怪事捜話
第六談・古井戸の夢③

「私も見た!」
「俺も……全く同じとかどういうことだよ!?」
「知らないよ。……なんだか怖くない?」
「怖くなんか……ないって……」
 翌日、7月8日。北中の――主に二年生の教室を中心に、そんな声が飛び交った。
 普段ならなんてことない話題だが、多数の生徒が全く同じ内容の夢を同じタイミングで見たとなっては話は別だ。
 各教室は一時間目の前から半ば狂乱に近い状態となり、臆病な生徒は泣き出してしまう始末。
 それに拍車をかけたのが、件の夢の話の発端となった二人の状態だ。
 墓下と賽河原。古井戸の夢に異様に怯えていたあの二人は、昨日にもましてやつれた表情をその顔に貼りつけて、皆の前に姿を現したのだ。
「……おはよう」
 そう朝の挨拶を口にする墓下からは、普段の威張り散らすような様子は感じられない。
 それどころか全体的に精気が感じられず、目の下には濃い色のクマが出来ている。寝不足であるようだ。それは傍らの賽河原にも言えることだった。
 何人かに「どうしたのか」と問われた彼らは、力ない声でポツリと返した。
「また……夢が変わったんだ……」
 既に怯えて騒ぐ気力すら失ってしまったような声音。
 そんな彼らのあまりの豹変ぶりを見て、クラスは、ひいては学年中が騒然となった。
 自分たちも見始めてしまったこの夢の先で、彼らはどんな恐ろしいものを見てしまったというのか。そしてこれからどうなってしまうのか、と。
 やがて朝のHRホームルームで各クラスの担任教師に諌められても尚ざわつく教室の中には、生徒一人一人が抱える漠然とした不安と、この先何が起こるのかという純粋な興味が渦巻いていた。
 そんな教室の一角で、烏貝乙瓜は普段より二割増しで険しい表情のまま、教壇の方を見つめていた。
 その姿は一見して担任の話を真面目に聞いているようだったが、今の彼女の頭の中にあるのは全く別の事柄だった。
 乙瓜は、悩んでいたのだ。
 HRが始まる前から――もっと言えば、今日布団から目覚めたその瞬間から。
 ずっと浮かない表情のままで、ある一つの事柄についてずっとずっと悩み続けていたのである。
(……まさかこんな騒ぎになるとは思わなかった。夢を見たって奴らは――概ねクラスの三割程度か。大体が昨日の朝の騒ぎを知ってる連中か、そいつと親しい奴だ。……だとしたら、伝染うつるって事なのか……?)
 そんな事を考えながら小さく息を吐く乙瓜は、そう。
 ――あの夢を、昨日墓下と賽河原に聞かされたとおりの内容の古井戸の夢を、見てしまったのだ。

 夢の中で、乙瓜は真っ暗で冷たい石の井戸の底に居た。
 井戸の底の水に浸って天を仰ぎ、遥か頭上の月を見上げていた。それはぞっとするくらい丸くて円い月――満月だった。
 聞いた状況と寸分違わぬ夢を見た乙瓜は、初めこそ気にしすぎで見たのだろうと思っていた。
 例の二人の発言を気にしすぎて町史なんぞ開いたからこそ見た夢なのだと。
 だが、それにしては妙に生々しい夢だったと思いつつ、いざ学校に辿り着いてみればこの騒ぎ。それも一人や二人どころの騒ぎではないときた。
 そこにきて乙瓜は漸く認めざるを得なくなったのだ。これはいよいよ怪事かもしれない、と。

 程なくして授業が始まり、各教科の教師たちが夏休み前の統一模試に向けて熱の入った指導を初めた。
 しかしそんな教師たちの情熱とは裏腹に、乙瓜は依然として上の空だった。
(例の二人が学校来てる所を見るに、今の所この夢は害のないモノ……いや、つっても寝不足というか、あんな精気を失った様子を見たら全くの無害というワケでもない、のか……? というか、あいつらいつから夢が変化したって言ってたっけ。三回目?)
 授業には全く関係ない事を真面目に考えながらも、乙瓜のペンはノートの上に板書の内容をせっせと写し取っていた。
 しかし思考の中身がオカルト的な事だからか、ノートの余白には無意識の内に星のマークの落書きが量産されている。
 五芒星。乙瓜の持つ火遠の護符にも描かれているそれは、古来より世界各地で魔術的な印として用いられ、陰陽道の世界では魔除けとして用いられてきたシンボルである。
 そんなものを無意識とはいえ描き続ける乙瓜には、もしかしたら心の隅に、他の生徒たちと同じような不安が存在していたのかもしれない。

