宵の町に幽けく響くは、低く唸る太鼓の音と、高く囀る笛の音。
星月夜の下輝くのは、朱や橙の提灯の光。人々の声、笑い声。
賑やかに楽し気に、街闇を裂いて神輿が行く。
今日はハレの日、非日常。幽明の境はあやふやに、人霊の境は曖昧に。
どちらでもあり、どちらでもなく、どちらつかず。そんな、判然としない時間の中で。
何者とも知れない彼女達は出逢い、そして――。
七月十八日金曜日。七月も遂に三週を終わり、翌月曜日には海の日を控えたこの日。
世間の殆どの地域がそうであるように、ここ古霊北中学校でも一学期の終業式が行われていた。
「北海道とか山間部の県なんかだとさ、あと一週間くらいは一学期続くらしいぜ?」
式前の大掃除の最中、天神坂がなんともなしにそう呟いた。
乙瓜はそれに「ふぅん」とそっけない返事をした。
現在地点、被服室前廊下。同じ班故に同じ場所の掃除担当となった彼らは、何の掃除のし甲斐もないそこを適当に拭いたり掃いたりするそぶりを見せながら、いつものように雑談していた。
全開の窓外には青々とした晴れ空が広がっている。
真っ青なキャンバスに白い入道雲が山のように聳え立ち、如何にも夏といった様相だ。
ジリジリと照らす陽の光と、蝉たちが奏でる陽気なアンサンブル。朝の予報で県全域に曇りマークが出ていたなんて、皆すっかり忘れているだろう。
「あっちぃなあ~」
ワイシャツの襟元をバサバサとさせ、天神坂は塗装のはげかけた壁に寄りかかった。
「プール行きてえプール。さっさと学校終わんねえかなぁ~。ていうか麻幽美と海行きてえ」
「心配せんでももう少しで終わるよ。……つうかさりげなく惚気んなむかつく」
麻幽美とは天神坂の彼女である。女子バスケ部の丹波真幽美。
一年生の頃から良い雰囲気だと専らの噂だったが、最近になって堂々と付き合い始めたらしい。所謂リア充である。
乙瓜はすっかり舞い上がった様子の天神坂を一瞥して溜息を吐くと、さして汚れていない雑巾を水入りバケツに浸して強く絞った。
天神坂はその様子を見てやれやれと頭を掻くと、大して集まっていないゴミを塵取りへと移した。
いつの流行か知れないご機嫌な洋楽を流し続ける校内放送は一旦途切れ、掃除終了の時間が近い事を告げている。
被服室の中を掃除していた同じ班のメンバーが「そろそろ」と呼びかけ、乙瓜と天神坂はぼちぼち片づけを始めた。
どん詰まりの被服室前から廊下中程の流し台までバケツを運ぶ途中、乙瓜は異とすれ違った。
近頃珍しく休まない彼女は、すれ違いざまにニコリと微笑むと「明日の夜にね」と囁いた。
明日の夜は、いよいよ夜都尾稲荷の夏祭である。今頃神社近辺では町内会のメンバーが総出となって、町の一大イベントの準備設営をしている頃だろう。
「おう」と頷き、乙瓜はその場を通り過ぎた。変わらず重たい物を抱えているのに、その足取りは幾らか軽くなったようだった。
先日――例のカメラ男騒動の後。本人曰く「ちょっと隣県まで行ってきた」火遠に対して怒りながらも、乙瓜はそれとなく祭の話を振ってみた。
その話題振りに一瞬目を丸くした火遠は、だが意外と乗り気な様子で「いいじゃあないか」と食いついてきた。
「去年はすっかり頭になかったし、丁度挨拶しておきたい相手もいるからね。君が行くなら俺も行くよ?」
というか、俺が居ないと君迷子になるだろう? 馬鹿にならないぜ、あそこの人だかりは。そんな風に言われて憤慨する乙瓜だったが、渋々それを了承した。
美術部の皆は何故か「行ってらっしゃい」といったムードで、誰一人として一緒に行こうと言い出す者は居なかった。
唯一、魔鬼だけは「不安だなあ」と言いたげな表情を浮かべていたが、その日は既に別の用事が入っているらしく、一緒に行くことは難しいとのことだった。
誤解は部内でも広まりつつある様子だったが、誰も同行しないというのはある意味好都合といえば好都合だった。
あれから――【青薔薇】の一派を名乗る三人が古霊町に現れてから乙瓜が感じていた違和感。
自分の目の事、あの時出会った火遠そっくりの少女の事、七瓜という少女の事。それらを問うなら、学校でもなく、家でもなく、雑踏に紛れた二人きりくらいの状況の方が丁度いい。
他の誰かに言って解決するわけでもない疑念の凝固が、氷解するならそれでいい。
それは異の思惑とは大分ズレていたが、結果的に夏祭への誘いが乙瓜にとって良い状況を齎すこととなったのだった。
(それはそれとして、夜都尾の夏祭行くのすごい久しぶりな気がする。昔一回だけ行ったんだけど、やたら人多いわ迷子になるわで、次の年からは行ってないんだよな)
バケツの汚水を捨てながら、乙瓜はぼんやりと昔日の光景に思いを馳せていた。
過去に参加した夏祭の事へと。それはまだ自分が小学校低学年の頃であったと乙瓜は記憶している。
小さな視点から見上げた大勢の人々。闇夜を照らす提灯の明かりと、雑踏に混じって聞こえるお囃子の音。
手を引く母親とはぐれて心細くなって泣いてしまった事と、そんな自分の傍で手を握ってくれていた誰かの記憶。
(……そういえば、あれは誰だったんだろう?)
