怪事捜話
第六談・古井戸の夢①

 暗いくらい地下へと通じる、深いふかい縦穴の底で。
 遠く離れた天面を仰ぎ、丸く明るく注ぐ光を見つめ続けた昔日の記憶。
 頬を濡らすは涙の雫か、それとも額から流れ落ちた赤い生命いのちか。冷たい水に浸されて、私の体は冷えて行く。
 そこで私の記憶は閉じた。底で私の記憶は閉じた。

 そんな、暗く冷えて血なまぐさい――井戸の底の記憶ゆめ



 西の空に残る橙の残照も消え失せ、いよいよ暗い夜の闇が街を包み始めた頃。
 烏貝乙瓜は帰宅した制服のまま自室のベッドに横たわり、電気もつけずに黙々と考え事をしていた。
 輪郭のぼやけた天井を見上げ、思い浮かべるのは帰路で出会った三人組――七瓜と三咲、そしてアルミレーナという名の赤い髪の少女の姿。

 ――おじさんによろしくね、……どうせそこで見てるだろうけど。
 ――まて、アルミレーナ。

 去り際に三咲が残した言葉と、直後聴こえた火遠の声。その二つを頭の中で幾度となく再生しながら、乙瓜は額に腕を当てた。
(今日の事、一体どう捉えるべきなんだろうか。七瓜と、三咲と……そしてアルミレーナって女。……火遠に少しだけ似てる女。そして、あいつの声)
 姿は無くとも確かに聴こえた火遠の声の意味について、乙瓜は考える。
あの日・・・、火遠と契約を交わしたあの日。あいつはそういえば言ったっけ。俺の眼を一つ奪う代わりに自分の眼を一つやるって)
 契約の日――月が妙に赤かったあの晩の事を思い返し、乙瓜は己の右目にそっと手を当てた。
 あの日を境に現実のものの輪郭を曖昧にしか捉えられなくなり、その代わりにこの世ならざるものの姿を明確に映し出すようになった契約の瞳。
 意志と関係なく視えるだけのその瞳が便利かそうでないかと問われれば確実に不便なのだが、あの日が確実に在ったという確固たる証なのだと思うと、幾らか感慨深くもあった。
 だが、その一方で乙瓜はずっと疑問に思って居た。

 ――契約宣誓。一つ。この者の身辺の安全を保証するもの。
 二つ。この者に我の持つ術の一つを与えること。
 三つ。この者から我に眼を一つ与えること。
 四つ。我からこの者に眼を一つ差し出すこと。

 何故。何故火遠はあの時「力を与える」ではなく「眼を一つ与え」「眼を一つ差し出す」と表現したのか、と。
(あの時火遠はそれを痛み分けと称した。だから俺は勝手にそれを視力を奪った代わりに能力を与えたものだと、ある種交換みたいなものだと思って居た。だけど今日の三咲のあの科白、そして聴こえた奴の声……。もしかして、もしかしてだけど。俺はずっと思い違いをしていたんじゃないのか。本当は――)
 乙瓜は徐に左目を閉じ、右目だけで天井を見遣った。
 両目で見た時は暗くぼやけて判然としなかった天井の輪郭はくっきりとした線に代わり、四方の壁との境は勿論、蛍光灯の位置すらもはっきりと認識することが出来た。まるで昼の明かりの中を見渡すように。しかしそこが暗闇だという認識も在る。
 そう、いつからだろう。気が付けば、乙瓜の右目は判然としない暗闇の中に隠されたモノを正確に認識出来るようになっていた。
 その能力は目の慣れなどという言葉で片付けられる領域を超え、そこにある布の色・柄までも正確に答えられる程であった。
 初めてそれに気づいた時、乙瓜はそれを契約効果の延長線上にあるものだと考えていた。
 しかし、ここに来て彼女はもう一つの可能性に気づいてしまったのだ。もしかしたら、本当は、と。
(もしかしたら、本当は。あの時俺の眼と火遠の眼は繋げられたんじゃないのか。俺から火遠に与えられたが俺の視力じゃなくて、俺の右目・・・・という場所だったとしたら。そこに奴の眼が差し出されたんだとしたら。俺と奴とで視界を共有しているんだとしたら・・・・・・・・・・・・・・・、だとしたら――)
 そこまで考えて、乙瓜ははぁと息を吐いた。そして目をつむる。闇を見通す右目は覆われ、今度こそ完全な闇が降りてくる。
(――だとしたら。今日の出来事をはじめ、俺がどこに居てもあいつが現れる事とか先回りされてる事とか、何となく説明がつくんだよな……)
「……いや、あんまり認めたくないけど。覗かれてると思うと気持ち悪いし……」
 呟き、乙瓜はもそりと体を起こした。立ち上がって部屋の電気を付け、棚の横の姿見の前に立つ。
 当たり前の事だが、そこには乙瓜自身の姿が写っている。
 帰宅してから着替えていない制服姿。暫く切っていない前髪の向こうには色の違う双つの瞳が覗いている。
 そんな己の瞳を覗き込みながら、乙瓜は囁くように言った。
「なあ火遠、もし本当に見てるんだったら教えてくれよ。お前、本当はあの三人の事何か知ってるんだろ? アルミレーナとかいう女の事も、七瓜が何で俺にそっくりなのかも……」
 知っているなら教えてくれと縋るその言葉に、しかし返す者は誰も居ない。
 閉ざした部屋の中には乙瓜しか居らず、ドアの向こうから務め人の両親に代わって祖母が夕食の用意をする音や、祖父の見ているテレビの音が微かに聴こえてくるのを除けば、殆ど静寂も同然である。
 それでも乙瓜はこの場に居ない彼の返事を待って、待って。しかし待てども待てども帰ってこない声に嘆息し、ベッドの縁に腰を掛けるのだった。

