怪事捜話
第八談・私とあなたと祭囃子⑤

「お、お前! 何今更現れてんだよ! もうとっくに待ち合わせ過ぎてんじゃねえか!」
 声を抑え気味に詰め寄る乙瓜に対し、火遠は呆れた視線を送り返して肩を竦めた。
「待ち合わせに遅れて来たのは君の方じゃあないか。いっちょまえに腕時計なんかして、その時計本当に合っているのかい?」
「ばっ……馬鹿にすんなよ、こちとら来る前にちゃんと合わせて来たわ! 偉そうに言って、……お前の時計こそ遅れてんじゃねえだろな!!?」
「なにを。俺の時計は正確だとも」
 言って火遠は自らの腕時計を指示した。
 乙瓜はすかさず己の時計と見比べる。
 なるほど、それぞれ正確だと豪語する通り、互いの腕時計の指し示す時刻はほんの数秒のズレを除いて一致していた。
 火遠もまた乙瓜の時計を覗き込んで時刻を確認すると「なんだ」と少し残念そうに呟き、そして続けた。
「なら間違えているのは君の方だよ。君が待ち合わせを間違えたんだ」
「いや、間違えてるのはお前の方だろ!? 17時に来なかったじゃあないか?」
「17時? 何を言ってるんだい君は。約束の時間は午後7時だよ、5時じゃあない。……ほら、メモにもそう書いてある」
 ポケットから手帳を取り出し、火遠は「ほら」と指示した。
 七月十九日土曜日の欄には、綺麗な文字で『午後7時、夜都尾大鳥居の前』と、確かにそう書かれている。
 それを見て怪訝に顔を歪めた乙瓜は、己のパーカーのポケットから徐に一枚の紙を取り出す。
 七瓜を脅すていで咄嗟に護符であるかのように見せかけたそれ・・の正体は、実は単なるメモ用紙だった。
 そこには走り書いたような文字でこう書かれていた。『午後17時やつお神社鳥居前』と。
「ほらやっぱり! 俺のメモには17時って書いてあるじゃねえか!」
 揚々とメモ用紙を見せつけ乙瓜は言った。しかし火遠はその文面をまじまじと見るなり、呆れた溜息を吐いて彼女の額にデコピンをかました。
「痛ッ!? なっ、なにすんだよ!」
「……ばーか。よく見てみな。君が17だと思ってるそれは、走り書きで7が右と左に分離してるだけだ。……そもそも、午後17時なんて言い回しがあるかい。夕方5時ならまだしも」
 たっぷり小馬鹿にするように指摘して、火遠は再度溜息を吐いた。呆れてこれ以上何も言えないと言わんばかりの様子だった。
 一方、当の乙瓜は狼狽えながらも再度自分で書いた文面を見返し、そして「あっ」と声を上げた。
 言われてみれば。今まで『17』の『じゅう』だと信じて疑わなかったその文字は、『1』にしてはやたらと短く、隣の『7』の半分も無いように見える。
 いや、無いように見えるのではなく、実際に無いのだ。
 彼女は普段、アラビア数字の『7』をカタカナの『ク』や『ワ』と同じように、左側にツメ・・を一本付けて書いていた。
 しかし殆ど癖で書いているそれについて殆ど意識を向けたことが無かったからか、後になって見返した時に走り書きで離れた『7』のツメを『1』と誤認したのである。
 そんなしょうもないカラクリに今更気付き、乙瓜はガクリと肩を落とした。
 なんたることだろう、全ては彼女の勘違いだったのである。
 すっかり意気消沈した彼女の肩を叩き、火遠は言った。

「誰にだって間違いはあるさ」

 いつだかと同じ台詞を、今度は言い訳ではなく優越感をたっぷり練り込んで紡ぎ出すと、火遠は今乙瓜の来た坂道を上りはじめた。「じゃあ、行こうか」と。
「おい待て、こちとら今さっき降りて来たところなのにまた上るのか!?」
「当たり前だろう、挨拶しておきたい相手がいるって。まったく。君が呑気にほっつき歩いてる間に祭も終わりが近いじゃあないか、ほら急ぐよ」
 手招きして急かすとくるりと背を向け、火遠は決してきつくはない、しかし緩くも無い坂道をせっせと上って行ってしまった。
 乙瓜はまた上るのかとうんざりしつつも、待ち合わせを間違えていた手前断る事も出来まいと彼の後に続いた。
 再び戻る境内に、神楽の鈴の音はもうない。その先にあるのは思い出したかのように愉快に軽快に響き渡るお囃子の音だ。
 しかしもう神楽も終わって神輿も屋台車も出ていないというのに、まだお囃子が続いているのは些か奇妙な気がした。
 奇妙。そう。言い表すならば、それは。

