらサッカー部やらが勇ましく声を上げて走り回っている姿が見えた。
 そんな運動部男子の暑苦しい姿から目を背け、遊嬉はハァと溜息を零した。
「あたし風属性になりたーい……」
「お前は何を言ってるんだ」
 すぐさまツッコミを入れたのは深世だった。
 深世は遊嬉と違って半袖半パンの体操服こそ普通の着こなしだが、前髪が鬱陶うっとうしいのかこれでもかと言うほどのピンで留めており、普段とは全く違う髪型に変貌へんぼうしていた。
 更にその顔は暑さで真っ赤に火照っており、まるで茹蛸ゆでだこのようであった。
 そんな彼女に視線を返し、「だぁってさー」と遊嬉は続けた。
「今日滅茶苦茶暑いのに風なさすぎじゃん? ここまで来たらふざけてるとしか思えねーじゃん? したら、なんかもうこっちで風起こすしかないっしょ? 生死を賭けた戦いだよこれは……」
 遊嬉は大げさなジェスチャーを交えて"風属性"とやらの必要性を深世に説いた。
 だが深世から返って来たのは「あたまだいじょうぶか」という冷酷な言葉だった。
 深世はそのまま空き椅子の上に置いてあった持参のペットボトルのキャップを開き、大分温くなったスポーツドリンクをがぶがぶとあおった。
 どうやらオーバーヒート寸前だったようである。
 遊嬉は「ちぇー」と口を尖らせながらその様子を見守ると、おもむろに振り返り、隣の机で作業をしている乙瓜に言った。
「ところでさー、こないだの火遠とのデートどーなったよ?」
「……デートじゃないし」
 乙瓜は拗ねたような口調でそう返すとゆっくりと振り向き、恨めしそうな視線を遊嬉へと向けた。
「何を期待してるのか知らないけど。こちとら暇な神様たちの宴会に巻き込まれただけだし。別にデートしてたわけじゃないし」
「宴会? なんでだし?」
 半笑いで聞き返す遊嬉に、乙瓜はぷうと頬を膨らませた。

 ――あの後。普段は立ち入る事の叶わぬ神社の本殿へと招き入れられた乙瓜は、忙しい稲荷神に変わって夜都尾稲荷の神代理をしているという変な狐とその一家、そして古霊町三大神社を守る個性豊かな神々の宴会に巻き込まれた。
 一はしらは乙瓜も既知の神逆神社の山神・薄雪媛神。もう一柱は童淵わらべぶち神社の河童・伯瑪ハクメ。こちらはかつて精霊川に棲んでいた河童で、色々あった後に神社へと祀られるようになったらしい。
 そしてもう一柱――夜都尾稲荷にごく近い野池の女神・輝水キスイ。鯉の神にして恋の神を自称する彼女が一番の曲者くせもので、断る乙瓜にしつこく酒を勧めた上に意地でも恋愛話コイバナを聞き出そうとしてきたのである。
わらわの酒が飲めないと申すか! 遠慮するでない、飲め飲め」
 そう、それはまるで新入社員に絡む酔いどれ上司の如く。そのしつこさと結局飲まされた酒に参ってしまい、乙瓜は途中から何があったか全く覚えていない。恐らく火遠辺りが運んでくれたのだとは思うが、気が付いたら自室のベッドの上だった。
 翌日は人生で初めての二日酔いを経験し、とてもじゃないが余韻に浸る暇などは無い。要するに散々だったのだ。