 そうしている間にも夜は深まり、おどろおどろしい暗闇の田舎道に立ち並ぶ街灯が夜の虫を誘う。
 夕方まで残っていた雲は流れ去り、天上には数多の星々が輝いている。今宵は新月。
 月明かりを失くした黒い夜空は、夏の星座の煌めきをより一層際立せる一方、どこか不気味な様相を呈していた。
 そんな、暗いくらい夜の中で。乙瓜の知らない間に。美術部の誰もが知らない間に。それは静かに始まっていたのだ。
 ひっそりと、そうひっそりと。



 数日後、七月七日。その日の空は昨日の夕方から流れて来た雲に覆われ、折角の七夕の日は朝から雨に見舞われていた。
 家を出る間際に確認した天気予報では午後から曇りになる事を告げており、乙瓜は少し残念に思いながら学校へ向かった。
 いつもと同じ通学路、特に変わったことのない風景。半分の視界に捉える妖界の様子も穏やかな物で、異変らしき異変は見当たらない。
 あれから大分平和になったなあと乙瓜は思った。
 "あれ"とは言うまでも無く先月の雛崎燿子の一件の事だ。
 あの一件を経て古霊町には再び雑霊の姿が戻り、また何を目的とするわけでもなく蠢いている様が見られるようになった。
 それがいいか悪いかは別として、以降古霊町はすっかり平和になってしまった。
 ひきこさん事件以降殺到していた投書もいくらか落ち着きを見せ、美術部は漸く安寧の日々を取り戻したのである。
 勿論不安要素が全く無くなったわけではない。
 北中に存在する大霊道の問題もまだ完全には解決していないし、【三日月】を名乗る連中がいつまた仕掛けてくるとも知れない。更には先日姿を見せた【魔女】たちの事もある。
「何も起きないのが一番いいんだけど、何かは絶対に起きるんだろうなあ……」
 はぁ、と溜息を一つ。しかし暫くはのんびりとさせてくれよと思いながら、乙瓜は自転車のペダルを踏み込んだ。
 ――向かった先の学校で、その不穏な独り言が現実のものになってしまうとは知らずに。