 ――今し方来た筈の道が、元居た場所ではない違うどこかに通じているような。

 そんな奇妙な感覚に包まれた参道で、乙瓜を振り返らずに火遠は言う。「ところで」と。
「不在中に君の様子がおかしかった事は遊嬉の奴に聞いたよ。……全く、少し遠出しただけでこれじゃあおちおち外出も出来ないじゃあないか」
 数歩前を行く背中越しにクツクツと噛み殺した笑い声が聞こえ、乙瓜はムッと顔をしかめる。
「……お前は全体的に説明不足なんだよ。…………。俺の勘違いじゃなけりゃ、お前時々俺越しに何か見てるだろ。……アルミレーナとかいう、お前に顔の似た女が出て来た時に声が聞こえた。たろさんが俺を見てお前の事に言及した。……お前、俺の目に変なものが見える以外の細工したろ?」
「んー。まあね」
「やっぱりな。……悪趣味。覗き魔」
 存外あっさりと返された肯定に、乙瓜はケッと悪態を吐いた。火遠はそれにカラカラと笑い声を返した。
「随分言ってくれるじゃあないか。その覗き魔のお陰で何遍救われたと思ってるんだい。去年魅玄の奴に鏡に閉じ込められた時だって、ちゃあんと助けに来てやったじゃあないか。……それにこっちだって四六時中君のやること成す事監視してるわけじゃあないんだぜ。そんなに暇じゃあないからね。君がちょっと危な気な時だけだ」
 その事で要らぬ心配をかけたのなら謝るけどねと、火遠はケラケラと笑った。……請われたって謝る気はなさそうだった。
 乙瓜は不機嫌に頬を膨らませた後、何かを思い出して口を開いた。「じゃあお前、さっきも見てたのか?」と。
 火遠は「ああ」と肯定し、「七瓜に会ってたね」と続けた。
「全部お見通しってわけかよ。…………。"思い出すな"ってのは?」
「それは秘密」
 言って、火遠は漸く乙瓜を振り返った。そのニヤリと不敵に吊り上がった口許を見て、乙瓜は再び頬を膨らませる羽目になった。
「自分自身の事なのに、思い出すなってのはどうなんだよ」
「何、思い出さない方がいい事だってあるさ。……少なくとも今は時期が悪い」
「そこまで言うって事は何か知ってんだろお前?」
「ばーか、知ってるからこそ忠告するんだよ。わざわざ危険な橋を渡りに行くこたぁないって事さ」
 フンと鼻を鳴らし、火遠はふっと立ち止まる。
 気付けばそこはもう拝殿の前で、坂は既に終わっていた。
 やっと戻って来たかと思うと同時、乙瓜は「あれ?」と違和感を覚える。
 いや、それは違和感なんてものじゃない。明らかな異変であった。
 というのも、拝殿の前には人っ子一人として存在していなかったからだ。先程まであんなに祭囃子が聞こえていたというのに。
 ――否。祭囃子そのものは未だ聞こえてきている。それもかなり近い。
 確かに、確実に、確定的に。どこか遠くからではなく、それは間違いなくこの場所から聞こえてきていたのである。
「え……何、なんでだ!?」
 乙瓜が驚き辺りを見回していると、拝殿側から声がした。火遠の声ではないそれは、だが乙瓜の知る人の声だった。

