夜半、ざあざあ強い雨の音。
屋根を打ち付ける騒々しいその音から逃れるように、彼女は頭から布団をかぶった。
彼女を取り巻く真っ暗な屋内には、死んだような静寂が充満している。どこからも寝息が聞こえないし、鼾すらも聞こえない。
それは決して雨音に掻き消されているからではない。
この家には、誰もいない。
唯一、外界から逃れるように布団に包まる彼女一人を除いては。
「はいっ、というわけで今週もお便りがモリモリ届いておりますっ!」
六月二週目木曜日、その放課後。
いよいよ梅雨到来か、空は朝からどんよりとした雲に覆われ、しっとりとした雨が休みなく振り続ける中。
じめじめとした天候なんて吹き飛ばすような元気のいい声が、美術室内に響き渡った。
基本的には大人し目の部員の多いこの美術部において、こんな声を上げるのはほとんど一人しかいない。戮飢遊嬉である。
彼女はその両手に抱えた一箱の大きな段ボールを教壇上に置くと、工事現場の従業員のような仕草でわざとらしく額の汗をぬぐって見せた。
「わざとらしく」と云うのも、確かに段ボール自体はすこしギョッとするような大きさではあったが、その中身は所詮紙――それも手紙であるからだ。
例え見た目か弱き女子中学生の腕力であっても、そこまで体力を消耗するような代物ではないだろう。
……尤も、この遊嬉に限っては「か弱き」と云う表現が適応されるかどうかすら疑問であるのだが。
ともあれ、先月に引き続き性懲りもなく表れた大量の「お手紙」を前にして、美術部員――主に二年生――達は「はぁ」と溜息を吐いた。またか、と。
先月の末――というか、まだつい先々週の事なのだが、美術部は町中を騒がせた恐怖の都市伝説・ひきこさん事件を解決した。
大霊道の瘴気に中てられて暴走を繰り返していた"ひきこさん"こと森谷燈見子は正気に戻り、ひきこさん被害にあった子供達も眞虚の働きで回復し、得体のしれない怪異に戦々恐々としていた小学生の間にも笑顔が戻った。
……と、ここまではいいのだが。
町規模の怪事を相手にしてしまった為、当然と云えば当然の帰結なのだが。ひきこさんの一件以降、美術部の元には以前にも増して怪事解決の依頼が舞い込むようになってしまったのである。
とはいえ何故か直接相談しにくる生徒は無く、相談は依然として北中相談箱へ匿名で寄せられている。もはや相談箱本来の存在意義は失われ、美術部専用ポストと成り果てたと云っても過言ではない。
まあ、その大半の内容は先の事件で獲得した熱烈な小学生ファンからの「心霊風お悩み相談」や「占いの依頼」に占められているのだが。
「私はいつになったら普通の美術部の活動ができるんだろーか……?」
段ボールの中で堆く山となった手紙たちを見て、深世はとびきり大きなため息を吐き、棚裏に隠してあるシュレッダーを取りに向かうべく立ち上がった。
もはや深世の私物の如く使われている手回しシュレッダーだが、実は印刷室から無断で拝借してきた、歴とした学校の備品である。
だが、当の印刷室で新しく大型で全自動式のシュレッダーを導入した為か、件のシュレッダーは既にお払い箱状態であり、少なくとも現時点ではどこからもお咎めは受けていない。
少しの間をおいて、今日も美術室にハンドルを回すキィキィという音が響く。
もはや美術室独自のBGMと化しつつあるその音に、部屋中の部員の雑談の声と鉛筆の音が重なり、その上に窓越しの雨音がしっとりと寄り添う。
騒がしすぎず、かといって静かすぎない時間の中。流れ作業のように手紙に一旦目を通してから処分する作業を続けていた深世が、ふと手を止めた。
いや、それまでもともすれば畑違いな長文を読むために(律儀である)一定時間手を止める事があったのだが、その時の深世の様子はいつもとは少しだけ違っていた。