「烏貝、おまえ今日なんかぼーっとしてね?」
 四時間目の授業の前、次の体育で皆が教室を移動する際にそう声をかけて来たのは天神坂だった。
 乙瓜は「そうか?」と返すが、それは別にとぼけているわけではない。
 当人としてはずっと大真面目に考えていたわけだから、ぼんやりしていたという意識すらなかったのである。
「別にそんなことないぞ?」
「そうかー? ならいんだけどさぁ」
 天神坂は暢気な調子で言った後、何かを思い出したように口を丸く開いた。
「……あーーー! そうそうそう。オマエも見たか? 古井戸の夢」
「オマエもって、……なんだ、お前は見たのか天神坂?」
 問う乙瓜に対し、天神坂は赤べこのように頷いた。
 乙瓜は考え事をしていた時とは違う意味で顔をしかめながら、制服のリボンタイを解いてブラウスのボタンを外し始めた。
 男子の前で何とも大胆と思われる光景だが、殆どの女子は体育のある日にはブラウスの下に体操着を着たまま登校しているので特におかしな行動ではない。
 ついでにスカートは脱ぐ前にハーフパンツを履くし、大半の女子は普段からスパッツやショートパンツを履いてきているので、ラブコメみたいなハプニングなんて早々起こり得ないものだ。
 まあクラスの男子はそんなこととっくに承知しているわけなので、天神坂も平然とした様子で話を続けるのだが。
「そうなんだよォー。いや、びっくりしたっちゃびっくりしたけど、学校来てまぁたたまげた。んで、オマエも見てんじゃないかと」
 どこか楽し気な様子で「そうだろ?」と視線を向ける天神坂に呆れつつ、乙瓜は小さく肯定の意を示した。
「……まあ、見たけど」
「そっかぁ、やっぱりかぁ。んで、何か分かったか? やっぱり悪霊の仕業か?」
「そんなのわかるわきゃねーだろ、なァんもわかってねえよ。あんな暗ーい夢如きでわかるんだったら苦労せんわ。……あ」
 そこまで言って、乙瓜は昨晩の事を思い出した。
 町史にあった記述、件の肝試しの場所、讀先城跡の土地に関わった者が次々と見舞われた凶事、そして餓者神社の事を。
 思い出したところで、改めて天神坂を見る。
 如何にも何か心当たりがある風に声を上げてしまったからか、期待の目で乙瓜を見ている。
(だから、なんでちょっと楽しそうなんだよ……)
 ずっと真剣に悩んでいた自分とはまるで対照的な彼の様子を見て、乙瓜は心の底からこう思った。こいつ気楽でいいなあ、と。
「おいおい、なんだよ『あ』って! なんだよ『あ』って!」
「うっさい。知らん。教えてやらん」
「ああっ!? なんだよケチクソー! いいじゃんか~!」
 しつこく食い下がる天神坂を以降無視して着替えを終えた乙瓜は、再び考え事をしながら教室を抜け、階下へと降りて行った。
 階段には各教室から溢れ出た声が反響している。
 授業と授業の間の僅かな休み時間を支配する談笑の声。
 漏れ聞こえてくるのは、近頃人気のドラマの話、アイドルやスポーツ選手を初めとする話題の人物の話、ファッションや音楽、ゲームや趣味の話、笑い声。
 いいかげん昼前ともあってか、夢の件の恐慌は幾らか収束したらしい。
 その事に幾らか安堵しつつ、乙瓜は階段を一歩一歩下って行く。
 踊り場の角を曲がり、いつぞやの大きな鏡の前を通り過ぎながら。
「……とりあえず、今日の放課後は例の神社に行ってみた方がいいな」
 そう呟きながら一階の廊下へと降りた時、乙瓜は昇降口の前に見覚えのある人影を見た。
 夏の季節に似つかわしくない黒いマントと詰襟の学ラン。
 今時古風な学生帽を被ったその人影――たろさんは、乙瓜と目が合うなり畏まったように一礼した。
「こんにちはでござる、乙瓜殿」
「お、おう。たろさんこんにちは。……何してんだ、今日は? こんなところで……。ここ、東だぞ?」
