あくる月曜日。
花子さんに呼び出された乙瓜と魔鬼は、昨晩の裏生徒会にて議題に上ったカメラ男に関の正体について真相を聞かされていた。
時は早朝・始業前、場所は滅多に人の寄り付かない屋上扉前。花子さんと乙瓜魔鬼の他に人影は無く、久しぶりの三人きりだ。
「――と、まあ。そんなわけで。今古霊町に出没しているカメラ男たちは、ネットに触発されたお馬鹿な暇人たちってことよ」
大体の経緯を聞き終え、二人は納得したように頷いた。
「なるほど、あいつらは野鳥じゃなくて幽霊を見に来てたわけか」
「ほへー」
乙瓜と魔鬼はそれぞれ見かけたカメラ男たちの姿を思い出し、それぞれの感想を口にした。……いや、魔鬼の言葉は感想というよりは単なる感嘆であったが。
しかし彼女らのどちらにも危機意識は感じられず、精々「大変だねえ」くらいにしか思って居ない様子である。
決して無関係な話ではないというのに呑気なものだ。
だが、それには花子さんがカメラ男のもう一つの目的――即ち美術部の噂の真相を確かめることについて話していなかったことも大いに関係していた。
のんびりと構える美術部の二人は、よもや自分たちが狙われているだなんて、思いもしないだろう。
「つうかさ、平日にも普通に居るって相当暇だよな」
「大学生とかじゃないか? 或いは働いてないとか……」
「知らん。……でも高そーなカメラ持ってる奴もいたよなー」
「金持ちの暇人、か……? 謎だな」
自らに迫る危機など露知らず、目の前で平和な雑談を繰り広げる少女二人を見て、花子さんは苦笑いを浮かべた。
(知らないって本当に幸せな事だわ……)
軽く頭を振り、花子さんはポケットからケータイを取り出した。
ディスプレイに表示される時刻は8時20分。
一時間目にはまだ早いが、あと5分もすれば朝のHRが始まる時間だ。それを確認すると、花子さんは再びケータイを仕舞う。
「まだちょっと時間があるわね」
そう呟いた花子さんにジトリとした視線を遣り、乙瓜は言った。
「当たり前のようにケータイ出してくるようになったな……」
どこか呆れたようなその発言は、ケータイに関する一連の動作を見ての反応らしい。
見れば、傍らの魔鬼もまた乙瓜と同じような表情を浮かべている。
花子さんはそんな二人の反応に一瞬ポカンとした後、ニコリと口角を上げた。
「いいじゃない、今時人外の類だって持ってる子は普通に持ってるわよ」
「むー。持ってるんなら番号かメアドくらい教えてくれてもいいじゃんかー」
頬を膨らませる魔鬼を見て、花子さんはフフフと漏らした。
「だぁめ。あの世回線だから普通の回線だと繋がらないわよ。それにね、無理にこっちの回線に繋げようとしてると、予期せず危ないところに繋がっちゃったりとかするのよ。だから駄目。教えてあーげない」
言って、花子さんは目を細めた。だが、「危ないところに繋がる」だなんて具体性のない理由では納得がいかないと、魔鬼は更に食い下がった。「危ないところって、例えば?」と。
そんな返しを受けて、花子さんはパチリと目を見開き、続いて「ん」と口を結び。
……それから、ニタァとした、いかにもお化け然とした笑顔を浮かべ、ねっとりとした調子でこう言った。
「現世を彷徨う怨霊とか、文字通りあの世とか……ね。繋がったら引っ張られて戻ってこれなくなるわよぉ」
その言葉に、魔鬼はマズイものを聞いてしまったように顔を歪めた。
乙瓜もまた「おおぅ」と呟いて少し引いている様子だ。
やっぱりこの人お化けなんだなあと、二人は改めて思い知った。
そんな彼女らを他所に、花子さんは何か思い出した様子でポンと手を叩いた。
「いけない、こんな話をしている場合じゃなかったわ」
彼女は普段の表情に戻ると、改めて二人を見遣り、口を開いた。
「話は戻るわ。カメラ男の今後なんだけどね。……放っておくと、大量に怪事が起こって危険、って話まではしたわよねえ?」
「おう」
「聞いたよー」
問いかけに頷く二人。花子さんはそれを確認して話を続けた。