「それって未成年飲酒じゃーん? だめだぞーちみぃー」
「ちげーよ無理矢理押し付けられたんだし! アルハラだから、俺は全然悪くないからな!? 
……畜生あの神様次会ったらしばく」
 ヘラヘラとしている遊嬉にムキになって言い返す乙瓜は、ちょっとだけ涙目だった。
 こんなしょうもない理由で法を犯してしまっただなんて思いたくなかった、そんな13の夏である。
 乙瓜がすっかり思い出し落ち込みをしている一方、同じ机で作業していた魔鬼は「いいなー」と漏らした。
 いや、何がいい事かと、乙瓜が言おうとした瞬間、魔鬼は更にこう続けた。
「私まだ神様とかに会った事ないんだよねぇ」と。
 その発言を受けて、眞虚もまた同意するようにコクコクと頷いた。
「そういえば私も会った事ないや。乙瓜ちゃんいいなぁ」
「だよね? 羨まし」
 魔鬼は眞虚と頷き合い、ちょっぴりむくれたように唇を尖らせた。
 その隣で杏虎が「あたしは見たことあるよー?」などとぬかすものだから、そこからはもはや作業どころではなくなってしまった。
「マジで? いいなあ!?」
 絵筆を置いて魔鬼が身を乗り出す。少し遅れて眞虚もまた作業の手を止め、食い入るような視線で杏虎を見る。
 当の杏虎はキョトンとした様子で黒のペンキを出した皿に筆をチョンと載せると、「つっても一回だけなんだけどさあ」と話を続けた。
「鵺の怪事あったじゃん、雨月張弓手に入れた時の。その時、なんつーの? 鵺の口の中からワープしたっぽい変な場所で、真っ白くて角のある神様に会ったんだよね」
「あー、薄雪か」
 即答した乙瓜を指して、杏虎は「それそれ」と頷き返す。
「ちびっ子だったろあの神様?」
「うん、それでドジっ子だったよあの神様」
 何やら神様トークに華を咲かせ始めた二人を見て、魔鬼はケッとソッポを向いた。
 そして偶々視線の先に居た遊嬉を見て、やけくそ気味にこう言った。
「神様!? なにそれおいしいの!? ……オカルトハンター戮飢さん的にはどうなのッ??」
「なんだよ魔鬼ィ。そんなどうなのとか言われてもなあ~」
 遊嬉は持ったままの絵筆をクルクルと回した。
 細かい部分を作業する為の小筆だ。その先端に付いたペンキは既にパリパリに乾燥しており、彼女の作業に対する集中力の無さをそのままそっくり反映しているかの様だった。
 そんな絵筆をくるりくるりと四回転ほどさせた所で、遊嬉は漸く次の言葉を紡いだ。
「あたしもなーんだかんだで会った事はないんだよねぇ」
 くはー、と悔しそうな溜息一つ。遊嬉は乙瓜と杏虎に視線を向けると、二人の会話を遮るように「あのさー」と呼びかけた。
 一瞬の後、二人は揃って振り返る。「何?」と、そう言いたげな二対四つの視線が遊嬉に向けられる。
 完全に注意を引き付けられたことを確認して、遊嬉は彼女らに尋ねた。
「神様ってさー、どんなところに住んでるのさ?」と。
 それを受けて、二人は各々の記憶を辿るように空を睨み、それか杏虎、乙瓜の順でこう答えた。
「えっと、あたしが見たのは普通の神社の拡張版的な感じだったよ? 玉砂利敷いてあって、倉とかあって。あと、なんかすごく霞がかってた。辺り一面ぼやーっとしてて、なんか水墨画的な」
「霧だかもやだかに覆われた海があって、そこに厳島神社みたいな鳥居が建ってたんだよ。その先にある島みたいなところにスゲー立派な本殿があって、神様の使者みたいな人がせっせと働いてる感じだったぞ。俺が見た時は」
 二人の身振り手振り交えた説明に、遊嬉をはじめ魔鬼も眞虚も「ふうん」と頷いていた。一方杏虎は乙瓜が話した内容については知らないところもあったようで「あれ島なんだ?」と聞き返していた。
「いや俺も詳しくは知らないけど多分島。周り全部海だったし」
「へー、海かぁ。いいなぁ」
 乙瓜の言葉に杏虎は溜息交じりにそう漏らした。
 辺りは茹だるような陽気である、恐らくリゾートビーチのような情景を想像したのだろうが、残念ながらあそこにあるのは果てしなく白い空とぼやけた景色、それを映した鈍い色の水である。
 それを知る乙瓜は「ハハハ」と苦笑いを返す。しかし折角の夏休み、海とか行けたらいいよなあと、杏虎と同じく溜息吐いた。
 目を閉じれば、燦々さんさんと照り付ける太陽と白い砂浜、青い海がそこにある。
 風一つないサウナのような教室の遥か彼方から、ツンと香る潮風が呼んでいるような気がする。
(海、いやこの際プールだってなんだって構ぁない……なんか涼しい遊びしたいなぁ……)
 未だ終わらない作業を目の前に、乙瓜の現実逃避が加速する。恐らく杏虎も同じことを考えている筈だし、再び手を動かす気配のない魔鬼や眞虚・遊嬉もまたそうなのだろう。
 唯一、一番真面目に作業を続けて居た深世も遂に猛暑に屈したのか、四つ並べた作業椅子の上に仰向けに横になって、無感情な目で天井を見ながら「ハワイになりたい」などととんでもない譫言うわごとを繰り返している。重傷だ。
 一年生は一年生で下敷きで風を起こしながらギリギリの奮闘を繰り広げている。
 何やら騒がしい炎天下の屋外では、誰かが熱中症でダウンしたらしく担架で運ばれている最中だった。
(なんてこった、ここは地獄か……!)
 乙瓜はゾッとしながら荷物をあさり持参のスポーツドリンクを口に含んだ。
 そうだ、こんな所で倒れるわけにはいかない。家に帰れば快適な冷房とよく冷えた飲み物、そして至福の一時を与えてくれるアイス類が己の帰還を待っている筈なのである。
 その気持ちは皆同じだったようで、外の惨状に気付いた部員たちは皆乙瓜と同じように持参のペットボトルの口を開くのだった。
 部長の深世がダウンしている現状、副部長の眞虚が一年生たちにも水分補給ついでに一時休憩の指示を出し、先輩の手前サボる事無く動き続けていた彼女達も漸くその手を止める。
「……はあ。それにしても、部活の度にこんな状態だったらこれから先が思い遣られるよねぇ。……尤も、ここまで風のない日もそうはないだろうけど。いっそ先生に予算使って扇風機でも買ってくれるように頼む?」
「どーかなー。……今まで無理だったこと考えると厳しいんじゃね? なんかうちの姉ちゃんの頃にも似たようなやり取りあったって聞くし」
「やっぱりそうなのかなぁ……」
 眞虚と杏虎が真面目な顔してそんな会話を繰り広げている一方で、乙瓜と魔鬼は「雪ん子って夏はどこにいるんだろうな」「魔法でここを南極にしよう」などと、脳みそが溶けかけたやり取りをしていた。
 深世は相変わらず倒れたままで、ちょっと溶けている。
 そんな時だった。

「あ。そういや来週行けるよ、海」

 海。その魅力的な言葉に、ダメな二年たちは皆一斉に体を動かした。
 背筋が伸び、鈍重どんじゅうになっていた動作が一瞬にして機敏きびんになる。ダウンしきっていたと思われた深世もまた起き上り、死魚のようだった瞳はキラキラと輝き、かの声の主に期待の眼光を向けている。
 果たしてそれは天使か悪魔か。皆の期待と興奮を一身に受けた声の主――戮飢遊嬉はニヤリと口角を上げると、やけに胡散臭い調子でこう続けた。

「ねーねーお嬢さん方ー。海で遊べてタダで寝泊まりできてお給料も貰えちゃう、そういうバイトしてみたくなーい?」

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