「やあやあこれは。烏貝ちゃんの彼氏はあなただったのか」
「ちょ、えっ……えっ!?」

 乙瓜はその人物の姿を見て只々驚愕した。
 意味のある単語すら紡げず、感嘆詞と共に口をパクパクとさせて彼女・・を見遣る事しか出来なかった。
 彼女・八尾異は、黄金の光の宿る目をスッと細め、「いらっしゃい」と微笑んだ。
 その微笑みに火遠が答える。
「やあこんばんは正巫女様・・・・。この調子じゃあ、中は大分出来上がって・・・・・・るみたいだね?」
「そうだね、みんなもう酔っぱらってるよ。今からどう収拾をつけようか、そればかりが心配だ」
 異はフフと笑みを零すと固まったままの乙瓜を見て、今度はおかしそうに腹を抑えた。
「何をいつまで固まってるんだい烏貝ちゃん。神社にぼくが居て何もおかしい事はないだろう?」
「お、おう……そうだけど……」
 乙瓜はぎこちなく答えると恐る恐るといった様子で異と火遠を交互に指さした。
「や、八尾さんとお前知り合いだったのかっ……?」
「なんだそこか」
 異は成程と手を叩くと、火遠と顔を見合わせてニヤリと笑った。
「ここにおわす彼氏さんは、夜都尾うちの神社の神様とは旧い付き合いになるんだよ。神様――いいや、偉い神様の代理だから、神様代理とでも云うべきか……まあそんな瑣末な事はどうでもいいや。兎に角知り合いなんだ。そんなわけでぼくとも顔見知りというわけ」
 ね、と首を傾げて見せる異を、「彼氏は余計だろう」と火遠が小突く。
 昨日今日の付き合いではない事を象徴するような馴れ馴れしい応報を見て、乙瓜は異の言葉に嘘が無い事を感じ取った。と、同時に「まてまてまて」と声を上げる。
「知り合いって事は全部知ってて!? 契約の事とか全部知っててあのやり取りなのかッ!!? 彼氏がどうとかって!!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ乙瓜とは対照的に異は「ん?」と首を傾げて、恒例の何かを考えるポーズを取った後、気ぬけた調子で「ああ」と呟いた。
「なんだ、烏貝ちゃん火遠と契約してたのかい。やっぱり彼氏じゃないか」
 水臭いなあとでも言わんばかりの異を、やはり火遠が「違うっての」と小突いた。
 乙瓜は乙瓜で頭を抱え、目の前の巫女の底知れなさに苦悩した。
「あまり異の言ってる事を真面目に考えるなよ」と火遠が言う。
「このむすめ、昔から勘ばっかりはいいから、適当に言った事が大体当たってたりするんだ。それでもうなんでも知られてる気になって洗い浚い話すともうお終いさ、無駄に恥かく上に作り話のネタにされる」
「心外だなあ、そんな言い方はないだろう?」
 ふんと腕組みする異を一瞥し、火遠は乙瓜に向けて一言。
「ちなみに俺は口調をネタにされた」
「ああ、道理で……」
 乙瓜はうんうんと頷いた。ずっとどこかで聞いたような口調だと思っていたのだ。
 異はというと、己をネタに通じ合う二人を見て唇と尖らせると、しかしはあと息を吐き、くるりときびすを返して本殿へと歩を進めた。
「雑談はこのくらいにしておこうか。"来る"と聞いていたからか、神様たちがお待ちかねだ」
 玉砂利を気にせず踏みつけて進んでいく異を見て、火遠も「まあそうだな」と歩き出す。
 僅かに出遅れ、再び火遠の後を行くことになった乙瓜は「置いていくな」と口にすると同時、聞きそびれていたとある一つの事柄を思い出す。
 乙瓜は思う。恐らく、この先に待っているのは人外たちの宴会だ。そこまで言ったら、多分今日中にこれを聞くことは出来ないと。
(――今、聞くしかない)

「火遠!」  意を決し、乙瓜は火遠を呼び止める。火遠は坂道の時と違ってすんなりと振り返り、何だいと小首を傾げている。
 そんな彼に乙瓜は言った。そんな彼に、乙瓜は問いかけた。

「あの時七瓜や三咲と一緒に居た、アルミレーナって奴は……!」

 ――何者なのか。乙瓜はそれを知りたかった。
 つい今し方火遠が説明した"ちょっと危険な時"とは明らかに異なるシチュエーションで、「待て」と呼び止めた彼女の事を。乙瓜は知りたかった。
 そんな知りたがりに振り返った妖怪の顔に張り付く笑顔は、普段の不敵な笑みではなく。どこか穏やかな微笑みで。そしてどこか寂し気な微笑みで。
 それが少し前まで共に居た彼女の姿を想起させ、乙瓜ははっと息を飲んだ。
 息を飲む間に、火遠は丸く口を開いた。生温い夜風が境内を吹き抜け、揺らめく木々がざわざわと唸る。
 その唸りの中で、火遠は言った。火遠は確かにこう言ったのだ。

「娘だよ」

 たった五音の言葉を理解するのに、乙瓜はたっぷり5秒の時間を要した。
 火遠は再び背を向け歩き出し、乙瓜はその場に取り残された。
 やがて乙瓜がその意味を理解し叫んだ時、もう境内の屋外には誰も居ない。
 本殿の中から聞こえる人外たちの楽し気な笑い声と祭囃子の音だけが、人気ひとけの消え失せた夜の境内に不自然に響き渡っている。
「嘘だろ……?」と、誰に向けるでもなく呟いた乙瓜の目は、皿のように真ん丸で。
 同じくらい丸い、しかし少しだけ欠けた十六夜いざよい月だけが、彼女をそっと照らし出すのだった。



(第八談・私とあなたと祭囃子・完)

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