「そう。いかに個人の趣味の範疇とはいえ、このままだととんでもないことになるのよ。だけど相手は生身の人間、貴女たちにどうこうしろと言うつもりはないわ。そう……私はね、今日は貴女たちに何かをして欲しくて呼び出したんじゃないわ。貴女たち美術部に、たった一つの事を見逃してもらう為に呼び出したの」
「……見逃す? 何を?」
魔鬼が問う。花子さんはスゥと大きく息を吸い、ニコリと微笑んでその問いに答えた。
「怪事を起こすことを、よ」
その日のHRの内容は、朝夕ともに休日中に不審者が学校敷地内に侵入した事と、そして近頃町内各所に出没している不審者たちへの注意勧告であった。
遊嬉は金曜日の件について親兄弟・教師に話すことはしていないらしいが、同日中にカメラ男に声を掛けられた生徒は他にも居るらしく、各クラスの担任は何度も繰り返し注意を呼び掛けていた。
そして迎えた放課後。月曜日は職員会議の日故に部活は無く、生徒たちは下校ムード。
不審者大量出現の煽りを受けてか、帰宅する生徒たち――特に女子生徒たちは、心なしかいつもより大人数で纏まっているように見えた。
団子のように固まって校門を出て行く生徒の群れに、乙瓜や魔鬼、美術部の面々が含まれている事を確認すると、花子さんはふぅと息を吐いた。
場所は屋上。やや傾きかけた日差しに照らされる彼女の足元には影がない。否、彼女達には影がない。
今、屋上に集うのは影のない人影の群れ。
トイレの花子さん、トイレの闇子さん、トイレの太郎さん。赤マント、赤紙青紙等を筆頭とした、学校中に巣食う人外もとい、裏生徒の面々。
「生徒と呼べるような歳ではないけれどねえ」
ホッホッホと笑うのはヨジババだ。賛同するように普段は物言わぬ石膏像や、仕舞われたままの音楽室の肖像がカタカタと揺れる。
もはや人とは呼べぬ形の手だけの存在がゆらゆらと揺れ、足だけの存在がステップを踏む。
声の出ないてけてけが小刻みに身を震わせ、大喰らいの妖怪が首を傾げる。
そんな学校妖怪の集いの中に、新たに加わるモノが居た。
どちらが前でどちらが後ろか。全身を余すところなく黒布で覆ったそれは、花子さんの前まで歩み寄ると、ぺこりと一礼した。
「あら、図書室の司書さんじゃない。珍しいわね」
花子さんが笑いかけると同時、それは恐らく顔に当たる部分を隠す布をずらした。
ずらされた布からは、普通の人間と同じ白い皮膚が覗く。普通の人間と同じ口と鼻が陽光の下に晒される。
唯一、普通の人間と違うのは。その鼻の上に在る目玉が、たった一つであるということか。
「ご無沙汰しております十文字様……いえ、北中裏生徒会長花子様。古霊北中学校裏図書室司書、兼永年図書委員長・一ツ目ミ子でございます」
一ツ目と名乗ったそれは唯一の目玉で花子さんをじっと見つめ、可憐な少女の声でそう告げた。
「ミ子じゃねーか! ひっさしぶりだなあ! もう何年も見ねえから、あたしゃてっきり居なくなっちまったのかと思ってたよ。元気か?」
歓声を上げたのは闇子さんだった。
どうやら一ツ目とは昔からの知り合いであるらしい彼女は、黒ずくめの体躯を抱きかかえて頬ずりした。
ただ、一ツ目の方は顔色一つ変えず、毅然とした態度で「それは後にしてください」と告げると、改めて花子さんに視線を送った。
その視線を受けて、花子さんはコクリと頷く。
「ヤミちゃん。離してあげて」
「なんでだよ……。……。わかったよ。ふん」
闇子さんは花子さんと一ツ目を交互に見遣った後、少々むくれながらも一ツ目から手を離した。
解放された一ツ目はやれやれと言わんばかりに体を揺らし、「助かりました」と呟いた。
花子さんは「いいのよいいのよ」と微笑み、直後スッと目を細めると、きわめて真面目な声音で言った。
「……で。このタイミングで貴女が現れたということは、これから私たちが実行しようとしている事について何か異議があるって事かしら?」
輝く赤の眼光。それをまともに受けた黒衣の司書はしかし臆せず、ただ目を瞑って頭を左右に振った。
「違います。私はただ見届けに来たのです」
「見届けに?」
「はい」
一ツ目は静かに頷くと言葉を続けた。