眉を寄せ、あからさまに何か訝しむような表情。
その異変は黙々と処分作業を続けていた他の同期たちにも伝わったのか、深世と同じく手紙を認めていた眞虚もまた手を止め、きょとんとした顔で深世に向き直った。
「深世さん? ……どうしたの?」
小首を傾げる眞虚に対し深世はチラリと目をやると、何とも釈然としない表情で件の手紙を翻した。
「……あのさ。これなんだけど」
言って深世が指し示す手紙の内容に、眞虚だけでなく乙瓜も、魔鬼も、杏虎も、そして遊嬉も視線を向ける。
「はあ?」
直後、遊嬉が不機嫌そうな声を上げる。続いて乙瓜が「なんだこれ」と眉を顰める。
魔鬼・杏虎は何も言わないものの、少なからず目の色を変えた。
眞虚はハッと息を飲んだ。そんな各々の反応を見て、深世はまた「はぁ」と溜息を吐いた。
深世が示したその手紙。そこにはたった一言だけ。こう書かれていたのだ。
『この嘘つきどもめ』
「――あんな、酷いです。黒梅先輩たちはみんなを守ってくれてるのに……」
数十分後、廊下にて。空になった段ボールを返却すべく印刷室へ向かう魔鬼の隣で、古虎渓明菜はそう呟いた。
美術室を出る際、本来一人で事足りる用達に動向したがる彼女を不思議に思った魔鬼だったが、成程の内輪のやり取りを見ていたのかと納得した。
ほぼ美術部へ行くことの確定した相談箱に寄せられた、明らかに敵意剥き出しの文章。
それは勿論あまり気分のいいものではなかったが、あの様に直接的な表現が稀なだけで、何も今回だけの特殊な事例ではない。
心霊、オカルト、怪奇、魔術。
こと美術部の周囲に限っては日常的によくある事なのだが、世間一般ではその限りではない。
マイナーもマイナー、それも存在するかどうかすら疑わしい眉唾物として扱われている。それはオカルト好きの聖地・古霊町であっても同じことである。
外界と隔絶された山奥でも絶海の孤島でもない平野に位置する古霊町では、車一台あれば近隣の町や県庁所在地の地方都市まで数十分で行くことが出来るし、電車や高速バスを使えば東京都心からもそう遠くない。
大きな神社や独自の地方伝承はあれど、オカルト特集を組まれる胡散臭い村のような妄信的な何かがあるわけではない。
一部の旧家では独自の習慣が未だ根強く残っているようだが、そんな熱心なところもほんの一握り。大多数の者は数多くの伝承を『話のタネ』『町興しのネタ』『伝統だからなんとなくやっているもの』として捉えていて、本気で祟りだの呪いだのを信じている者なんて絶滅危惧種だ。
要するに、この古霊町であっても、『大真面目にオカルトを語る者』は異端の存在なのだ。
そして異端者は往々にして、嫌忌や嘲笑の対象になり易い。
事実、ひきこさん事件を解決して以来、美術部へ届く手紙の中には明らかにおちょくったような内容のものも増えているのだ。
けれど魔鬼は、別にそれでもいいと思っていた。
それはおそらく乙瓜たちも同じだろうが、彼女たちは別に、世の全ての人々に褒め称えられる為に怪事を解決しているわけではないのだから。
目的はあくまでも大霊道の封印。
結果的に世の為人の為になるのは変わりないが、少なくとも魔鬼はその先にある筈の自分の穏やかな日々を守りたいだけであって、問題の周知なんてされなくてもいいとすら考えていた。
だから魔鬼は、心苦しそうな表情を浮かべる明菜に対し、明るく笑いかけてみせた。
「嘘つき呼ばわりされたって平気だよ、別に。そんな事慣れっこだからね。……っていうかごめんね明菜ちゃん、そんなことで心配かけちゃってさぁ」
先輩はノーダメージだってば、と笑い飛ばす魔鬼を見て、明菜はちょっぴり困惑したような顔で「そうですか?」と言った。まだどこか釈然としていない様子である。
そんな明菜を見て、魔鬼もまたきょとんとした表情になった。
(どうしたんだろ……?)
