ぽたりぽたりと雨の音。
六月、梅雨の季節への突入。空は陰鬱な鉛色の雲に覆われ、悲嘆の涙のような雫を大地へと滴らせる。
市街地の大通りには色とりどりの傘が行き交い、コンクリートのわずかな窪みに溜まった淀みは時に踏まれ、時に轢かれ弾け飛ぶ。
天気はともあれ人気にあふれる昼の往来のすぐ隣。まるで迷路のような路地裏の奥にひっそりと佇む扉の先に、その空間はあった。
外界とは隔絶した薄暗い地下室。打ちっ放しのコンクリートの天井には照明器具の類は設置されておらず、スイッチらしきものも存在しない。今この場を空間として視認させているものは、蝋燭の頼りなさげ灯りのみ。
燃える炎は映し出す。
自らの座す金色の燭台とそれが置かれた硝子のテーブル、テーブルを挟んで鎮座する二組の黒革のソファー、そして四方を囲むコンクリートの壁たちを。
部屋の中にはその他の家具や調度品の類は一切置かれておらず、酷く殺風景だった。
そんな味気ない部屋の寒々しい床を、コツリと固い音が伝う。
それは靴の音だった。突として起こったその靴音の主を、蝋燭の灯りは静かに照らし出した。
それは、女だった。それもまだ少女と呼んで差支えない年頃の。
肩甲骨に被さるほどの黒髪を持ち、薄手の赤いワンピースと、同じく薄手の白いケープを羽織った少女。
靴音は、彼女の履くパンプスが立てたものだった。
彼女は室内を満たす静謐を破壊するようにコツリコツリと靴底を鳴らし、テーブルの前まで歩み出る。
そして金色の燭台を手に取るなり、立てられた三本の蝋燭の火を一つ一つ吹き消した。
少女の唇からふぅと息吹が吐かれる度、室内に闇が広がっていく。いくらもしないうちに、辺りはすっかり闇夜の如き暗黒に包まれた。
何もかもが視界から消えた室内で、少女が燭台を置く音がやけに大きく響き渡った。
その傍らで少女の笑い声がクスクスと空気を揺らす。彼女がまるで悪戯の成功した子供のように笑う中、闇の室内には新たに二つ気配が音もなく現れた。
「……やめてちょうだい、びっくりするでしょう」
呆れたような声を受け、灯りを消した少女は声の方角へと視線を向ける。
普通の人間ならぼんやりとした輪郭を捉えるのでやっとというような闇に目を向けて、少女は何かを見つけたようににっこりと微笑んだ。
「なんだ、七瓜居たのね!」
彼女がまたうふふと笑いを零すと同時に、消えていた筈の蝋燭の火が再び灯る。暗黒の室内はその輪郭を取り戻し、コンクリート壁に背中を預けた彼女の不機嫌そうな顔をしっかりと映し出す。
――烏貝七瓜。古霊北中学校美術部に所属する理の調停者代理・烏貝乙瓜と瓜二つの少女。
彼女は溜息を吐きながら壁から体を離し、無邪気な顔の少女へと歩み寄った。
「変な悪戯は止して、三咲。あなたやアルミレーナは兎も角、私は暗すぎるのも駄目だって言ってるでしょうに」
再び深い溜息を吐く七瓜を見て、少女――石神三咲は悪びれる様子もなく「そうね」と答えた。
「七瓜はそうね、そうだったわね。でも大丈夫よ私は、……ううん。私とエリィは大丈夫よ。私たちは目がいいから、どこに居たってあなたの事が見えるわ。ねえ、エリィ?」
三咲がそう言って満面の笑顔で振り返ったソファーには、背もたれに深く寄りかかって脚組する更なる少女の姿があった。
エリィと呼ばれたその少女は女学生のような出で立ちで、太腿に届くほど長い赤い髪を邪魔そうに払いながら、じろりと三咲に目線を遣った。
「あら。気付いてたのね?」
涼しい顔で白々しく言ってのける彼女に対し、三咲はニィと口を広げ、白い歯を覗かせた。
「当たり前じゃない。消した灯りはひとりでに点いたりなんかしないわ。私はずっと七瓜と話していたんだから、ならばあなた以外に誰が点けるって云うの?」
「…………。ええ、そうね。概ね正解よ」
少女はさして興味なさそうに言うと、足を組み直して机に頬杖を付いた。
三咲はそれが面白くないのか、小動物のように頬を膨らませている。
七瓜はそれを見てクスリと笑うが、間髪入れず三咲の不機嫌な視線が飛んでくると同時に咳払いをし、わざとらしく彼女らから視線を逸らした。
文字通り口をツンと尖らせる三咲に対し、ソファーの少女は静かに言った。
「……それで。今日は何の集まりなのかしら?」