「貴女方の此度の計画について、我々方から異議を申し立てることは特にありません。しかし、事の次第は全て見届けさせていただきます。……ですので、くれぐれも羽目を外す事無きよう……お願い申し上げます」
「……わかってるわよ」
花子さんは少しばかりムッとした様子で返した。
(羽目を外すなですって……? わかってるわよ、そんな事くらい)
思い、しかしこんな事で苛立っても仕方ないと溜息を吐く。
そう、仕方ないのだ。一ツ目ミ子にとっては、これを問う事が仕事なのだから。
北中裏図書室司書こと永年図書委員長の一ツ目ミ子は、人と人ならざる者間の均衡を守る組織【灯火】から派遣された妖怪である。
【灯火】の使命は人間によって人外の平穏が一方的に破壊されることを防ぎ、そして人外によって人間の平穏が一方的に破壊されることを防ぐこと。
状況によってどちら味方にもなり得るし、どちらの敵にもなり得る、天秤のような存在。それが【灯火】なのだ。
そんな組織に属する一ツ目は、今宵花子さんたちがしでかそうとしている事について黙認しつつも、万が一の事――必要以上に人間を傷つけるような事があれば黙ってはいない、と。つまりそういう事を言っているのだ。
無論、それは花子さんたちを信用していないからではない。寧ろ花子さんたち学校妖怪を信頼しているからこそ、彼女達と敵対したくないからこそ。一ツ目ミ子は忠告するのだ。
仕事として。そして、一妖怪として。
(わかってるわよ……そんな事情くらい)
花子さんは浮かない表情のまま一ツ目を見た。視線の先に居る彼女は深々と頭を下げており、その表情は窺えない。
……尤も、普段からポーカーフェイスなので、例え顔が見えたとしても、何を考えているかなんてわかりそうもないが。
「一ツ目殿一人で、でござるか?」
何も言わない花子さんに代わり、たろさんが一ツ目に問う。一人で、とは、考えずとも見届ける事に関しての質問であろう。
一ツ目はそれを受けて顔を上げると、首を小さく振って答えた。
「ご不在中の火遠様に代わり、嶽木様が共に参ります」
「左様でござるか」
たろさんが納得したように頷く中、闇子さんは思い出したように言った。
「そういえばミ子、火遠の旦那はどこに行っちまったんだ? ここんとこずーっと見かけねえぜ?」と。
「……おや? 皆様存じていないのですか?」
一ツ目はその特徴的な目を大きく見開くと、さも意外そうな調子でそう言った。
皿のような目で辺りを見渡し、どうやら闇子さんの発言が嘘でも冗談でもないらしいと悟ると、ふぅと息を吐いてこう告げた。
「火遠様は先日から、【灯火】総本部・丁丙大師匠の元に出向いておりますが」
同日中・夕方5時45分、学校妖怪たちによる作戦決行1時間15分前。
自宅近くの小さな神社の拝殿・賽銭箱の前に腰かけ、何をするでもなく一人黄昏る乙瓜の姿がそこには在った。
『一人で行動するな、人気のない場所に出歩くな』……学校にて耳に胼胝ができるほど言われた言葉を破っているのは、何も若い反骨精神からではない。
こんな時であっても呑気な祖父に、ちょっとしたお使いを頼まれてしまったからだ。
居鴉寺の住職に、自分の家で採れた野菜を届ける事。それが本日のお使いの内容だった。
実は、居烏寺の住職は乙瓜の祖父の兄なのである。
とはいえ、普段は祖父一人でこなせる用足しであるのだが、件の祖父は野菜の収穫後に段差に躓いて腰を打ち、自転車に乗る事が出来なくなってしまった。
先方の住職は歳のためか視力が低く、更に普段居鴉寺の雑務をこなしている若い坊主二人は今日に限って用事で不在。向こうから取りに、ということは不可能だという。
「いや、明日行ったらいいじゃん」と冷静な乙瓜に対し、祖父は必死の形相でこう返した。
「今だね
なんでもうっかり収穫を忘れていたトマトが一つだけあり、それが完熟と腐敗の間の絶妙な状態であるという。
それをどうしても兄に届けたいとほざく祖父を前に、乙瓜は思った。――ああ、この人馬鹿なんだぁ……。と。
そんな不満を抱えながらもお使いをこなし、現在はその帰り道。……の途中で小休憩中なのである。