 東、と言いながら、乙瓜は自分の右手側に広がる廊下を見た。
 北中の校舎には階段と昇降口が二つずつあり、たろさんが怪談として棲み着いているトイレは西階段の近くなのだ。
 だのにここは東階段・東昇降口。普段はまず遭遇しない場所での遭遇に、乙瓜は少し意表を突かれた気分になったのだ。
 一方たろさんはというと、慌てる乙瓜を見て笑いもせず、初めから全く変わらない凛とした表情のままで、しかし優しい声音でこう言った。
「――やめた方がいいでござるよ」
「……は?」
 やめた方がいい。その意味するものが分からず、乙瓜は一瞬固まってしまう。
 しかしたろさんは意に介した様子も見せずに言葉を続けたのだった。
「讀先城跡に行くのは、古井戸に直に関わるのは、やめが方がいいでござるよ。……否、この際はっきりと申し上げまする。あそこに関わるのはやめて下され、乙瓜殿」
 言って、たろさんはその真っ青な瞳で真っ直ぐに乙瓜を見た。
 その視線からは普段のなよっちい彼からは想像がつかない程強い意志が感じられて、乙瓜は思わず一歩後ずさりしてしまった。
 混乱、困惑、狼狽。
 目の前に居るのは果たして自分の知る彼なのか。
 そんな疑問が一瞬だけ乙瓜の脳裏を過る。それくらい、今のたろさんは普段とは別人に見えたのだ。
 わずかな沈黙があった。
 乙瓜が戸惑いのあまり声を失くしてしまったからだ。
 だがそれも永遠には続かない。数秒の後、乙瓜は絞り出したような声で尋ねた。
「ど、どうしてだ? だって、夢に井戸が……絶対何かあるじゃないか、なのに……?」
 そんな乙瓜の疑問にたろさんは静かに首を振った。そして乙瓜に向かって数歩歩み寄り、そっと人差し指を立てたのだった。
 そう、「静かに」とジェスチャーするように。大事な話を言い聞かせる前の教師のように。
「あの井戸の夢は直接井戸に触れた者以外には大きな災いを成しませぬ。これから・・・・辛いやも知れませぬが耐えて下され。さすれば乙瓜殿とそのお友達には危害はありますまい」
「災い……危害……? たろさん……知ってるのか? あそこの事……。だったら――」
「なりませぬ!」
 たろさんはそこで突然声を荒げた。
 まるで悪戯を働いた子供を叱るように、ぴしゃりと雷が落ちるように。
 突然の大声に乙瓜は体をビクリと震わせ、その場にぺたりと座り込んでしまった。
 リノリウムの床に膝をついた乙瓜は、しかし何が起こったのか全く分からない様子で目を白黒させた。
 彼女には分からなかったのだ。たろさんが、何故急に声を荒げたのかが。
 否、少し考えれば容易に分かる事なのだ。
 これは警告なのであると。たろさんはあの地に関する何かを少なからず知っていて、それ故に自分を止めようとしているのだという事くらい。
 その事を時間差で理解した後、乙瓜は恐る恐る首を縦に振っていた。
 言葉は無くとも肯定の意を示す行動。「わかったよ」という五文字の意志を込めて、乙瓜はたろさんを見上げた。
 たろさんはそれを見てコクリと頷くと、小さな声で一言二言呟いた後、廊下の西側へと消えていった。
 乙瓜は暫くそのまま動けないでいた。
 暫く、とは言っても、ほんの数十秒にも満たない時間だ。
 室内に蔓延した夏の熱さの中、ひやりと冷たい床に座り込んで、たろさんの消えた方角を呆然と見つめていた。
 その脳裏には、彼が最後に残して行った言葉がぐるぐると回っていた。

『決して美術部をあそこに関わらせてはいけない』
『例え火遠殿の意向であっても』

 ――例え、火遠殿の意向であっても。
 そう彼は確かに。たろさんは確かに。真っ直ぐに乙瓜を見ながら、そう言ったのだ。

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