そう思うと同時。丁度印刷室の前に辿り着いたので、魔鬼も明菜も一旦足を止めた。
印刷室は購買部の売店も兼ねていて、購買が開いている早朝と昼休みの間は廊下窓側がカウンターとして使用されている。
だが、あくまでここは『印刷室』。購買カウンターのすぐ後ろのテーブルには裁断用の大きなカッターが置かれ、入口付近にはコピー機がでんと設置されている。
部屋の奥にはコピー用紙の束や模造紙のロールが山のように積まれ、同じ一角に運搬用の段ボールもまた無造作に重ねられていた。
「ちょっと待っててね、段ボール戻してくるから」
魔鬼はそう断ると、廊下に明菜を残して無人の印刷室へと歩を進めた。大して広くない部屋を進み、手にした段ボールを元の山へと返す。
その時だった。魔鬼の背中に、誰かの、少なくとも明菜の声ではない言葉が投げかけられたのは。
「ペテン師」
「えっ……?」
それは、決して大きくない声だった。
けれども雨天の為屋外の運動部の声もなく、比較的静かなこの一階廊下において。遮るもののないその声は、まるで風のように魔鬼の耳を通り抜けたのだ。
「ペテン師め」
再度声がそう告げる前に、魔鬼は勢いよく背後を振り返った。だから、二度目の言葉は真正面から浴びてしまった。
悪意の言葉。明確な敵意を持つ言葉。
その言葉を吐いた主は、驚愕の表情を浮かべる魔鬼に対しにぃと笑った。
それは女子生徒だった。おそらく自毛なのだろうが、明るい栗色の髪をした少女がそこに居た。
不敵な笑みを浮かべた少女は、魔鬼が二の句を継ぐより早くその場から走り去り、あっという間に姿を消した。
やや遅れて魔鬼が廊下に出たときにはすで遅く、少女の姿はどこにもない。
「昇降口か……ちっ……」
少女の走り去った先に昇降口があったことを思い出し、魔鬼は小さく舌打ちした。
彼女がふと横に視線を移すと、印刷室の前で律儀に待っていた明菜がギョッとした顔を浮かべたまま呆然と立ち尽くしている。
「明菜ちゃん、明菜ちゃんってば。大事?」
そう魔鬼が声をかけると、明菜は目をぱちくりとさせた後でこくりと頷いた。
魔鬼はそれを見て安堵の溜息を洩らした後、再度昇降口の方向を忌々し気に見詰めた。
「それにしてもなんだ今の子! 藪から棒にびっくりするじゃんか。あーあー、咄嗟のことで学年カラー見てないや。くっそー……」
魔鬼は言いながらわざとらしく腰に手を当て、頬をぷぅと大きく膨らませてみせた。
そんな漫画めいたな怒りの表現を見て、しかし明菜はクスリとも笑わず、顎に手を当てながらか細い声でこう呟いた。「やっぱり、雛崎さんだったんだ」と。
「……雛崎さん? 知り合い?」
「はい、同じクラスの……」
聞き捨てならないと言わんばかりにぐいと顔を近づけてくる魔鬼に対し、明菜は視線を反らしながらも肯定の意を示した。
「あの子、雛崎燿子さんって言って……同じクラスの、普段はいい人なんですけど」
明菜はそこで一旦言葉を区切って、数秒の沈黙の後こう続けた。
「オカルトを、オカルトをとっても憎んでるんです」
大降りの雨の中を傘も差さずに走りながら、雛崎燿子は思っていた。
美術部の嘘を。オカルトや心霊現象の類がこの世に在り、それを解決できると嘯いている美術部の嘘を、他ならぬ自分が暴いてやるのだと。
(嘘つきどもめ、嘘つきどもめ! きっとその嘘を明るみにしてやる。幽霊だろうが妖怪だろうが、この世の中にそんなものはいないんだって暴いて、みんなの前で恥をかかせてやる!)
そんな私怨を胸に秘め、ずぶ濡れになりながら彼女が目指す家には、しかし。暖かく迎えてくれる家族はいない。
雛崎燿子は恨んでいた。そして、――雛崎燿子はさがしていた。