嘗て自分のすぐ傍に居た筈の誰かの存在を思い出し、乙瓜はふと首を傾げた。
所詮は幼い日の記憶だからか、きっと隣に居た筈のその顔が思い出せない。思い出せない、が。
――何故だか、それが自分にとってとても大事な人だったように感じられて。乙瓜は益々首を傾げるのだった。
ほどなくチャイムの音が響く。乙瓜はハッとし、軽くなったバケツを抱えて被服室へ走る。
生温い風が廊下を通り抜ける。教室のカーテンが翻り、乙瓜の髪もふわりと乱れる。
顔に掛かった長い毛を払う刹那、乙瓜は耳元で誰かの声を聴いた気がした。
はたと立ち止り、辺りを見回し振り返る。だが、誰も居ない。空耳だ。
何だったのかと頭を降って、彼女は再び被服室へと走った。
すれ違いに体育館へと向かう天神坂が、ヘラヘラと笑いながら「遅れんなよ」と言う。
「お前こそな」と答えた時には、乙瓜はすっかり空耳の事など忘れてしまっていた。……その空耳がどんなものだったのか、確かに聞こえていた筈なのに。
そう。乙瓜は確かに聴いたのだ。そしてそれを認識していたのだ。
その空耳が、幽かな声で。けれども確かにこう言ったのを。
――私も欲しい。
終業式は恙なく終わり。最後のHRにて、最早テンプレートのような「危険に注意!」や「夏休みの課題は計画的に!」といった類の話を聞き終えた後、生徒たちは皆居ても立ってもいられない様子で教室を飛び出していった。
いよいよ学生の楽しみ・長い長い夏休みの始まりである。
と、その前に。誰に促されたわけでもなく、乙瓜は昇降口とは真逆の方向へと歩き出した。
辿り着いたのは北中二階、西女子トイレ。超大型連休を前にしたからなのか、そこには自分以外誰も居ない。
乙瓜は好都合とばかりにツカツカと歩き、手前から三つめの個室の前へ立つ。
内開きの扉を抑えながら閉じ、コンコンコンと三回ノック。仕上げにこう呼びかける。
「はーなこさん」
「はーあーいっ!」
歌うような呼びかけに、歌うように答える言葉。抑えた扉の上から黒い頭をヌッと出し、花子さんはニィと笑った。
「ハァイ乙瓜。何の御用かしらー?」
「いや、特に何か用ってワケじゃあねえんだけど……明日から夏休みだし、一回挨拶しとくかなって」
部活はあるんだけどなと付け加え、乙瓜はぷぅと頬を膨らませた。
花子さんはそんな彼女を見てクスクスと笑うと、ふわりと飛んで個室の外へと降り立った。
「聞いたわよぉ。貴女、火遠とデートするんですってね」
降り立つなり、ニヤニヤしながら花子さんは言った。
乙瓜はもはや慣れたのか、冷静に「違う」と返した上でソッポを向き、少しばかり声を潜めてこう言った。
「ただちょっとだけ……聞きたいことがあるだけだし」
「あら、そうなの? ふぅん。火遠も大変ねえ」
何を指して大変と呼ぶのか、花子さんが意味ありげに目を細めので、乙瓜はまたもや頬を膨らました。
「だ……だから本当にデートとかじゃあねえんだってば! 花子さん信用してねえだろ!」
「やあねえ。信用してるわよぅ、当たり前じゃない。うふふー、楽しんできてねー」
「~~~~っ!」
乙瓜は少しの間「ぬー」だの「うー」だのと唸った後、諦めたように息を吐いて花子さんを見た。
只の人間と見紛う程に血色の良い学校妖怪は、そ名の通り花のような微笑みを浮かべてそこに居る。
その顔、その瞳を真っ直ぐ見つめ、……ただ少しだけ照れくさそうに乙瓜は言った。
「……まあいいや。とりあえず俺たち休みに入るけど、花子さんたちも元気でな」
その言葉に、「当たり前じゃない」と花子さんは答えた。
答えた上で「うっかりどこかで死なないように気を付けなさい」と、少々不穏な言葉を付け加えるのはやはり"お化け"故か。
そんな彼女に手を振って、乙瓜はトイレを後にした。
脱いだ上履きは持ち帰り。バッグにしまってローファーに履き替え、いざ夏空の下へと躍り出る。
前庭には陽炎が揺らめき、咲く背の高い向日葵が天を仰ぎ見ている。
年代ものの校舎は強い陽光に晒され、まるで新築のように白く見えた。
「夏だなあ」
乙瓜は思わず呟いた。長引いた梅雨のせいか、ここ数日になって漸くまともに見れるようになった青空に対しての素直な感想だった。
正午を前にして日は高く、影は短く縮こまる。そんな時間の日差しを全身に受けて、乙瓜は自転車を漕ぎだした。
狭い影の中から向けられる、羨望の視線に気付かぬまま。