乙瓜の片手には駄賃の五百円で買ったジュース・甘く冷たいメロンソーダの缶が握られている。
手にしたそれを時折呷りながら、乙瓜はぼんやりと考え事をしていた。
それは本来ならばこのお使いを任された筈の兄への恨みだったり(寮制の高校に進学した)、はたまた「そういえば去年この辺で出合い頭にメロンソーダ吹っかけて来た奴がいたなあ」なんて回想だったりと、割とどうでもいい内容が主だったが……何度目かに缶を傾けた後。乙瓜はふと今朝の事を思い出した。
――見逃してもらう為に呼び出したの。
自分と魔鬼を呼び出してそう告げた花子さん。どうやら彼女は――否、彼女達学校妖怪は、カメラ男たちを古霊町から追い払うために、今晩何かをしでかすつもりらしい。
その具体的な内容は、乙瓜も魔鬼も、そして美術部の誰も知らない。
だが、「決して殺すとか、消すとか、そういう物騒な事はしないから。ね?」とウィンクして見せる花子さんを前にし、彼女達はとりあえず首を縦に振ったのだった。
――まあ、花子さんたちなら大丈夫か。と。
(って了承しちゃったものの、具体的に何するか聞いてないからなあ。不安っちゃ不安だなあ)
一度は納得した事に対して疑問を持ちながら、乙瓜は暮れかけの夏の空を見上げた。
まだ青い空には西日が被さり、白い雲を橙
その、なんだか物寂しい色に染まった空を見て、乙瓜はふぅと息を吐いた。
「つうか、お前何処行っちゃったんだよ。火遠――」
息と共にそんな言葉を吐き出して、乙瓜はふと目を閉じた。視界は一時
その、閉ざされた視界の中で。
「おじさんなら居ないよう?」
「!?」
不意に投げかけられた声に驚き、乙瓜は飛び上がらんばかりの勢いで目を見開き、声の方向へと振り返った。
振り返った先――自分のすぐ隣には、先程までは確かに居なかった筈の存在が腰かけ、呑気に手を振っていた。
切りそろえられた黒い髪。赤いワンピース、白いケープ。過去に二度遭遇した魔女の一派が一人、石神三咲。
彼女は白い歯を見せてイーっと笑うと、「よいしょ」と呟きながら手にした缶ジュースのプルタブを開けた。サイダーだった。
「……てめえ、一体何しに来やがった」
全く警戒心のない三咲とは真逆に、乙瓜は眉に力を込める。三咲はそんな乙瓜を見て首を傾げると、己の持つサイダー缶に目を遣り、それを差し出した。
「いる?」
「いらねえよ」
差し出された缶を突っぱね、乙瓜はプイとソッポを向いた。そんな彼女を見て、三咲は益々不思議そうに目をパチクリとさせた。
「おいしーよ?」
「そういう話じゃねえ! なんでお前がここに居んのかって聞いてんんだ。……ていうか、例のお友達と七瓜の奴は一緒じゃねえのかよ」
「ああ!」
ポンと手を叩き、漸く合点の行った様子で三咲は答えた。
「私たち
「はぁ!? あれ
「うん。そー。だからね、もうご近所さんだから。乙瓜ちゃんの近くに居てもおかしくないんだよぅ。よろしくねー」
ニコリと笑った三咲の眼前には、驚愕のあまり固まった乙瓜の姿がある。
だが三咲はそんな彼女の様子など気にも留めず、そのままの調子で話を続けた。
「えーとねー。エリィは居ないよう。七瓜もここにはついてきてない。変なおじさんいっぱいいるから、二人ともあんまり歩きたくないんだってー。だから今は私だけ。一対一で会うのは……そういえば初めてだね」
そうでしょう、と小首を傾げ、三咲はサイダーを呷った。
コクリと鳴るは咽の音。その瞬間、三咲の注意は完全に乙瓜から離れていた。……少なくとも、乙瓜にはそう見えた。
あまりに無防備すぎる姿を前に、乙瓜は考える。何かの罠だろうか、と。
(相手は一人……とはいえ、魔女の一員な上に一度は俺の事を殺そうとした奴の仲間だぞ。これは何かの罠か……? 一体何を企んでいやがる……)
乙瓜の視線は自然と鋭くなっていた。
その穿つような視線に気づいたのか、三咲は缶を置いて乙瓜に視線を戻す。
そして再びニコリと笑むと、乙瓜の心中を見透かしたようにこう言った。
「大丈夫。罠なんかじゃないよ。私は乙瓜ちゃんとは戦わない。ヘンゼリーゼにもその気はない」
