怪事捜話
第五談・壺とお札と壊れた家③

 それは、まだ桜の木々がその枝に満開の花々を抱えていた頃。
 新一年生が今よりも初々しく、そして北中では怪談テロなんてものが流行っていた時期の事。
 雛崎燿子の家族がバラバラになった。
 何も唐突な事ではない。きちんと予兆があり、破滅に向かって一歩一歩着実に段階を踏んでいった結果と言えよう。
 雛崎家は両親と一人娘の核家族だった。
 子煩悩で一人娘を猫かわいがりする父親と、しっかり者で厳しいところもあるが根は優しい母親、そして両親の愛情を受けて屈折することなく育った燿子。
 誰が見ても幸せそうな家庭がそこに在った。
 しかし、崩壊のはじまりは思わぬ形でやってきた。それは四月から更に半年前に遡る。
 燿子の父が職を失った。会社の経営難から来るリストラだった。幸福な家庭に影が差した瞬間だった。
 それでも、初めのうちはまだマシだった。
 父親は落ち込んだものの家族のために再就職に意欲を燃やし、母親もそんな父親を応援しつつパートを始めた。
 だが再就職は思うようにはいかず、失業保険の給付期間だけが着実に終わりに近づいていくにつれ、父親は心身共に追い詰められていった。食欲も失せ、頬はこけ、目には日ごとに生気が無くなっていった。
 幸か不幸か酒におぼれて暴力を振るう事は無かったが、目に見えてやつれていく父親が自分の前では優しく微笑む様を見て、燿子幾度となく胸が締め付けられるような気持になった。
 母親も口にこそ出さないが、家計を支えるために幾つものパートを掛け持ちしており、疲労困憊ひろうこんぱいの色が浮かぶ。
 だから燿子は願ったのだ。毎日毎晩寝る前に、誠心誠意の祈りを込めて。まだバイトにも出られない罪滅ぼしのように。
 ――神様、どうかお父さんとお母さんを助けてください、と。

(おやつも我慢します、新しい服もゲームもしばらく要りません。だからどうか、一日でも早くお父さんに新しい仕事が見つかりますように。お母さんがパートを減らしても大丈夫になりますように……)
 毎日毎日。燿子はそう願い続けた。

 ――そんなある日の事だった。

 いつものように職を探しに家を出た父親が、何日も帰ってこない日があった。
 燿子と母親はひどく心配して警察にも行ったが、父親は一週間目の夜に何食わぬ顔をして帰ってきた。
 ただいつもと様子の違うことに、帰宅を告げるその声には失職以前のようなハリが戻っていた。
 もしかしたら。そんな期待を胸に玄関へ向かった燿子が見たのは、顔に満面の笑みを浮かべ、両腕に大きな壺を抱えた父親の姿だった。

 曰く、家を出た日に親切な男・・・・に連れられてセミナーに参加させられ、身の上話を聞いてもらい優しい言葉を浴びるほどにかけられ、山ほど親切にしてもらい、在り難いお話を沢山聞かされ――。帰りしなに開運のお守りとしてこの壺を貰ったらしい。
 親切な男の計らいでセミナーのスタッフとして働くことに決まったのだと父親は上機嫌で話すが、感心する燿子の隣で母親の表情はみるみる引きつっていった。

 父親はカルト教団に嵌められていた。

 母親が何度説得しても聞く耳を持たず、母親がパートや内職でコツコツためた貯金に手を出して教団に貢ぎ、家の中には次々と怪しげな壺や彫像が持ち込まれた。
 そのうち悪運を祓うという面目であちこちの壁や柱におふだまで貼られ出した。
 胡散臭い開運グッズが集まる一方で、雛崎家はどんどん不幸になっていった。
 貯金がが見る間に失われていくのは勿論だが、父親と母親のいさかいは昼夜を問わず続き、近所からは良からぬ噂を囁かれるようになった。
 燿子は、しかしそんな状況になっても毎日欠かさず祈り続けた。
 家族がまた以前のように戻れるようにと、居るかどうかすらわからない超常的な何かに願い続けた。……だが。
 終わりは存外あっさりとしたものだった。
 ある日燿子が起きると、食卓の上にこんな書置きが残っていた。