その一声でハッとしたのか、三咲は「そうだ、そうだったわ」と口元に手を当てた。その様を見て、少女は呆れたように溜息を吐いた。
「駄目よ三咲。貴女が招集をかけたのだから、しっかりやってもらわないと」
「あらら、あららら。そうね……ごめんなさいねエリィ」
三咲は先程とは打って変わってしゅんとした様子で項垂れてみせた。
その姿はまるで教師に間違いを指摘された生徒、あるいは母親に叱られた子供のようであった。
そんな三咲を見かねてか、七瓜は助け舟を出すようにこう言った。
「そうだわ三咲、今日はヘンゼリーゼは居ないの?」
――ヘンゼリーゼ。魔女組織・青薔薇の中心人物にして不和と混沌を愛する大魔女・ヘンゼリーゼ・エンゲルスフィア。
人間社会に時に富と幸福を、時に絶望と破滅を与える女。
決して表舞台に立つことはないが、彼女を知る者の間では神か悪魔の如く畏れ敬われている偉大なる魔女。
そんな彼女は、一方でこの場に居る三人の少女の親代わりでもあった。
石神美咲。家族を失った少女。
烏貝七瓜。影を持たない少女。少なくとも何かを失った少女。
……そして、もう一人。
アルミレーナ・エリス・G・クロウフェザー。彼女の場合は少しだけ事情が違う。
彼女はヘンゼリーゼに先立ってこの日本に活動の拠点を移しつつあった、さる大魔女の娘であるのだ。
エルゼ・L・A・クロウフェザー。
少なくともヘンゼリーゼよりも古い時代から存在する伝説の魔女。そして最初に青い薔薇をシンボルとして打ち立てた女。
云わば青薔薇の創設者である。当然魔女界での立場はヘンゼリーゼより上であり、本来ならば今日も青薔薇のトップとして君臨するはずの存在である彼女は、しかしある時忽然と姿を消してしまったのだ。……幼い娘を一人残して。
その事件は当時の魔女界を大いに震撼させた。有志の魔女たちによって大規模な捜索が行われたが、魔女エルゼに関する痕跡は何一つとして発見されなかった。
情報が錯綜し魔女界が混乱する中、一人の女がエルゼの忘れ形見を連れて青薔薇の頂点に君臨する。それがヘンゼリーゼであった。
当時のヘンゼリーゼは派閥内での勢力も支持率も大したことのない魔女であり、混乱に乗じて漁夫の利の如くエルゼの座を攫っていった彼女対し、魔女たちは猛烈な非難と批判を浴びせた。
しかしヘンゼリーゼは何食わぬ顔をして彼女たちを一堂に集めると、悪びれることもなくこのように述べたのである。
「生きているにしろ死んでいるにしろ、このまま魔女エルゼが見つからないのであれば次代の後継者が必要であろう。ならばその後継者は偉大なるエルゼの血を引くアルミレーナこそ相応しい。だがこの娘はまだ幼く、今はまだその時ではない。アルミレーナが成長しきるまで待つべきである。私はあくまでそれまでの代理である」と。
そんな言葉、もちろん当時の魔女たちは誰も信じていなかったし、実際に守られる事もなかった。
あれから時が過ぎ、アルミレーナはもう十分に成長した。にも拘らずヘンゼリーゼは相変わらず青薔薇のトップに居り、且つ彼女の称するところの代理期間中には反発する多くの魔女が青薔薇から除名された。
現在の青薔薇は実質ヘンゼリーゼのヘンゼリーゼによる独擅場と称しても過言ではない状態にあり、魔女エルゼの時代とは大凡似ても似つかないものへと変わってしまった。
組織の乗っ取り。その為に利用されたも同然のアルミレーナは、しかしヘンゼリーゼをこれっぽちも恨んではいなかった。
彼女はもうヘンゼリーゼの所業の意味を理解できない子供ではなかったが、例え打算だろうが母を失って独りとなった自分を引き取り育ててくれたヘンゼリーゼには多大な恩義を感じていた。
時々遭う他所の魔女にはそれこそ洗脳だと嘆かれるが、彼女は別にそうであっても良いと感じていた。
……まあ、だからとてヘンゼリーゼの全ての行いを肯定する気は更々ないし、信用ならない人物だと思う気持ちもあるといえばあるのだが。
例え全てが偽りだとしても、その結果として今の自分がヘンゼリーゼに対して抱いている気持ちは本物である筈だ。
アルミレーナはそう信じているし、彼女の後からやってきた二人の少女、三咲と七瓜もまた同じ気持ちを抱いているだろう。