だから大丈夫だよ? と、石神三咲は微笑んだ。
乙瓜は益々不機嫌になった。と同時に、脳裏に浮かんだ一つの疑問を口にする。
「……。お前らが度々言ってる、ヘンゼリーゼっていうのは」
「えらーい魔女。そしてすごーい魔女。三咲達を可愛がってくれるよ。でも、乙瓜ちゃんたちまで可愛がってくれるかどうかはしーらない」
しーらない、と言うと同時、三咲は「よっ」と立ち上がった。
「ヘンゼはねー、今は乙瓜ちゃん達に会わないって。今の所おじさんにしか用が無いから」
参道を一歩、二歩、三歩と進んだところで三咲は振り返り、歯を見せて「えへへ」と笑った。
夏風にふわりと靡
乙瓜はその眩さを避ける様に瞼を細めると、すっと立ち上がって三咲に問いかけた。
「おじさんっていうのは火遠の事か?」
「そうだよー。乙瓜ちゃん」
「……お前あいつの事について何か知ってるのか?」
「ううん? ぜんぜーん」
全然。と返しておきながら、三咲は直後「でもね」と続けた。
「でもねー、おじさんは乙瓜ちゃんが思ってるよりも乙瓜ちゃんの事が大切なんだよー。いっつも睨みを利かせてて、三咲たちみたいな変なのが近づけないようにしてるんだー。でも、今はおじさん居ないからぁ、私たちこうしてお話し出来たんだよ。やったねー」
乙瓜ちゃんが思ってるよりも乙瓜ちゃんの事が大切なんだよ。そんな事をあっさりと言ってのけられ、乙瓜はやや面食らった。
(ハァ!? おいまて、それってどういう意味だよ!? これも何かの作戦なのか……?)
乙瓜はどぎまぎした後、しかし一つ重要な事に思い至って三咲に詰め寄った。
「待てよ、今は火遠が居ないってどういう事だ!? よーく考えてみたら、あいつ見かけなくなったのはお前らに会ってからだ! お前らが何かしたんじゃないのか!?」
細い腕をグイと掴み、乙瓜は三咲に問い詰める。
三咲はしかし、鬼気迫る乙瓜を前にして声一つ上げることなく。先程までと打って変わって冷たい視線を送り返し、こう応えるのだった。
「……知らないわ。私たちはおじさんに何もしていない。寧ろ、私たち程度の力じゃおじさんには敵わない。それが出来るとしたらヘンゼくらい。だけどヘンゼは、そんな意味のない事はしない。私たちじゃないわ。……だから離して」
離して。そう告げた瞬間の三咲の瞳に黒々とした闇を視たような気がして、乙瓜はバッと手を離した。
直後、背筋に冷たいものが走る。目の前の少女が、果たして先刻までと同じ少女なのだろうかという疑問が脳内を駆け巡り、冷や汗が額を伝う。
当の三咲は、乙瓜から数歩離れて「ありがとう」とお辞儀する。
その顔は既に元の明るい笑顔に戻っている。ほんの一瞬前に見せた闇など、初めから存在しなかったかのように。
何でもない笑顔を貼り着かせ、小さな魔女はクスリと笑う。そして、なんでもない調子のまま彼女は続けた。
「おじさんは居ないけど、だけど必ず戻ってくるよ。私にはそれがわかる。だから、暫くまた会えないかもね」
彼女はそう告げ、ブンブンと大きく手を振った。
それが「さよなら」のジェスチャーである事に乙瓜が気付くのに、たっぷり2秒ほどの時間がかかった。
それほどに放心していたのだ。三咲の変わりように唖然とし、呆然とし、愕然とし……そしてうすら寒さを感じていたのだ。
「お、おう」と、ぎこちなく返事を返して乙瓜もまた手を振った。
もしかしたら、ここで手を振り返さなければ、この奇妙な少女はいつまでも帰ってくれないのではないかと。彼女は無意識にそう考えていた。
三咲はそれを見て気を良くしたように口角を上げ、こう言い残して神社を去った。
「またね。影泥棒さん
「……えっ?」と、乙瓜が気付いた時にはもう遅い。
三咲の姿は既に無く、境内に居るのは自分一人だけ。
唯一、彼女が賽銭箱の前に置き去ったサイダーの缶だけが、そこに確かにもう一人居たことを物語るのだった。
西日に照らされた影は長く、空は幾らか暗さを増す。
鴉
「影泥棒って、どういうことなんだよ……」
呆然と呟く乙瓜に、答える者は誰も居ない。
やがて暗く日は沈み。そして、夜を迎えるのだ――。