 教室に辿り着いた乙瓜を待っていたのは、教室の中心に集う十数名のクラスメイトと、彼らに囲まれて顔色悪く震えている二人の男子生徒の姿だった。
 恐らく雨で朝練が中止になった部の部員たちだろうか。大半はサッカー部や野球部、テニス部のメンバーであるようだった。
 普段なら運動部が朝練をする中人気ひとけのない教室に入っていくのが常だったので、既に人の集まった教室を見て、乙瓜は新鮮に思うと同時、どこか不思議に思った。
 乙瓜がその疑問を態度に表わすより早く、彼女の肩を叩く者が居た。それは二年になっても相変わらず同じクラスの天神坂だった。
「よう、烏貝おはよう」
「お、おう。おはよう。……ていうかなんだ、あれら」
「あーあ、サッカー部の奴らな」
 天神坂は蒼白な二人組を指し示して続けた。
「俺も何があったか詳しく知ってるわけじゃないけど、なんかこないだの週末に肝試しに行って怖い目にあったんだってさ」
「肝試しぃ?」
 訝しげに言った後、「自業自得じゃないか」と声を潜めて呟く乙瓜に、天神坂はコクリと頷いた。
「まあ、言っちまえばそうなんだけどさ。なんか様子が違うっていうか、直接何かあったわけじゃないっていうか、なんというかな……。ああ、そういえばオマエ美術部じゃん。話だけでも聞いてやってくんね?」
「はあ!? なんで今の流れでそうなるんだよ!?」
 まるで妙案を思いついた、みたいに手を叩いた天神坂に、乙瓜は目を丸くした。
 だがしかし、そこで大きな声を上げてしまった為か、今まで彼女の存在に気付いていなかったクラスメイトたちがふっと振り返った。
 乙瓜がマズイと思った瞬間には時すでに遅し、一瞬にして十数の視線が彼女に突き刺さり、その存在を認識されてしまった。
「あ、乙瓜ちゃんじゃん」
 女子の誰かがポツリと零したのを皮切りに、二人の男子生徒――先刻まで教室の真ん中で震えていたサッカー部員たちが小走りに駆け寄って来た。
「か、烏貝。丁度いいところに、おまえ美術部だったよな? ちょっとマジピンチなんだよ、なんとかしてくれねえか?」
 そう鼻息荒く乙瓜に詰め寄ったのは、サッカー部員の中でも、否、クラスの中でも一二を争う程背が高くて気迫のある墓下はかのしただった。
 女子に対していきなり「なんとかしろ」等と言い放った情けない姿をさ晒す彼はしかし、普段は威張り散らしており、乙瓜をはじめとした運動が得意でなくどことなく日陰者の雰囲気を纏った同級生たちに地味な嫌がらせを繰り返していた。
 そんな輩であるが故に、乙瓜は勿論嫌な顔をしたのだが、嫌な顔をしたのは何も彼女だけではなかった。
「墓下馬鹿かお前、美術部なんてオタクの集まりにどうにか出来るわけねえだろうよ!」
 言って乙瓜を睨み付けたのは、同じくサッカー部でいつも墓下とツルんでいる賽河原さいがわらである。彼もまた嫌な奴で、乙瓜は彼の事もまた苦手にしていた。
(何が悲しくて朝からアホ二人組の相手せねばならんのか……。ツいてねえなあ……)
 乙瓜が内心でそう思って居る間に、眼前の二人は言い争いをはじめていた。
「うっせぇ! じゃあお前どうにかできんのかよ!」
「しらねえよ! でもこんな奴らに頼るくらいなら寺なり神社なり行った方がまだマシだろッ!」
「馬鹿おめえ、寺や神社なんて行ったら確実におめえ! 怒られんに決まってんだろが!」
「そんなんそもそもお前の所為だろォ!? 俺は関係ねえかんなッ!!」
「なにィ!?」
 本気でがなりあってもめている様子の二人に、その他クラスメイトも若干引き気味だった。
 教室内の空気は今日の天気のように澱んでいる。そんな現状を見かね、乙瓜の傍らに立っていた天神坂がストップをかけた。
「おい止めろよ墓下、賽河原。……落ち着けって。別に烏貝にどうこうとかは置いといて、一先ず何があったか話してみろよ。な?」
 その天神坂の言葉を受けて、二人は以外にもあっさりと大人しくなった。喧嘩腰でない第三者の言葉を受けて、幾らか冷静になったようだった。
 墓下と賽河原の二人は顔を見合わせると、「教師おとなには言うなよ」と前置きして語りだした。
「こないだ俺たちと他のサッカー部員、あと女バスの部員何人か連れて、城跡の廃神社に肝試しに行ったんだよ――」