『疲れました 捜さないでください』

 それは紛れもなく母親の字だった。
 母親はその日を境に失踪してしまった。そして、父親もまた。母親が姿を消したその日の内に荷物をまとめ、家を出て行ってしまった。
 なんでも、教団の中での位が上がったので、本部で住み込みで働くという事らしい。
 父親は燿子を一緒に来ないかと誘ったが、燿子には母親が失踪したというのに平然としていられる父親を見て幻滅し、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせて彼を追い出した。
 それが四月の初めの出来事である。
 ほどなくして話を聞きつけた親類が訪ねて来たが、燿子は彼らに対し「今更何しに来た」と怒りを向けた。
「もっと早く……お父さんが苦しい時に来てくれれば、こんなことにはならなかったのに!」
 感情を露わにして叫ぶ燿子に対し、親類たちは皆「子供だけで生活していけるわけがないと」説得を試みたが、何度も追い帰されて呆れたのか、縁の遠い順から次第に訪ねて来なくなった。
 結局最後まで残ったのは、比較的近場に住む母方の叔母だけだった。
 彼女は毎日訊ねてきて、その日の夕食と次の日の朝食を作るついでに一緒に暮らさないかと燿子に勧めてくれるのだが、燿子はなかなか首を縦に振ることが出来ないでいた。
「お父さんとお母さんが帰ってくるかもしれないから」と。
 叔母は燿子に無理強いはしなかった。月に一度筆記用具と生活必需品を買えるだけの小遣いを渡し、それどころか雛崎家の光熱費まで支払いながら、燿子の気持ちの整理がつくまで待つと言ってくれた。

 いくら燿子が子供だといえ「叔母に申し訳ない」という感覚がないだなんて言ったらうそになる。
 けれど、それでも、雛崎燿子は信じていた。
 もうどうしようもないくらい滅茶苦茶になった家庭で、それでもいつか父と母が帰ってくるのではないかと、心のどこかで信じていた。僅かな希望に縋っていたかった。
 父と母ともう一度三人で、以前のように暮らす希望。
 その希望が永遠に消えてしまう気がして、燿子は叔母と共に家を出ていく決断ができないでいた。
 ……だが儚い希望に賭けたとして、それだけで自分を取り巻く現実が見えなくなってしまうほど、燿子は幼くもなかった。
 出ていった母は、何故自分を置いていった? 父だって、自分は引き留めるどころかなじった挙句追い出してしまった。もう教団から戻ってこないかもしれない。
 ぐるぐる、ぐるぐると。夜になるたび燿子は何度も自問を繰り返した。自分一人の闇の中で、ぐるぐる、ぐるぐると。
 答えてくれる者は誰もいない。父も母もここには居ない。
 家の中にはもう自分と、壺とお札と不気味な彫像しか残っていない。
 何のご利益も与えてくれないそれらを見て、燿子は悲しくなった。父はこんなものの為に変わってしまったのだ。母はこんなものの為にいなくなってしまったのだ。
 ……こんなものの為に。私は一人ぼっちになってしまったんだ。
 そう思うと、悲しさの後から沸々と怒りが湧き上がってきた。

 そもそも。あの優しかった父の疲れ切った心に漬け込み、おかしくしてしまったのは何か。
 ……宗教である。信仰である。開運という名のまやかしのお題目である。
 信じて、願って。神様が自分に何をしてくれただろうか。ちっとも幸せになんかなっていない。
(この世は嘘つきばっかりだ……! 人を騙して、騙して、神様だって嘘っぱちだ……!)
 燿子は自分から家族を奪ったものを恨んだ。
 恨んで、恨んで、大凡科学では解明できない類の事――根も葉もないオカルトを掲げて人を騙すやり口全般を憎むようになった。
 そんなある時、彼女の耳に飛び込んできた噂があった。