同じ家に棲み、同じように生活し、だが血縁ではなく、かと言って単なる友人でもなく、……しかし未だ家族に満たない。
そんな奇妙な関係が、彼女たちの間にはあった。
「ヘンゼリーゼは居ないわよ。ヘンゼはお仕事。夢見るお仕事。機が熟すまでの放置プレイ。まだ自分の出る幕じゃないって、だから裏方。まだまだ裏方」
三咲は気怠そうに答えると、アルミレーナの対面のソファーへと倒れこんだ。
急にかかった圧によって内面のウレタンが吸い込んだ空気が漏れ、表面の革を一時膨らませる。
その膨らみに顔を埋た三咲は、くぐもった声で言葉を続けた。
「そういうわけだからヘンゼはしばらくここには来ないわ。私たちに対して特に何しろって云う言伝もない。要するにおあずけよ、おあずけ。つまんない」
如何にも不満そうな調子の彼女に対し、アルミレーナは「結構な事じゃない」と返した。
「何もないならそれに越したことはないじゃない。ねえ、七瓜」
「え、ええ……」
アルミレーナの視線を受けて、七瓜は少々歯切れが悪い返事をした。
何もないならそれに越したことはない、それは確かにそうだと七瓜も思う。
思うのだが、彼女にはそれとは別に思う所があった。
――本当にそうかしら、と。
七瓜は思い出す。それは今年の春先のある日の事だ。
ヘンゼリーゼは七瓜一人を唐突に呼び出すと、「貴女だけに」とこんな事を告げたのだった。
『あのね、七瓜。貴女だけに教えてあげる。これから貴女の故郷・古霊町ではね――』
――大変なことが、怪しい事が。次々と沢山起こるのよ。
その日、ヘンゼリーゼは嬉々としてそう告げた。胸騒ぎがした七瓜は即日古霊町へと向かい、そして乙瓜と遭遇した。
烏貝乙瓜。七瓜と同じ顔を持つ少女。昨年一度衝突した古霊北中の札術師にして、七瓜の――。
(私の……)
そこまで考えて、七瓜は己の唇をキュウと噛みしめた。
乙瓜はきっと自分を恨んでいるだろう。当然である。あんなことがあったのだから。
昨年の秋口、七瓜は乙瓜を本気で殺すつもりでいた。
本気、そう、本気でだ。その件にはあのヘンゼリーゼも一枚噛んでいるとはいえ、あの日あの瞬間確かに本気だったことは嘘偽りない事実なのだ。
その理由は怨恨ではない。復讐でもない。かと云って、通り魔のように誰でもよかったわけでもない。
ただ、しかし、必然的に。烏貝乙瓜でなければ駄目だったのだ。
そう、烏貝七瓜には影がない。
およそこの世のありとあらゆるものが、例え透明なガラスや水晶玉でさえも持ち合わせているような己の影を、七瓜は持っていない。
持っていない故に、存在しない。他者の影の中でしか存在を認識されず、それでいて強すぎる暗闇の中では姿形が掻き消えてしまう。幽霊のような存在。
しかし死者ではなく、彼女は生きている。生きている人間なのである。他者がどう思おうと。少なくとも彼女の意識の中では、彼女は人間だ。
七瓜の出自は世に溢れる数多の人間となんら変わりないものだった。
生まれついてこのような難儀な体質の持ち主だったわけではなく、影を失ったのは後天的なものだ。
失った故に通常の人の道から逸脱し、人のような何かへと転じてしまった。
誰にもまともに認識されなくなった七瓜は嘆きの底にあった。そんな七瓜に手を差し伸べたのがヘンゼリーゼだった。
そしてヘンゼリーゼは、七瓜を救うという面目でこう囁いたのだ。
貴女が失ったものを何食わぬ顔で使っている者が居る。心当たりがある筈だ。貴女は彼女から取り戻さなくてはならない。貴女の影を。
七瓜には心当たりがあった。そして――烏貝乙瓜を見つけた。
単純な話である。烏貝乙瓜は持っていたのだ。烏貝七瓜の失われた影を。
故に――しかし。七瓜は乙瓜を殺すことが出来なかった。
既の所で影を奪い返すことが出来なかった。
あと一歩と云う所で。……躊躇してしまったのである。出来なかったのである。何故ならば、乙瓜は七瓜の――。
(あの子は私の――妹、だから)
己の腕をもう片方の手で強く握る七瓜を他所に、ソファーに埋もれる三咲が呟いた。「そうだ」と。妙案を思いついた子供のような声音で。
「つまんないから、さ。あのおじさんたちに会いたいね」
彼女の脳裏に浮かぶのは、古霊町。
かの大魔女がこれから怪しい事が多々起こるだろうと予見した、あの田舎町の風景だった。