 彼らの話はこうだった。
 墓下と賽河原をはじめとする一行は先週の新月の夜、夏の初めの思い出作りにと、南中学区にある城跡の廃神社に肝試しに行ったらしい。
 そこでは特に何も起こらなかったものの、帰りがけに注連縄しめなわに囲われた古井戸を見つけた。
 何となく興味を引かれた彼らは、注連縄の内側に入り込み、井戸にしてあったふたを退けて中を覗き込んだらしい。
 懐中電灯で照らしてみたものの底は見えず、近くにあった石を落としてみたりしたところ、そこは既に水が枯れている事がわかった。
 わかったが、やはり何が起こるでもない事にがっかりし、そのまま帰って来たのだと云う。
 そこまでならよくある「何となく怖い場所に行ってみただけ」の話なのだが、問題はそこからだった。
 廃神社から戻って来た日から毎晩、墓下と賽河原、そして彼らと共に肝試しに行った連中のほぼ全員が古井戸の夢を見るようになったと云うのだ。
 曰く、それらはすべて井戸の底のような場所から白い月の照らす夜空を見上げている夢であるらしい。
「真っ暗な井戸の底からよ、まあるい月を見上げてるんだ。俺の体は水に浸かってて、段々冷えて沈んでいくんだ。初めはそれだけだったんだがよ、三回目くらいから段々様子が変わり始めたんだ……」
 声を震わせて賽河原は言った。
 初日・二日の夢は、井戸の底から月を見上げ、水の底に沈んでいく夢。
 だが三日目の夢は様子が変わり、相変わらず井戸の底に居るのだが、背中にある感触は水ではなく、ごつごつとした無数の何かだったと。
「動かせない手足に触れる堅い枯れ枝みたいなものが沢山あって、二日目まで静かだった井戸の中に呻き声みたいなものが聞こえるんだ……。ありゃあ人間だよォ。昔婆ちゃんに聞いたことがある、昔の城主は気がふれて家来とか女の人とか、気に障った奴らみんな殺して井戸の底に捨てたってよさァ。あれはその井戸だったんだよ、俺らそれに悪戯したから、俺らそれで……」
 賽河原は憔悴しょうすい気味に言って頭を抱えた。
 傍らの墓下も同じように頭を抱え、焦点の合わない瞳で床を見つめている。
 そんな二人の様子を見て、乙瓜はぼそりと言った。
「……要するに、井戸に悪戯した罰が当たっておっかない夢を見るようになって、お前らそれが怖いと?」
 どうでもいいといった気持ちを隠そうともしない乙瓜の言葉に、二人はコクリと頷いた。
 乙瓜はそんな二人に呆れ溜息を漏らす。平時彼らならそんな乙瓜を見て「生意気!」と怒り出しそうなものだったが、何も言い出さない辺り本気で参っているらしい。
「重傷だな……」
 乙瓜は呟き、首を捻った。
 正直、怪談慣れしているからか修羅場慣れしているからか、乙瓜には二人の話の恐いポイントが全くわからなかったのだが、本人たちが怖いと言うのだから怖いのだろう。
(普通に考えれば、こいつらの中で井戸に悪さしたっていう罪悪感が残ってて、それが『婆ちゃんから聞いた話』と結びついて悪夢を見せているんだろうけど……。注連縄の下りがちぃと気になるな……)
 注連縄。神社でも寺でも使われている、人間の世界と神の世界、或いは魑魅魍魎の世界を隔てる結界。
 かつてこの地にあった城の血腥い噂が本当にしろ嘘にしろ、態々結界で囲うくらいなのだから、その井戸には何か・・があったのだろう。
 その何かがなにか、一応調べてみる価値はあるだろう。乙瓜がそこまで考えたタイミングで、天神坂がふっと話しかけて来た。
「どうだ烏貝? 何かわかったか?」
「いや、まだ何にも。……言っちゃあ悪いが、は探偵でもなんでもないし、そもそもこいつら言ってる事支離滅裂で何ともな……」
「そうかァ……」
 天神坂はやや残念そうに言って肩を落とした。
「まあ、何分なにぶん夢の話だし。まだ単なる夢とも呪い的な何かともわからんよ。個人的に調べてみて、なんか分かったら、な」
 乙瓜はそう言って荷物を持ち直し、目の前の二人を避けて自分の席へと向かった。
 天神坂はそんな乙瓜に「ありがとな」と声をかけ、墓下・賽河原にも礼を言うように促すが、彼らはブツブツと言いながら教室を立ち去って行った。
「しょうがねえ奴らだなあ」
 そんな天神坂の呟きを皮切りに、暫し黙って様子を窺っていたクラスメイト達が会話を始める。

「井戸の底の夢だってぇ……こわーい」
「そうかなぁ? あたし怖いところよくわかんなーい」
「つうか、あの二人自業自得じゃん」
「どうせあいつらの勘違いだって」
「烏貝さん、朝から変なのに絡まれてかわいそー……」

 思い思いの事を語り合うクラスメイト達は知らなかった。それがその日からクラスで、そして学年全体・学校全体を巻き込んで起こるちょっとした騒動の始まりだという事を。
 忘れられた遠い昔日の記憶を纏って。それ・・はさがしていた――

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