 ――美術部が、また怪事件を解決したらしい。


 その日から、彼女の憎しみの対象は美術部となった。



「――そんなわけで、雛崎さんの家はひどいことになってるらしいんです」
 古虎渓明菜は終始おどおどとした様子でそう語り、結びに小さな声で「噂ですけど」とだけ付け加えた。
 話を聞き終えた二年部員たちは皆一様に複雑な表情を作り、暫し無言で溜息を吐いたり腕を組んだりして考え込んでいる様子だったが、少しの間の後遊嬉はこう言った。
「つまり、雛崎さんって子はあたしらを件のカルトな教団と同一視してて、その結果として嫌がらせの手紙を送り付けたりしていると。……はーん、よくもまあそこまでやるねぇ?」
 呆れたように眉間にしわを寄せる遊嬉に向かって、明菜は自分が悪いわけでもないのに「ごめんなさい」と謝罪した。
「いやいやいや、明菜ちゃんが謝ることじゃないって。……だけどなあ。今はまだ手紙とか、すれ違いざまに悪口言われるとかその程度だけど、問題は――」
 遊嬉はそこまで言いかけてチラリと乙瓜の方に目を遣った。
「なんだよ藪から棒に」
「いや、なーんか上手い言い回し思いつかなかったから、後は乙瓜ちゃんよろしくってことで?」
「なんだそれ……。……まあ、仕方ねえなあ。つまりアレだろ?」
 満更でもない様子でそう言うと、乙瓜は徐に立ち上がり、こう続けた。
「妨害されるかもしれない、ってこった」
 その一言で、周囲はハッとした様子だった。乙瓜はさらに続ける。
「古虎渓さんの話を聞くに、雛崎燿子は俺らが怪事解決屋として信奉されてる現状がまず気に食わねえ筈だろ。だから俺らが怪事ないよ、お化けなんていないよって触れて回ったところで、信者が居る限り俺たちは敵なわけだ。……だったら、なあ。…………魔鬼だったらどうするよ?」
「は? 私?」
 唐突に名を挙げられ、魔鬼はやや挙動不審の様子で乙瓜を振り返った。
 乙瓜は机上に片手を置くと、「そう」と言いながらもう片方の手で魔鬼を指さした。
「皆が俺たちに抱いてる怪事解決の信頼度を一瞬で落とす方法がある。雛崎にも出来る簡単な方法が。なんだと思う?」
「なんだとって、そんなの……。――あ」
 思いついたように口を丸く開ける魔鬼を見て、乙瓜はにやりと笑った。
「……乙瓜お前、最近火遠の奴に似て来たな」
「ハア? 似てねえし。誰があんな奴と。……で、わかったんだよな?」
「まあねぇ」
 魔鬼はふぅと溜息を吐くと、顔に掛かる前髪を払いながらこう呟いた。

「簡単な話、あっちも嘘を吐けばいいんだ」

 魔鬼は心底呆れた顔になりながらこう続けた。
「――例えば。嘘の怪事をでっち上げて、私たちを右往左往させて、解決しなかったって難癖をつける。それだけで・・・・・いいんだよ、それだけで十分なんだ」
 相手が嘘つきにしろそうでないにしろ、憎い吊し上げる為にはそれが一番簡単でしょ?
 そう結んで、魔鬼は窓の外を見た。雨は相変わらず止む様子が見えず、しかも前より強くなっている様子だった。
 こりゃあ帰りはびしょ濡れだなあと溜息を吐く魔鬼の隣で、深世が一言。
「……杞憂で終わればよかったんだけどねえ」
 その脈絡もない言葉に、皆の視線は一斉に深世へと向かった。
 深世はとりわけ驚いた様子も見せず、ただ面倒臭そうな表情のままで一枚の紙を皆の前に提示した。
「多分新しい怪事だと思ったから処分せずに避けておいたんだけどさ。今気づいたんだわ」
 言って彼女が示す紙――手紙には、綺麗な書き文字で『最近雨の日の午後になると一年教室の窓に幽霊が映る。祓ってください』と書かれていた。
 誰もが「その手紙が何か?」と思ったが、誰かが口を挟むよりも早く深世は二の句を継いだ。
「今日がひどい雨だから一瞬忘れてたけど、今月に入ってから雨って先週の火曜と今日くらいじゃん。しかも先週の雨は午前中で上がってる。……この人の最近っていつの最近だ? 今日? それとも五月からなのか? だとするなら、この人以外に窓の幽霊の話出てないのは不自然じゃんか。それにさ」
 深世は一旦口を閉じ、手紙の四辺をなぞる様に指を動かした。
 そこにはレターセットの便箋の柄が印刷されている。深世はそれを示しながら「見覚えない?」と呟いた。
 瞬間、眞虚には深世の言わんとしている事がわかったらしく、ハッとしたように目を見開いた。
「もしかして、あの悪口書かれてた便箋のと同じ!?」
 その一言を受け、他の面々もまた「ああっ!」と声を上げる。
 そう、その便箋の柄は『嘘つきどもめ』と書かれていた便箋と全く同じものだったのだ。
 皆はすっかり忘れていたが、それを直接取り扱った深世はそれを覚えていたのだ。
「これが雛崎のツメの甘いところかもしんないけどねえ」
 深世はふぅと一息吐くと、手紙を縦にビリビリと引き裂き、クシャクシャに丸めた後でゴミ箱に放った。
「いいのかなあ」と呟く眞虚に、深世は「いいんだよ」と返した。
「どうせあんな内容じゃ個人を特定できやしない」
「いや、そうだけれど……」
 どこか不安な様子でゴミ箱を振り返る眞虚に、乙瓜はこう言った。
「大丈夫大丈夫、どーせ嘘なんだし。眞虚ちゃんが気にするこたぁないって」
「そうだね、うん……そうだね。気にしすぎかな」
 あははと笑って見せる眞虚にはしかし、聞こえていた。……あの日、あのゴールデンウィークの日に聞こえていた音が。

 どこか不吉な海鳴りの音が――。

HOME