怪事捜話
第四談・現代奇談ナイトメア⑦

 燈見子と直接対峙している狩口は、突然様子の変わったはとこを前にして狼狽していた。
 まさに豹変。理性の欠片もない殺意の眼光を向けて獣のように唸る姿は、先程まで会話していた彼女とはまるで別人である。
「何が起こったっていうの……」
 そう呟く狩口からは、数秒前までの強硬な様子はすっかり消え失せている。
 表情は困惑と不安の色に染まり、想定外の事態に混乱しているようだった。
 ――想定外。そう、まったくの想定外だったのだ。

 そもそも狩口が燈見子に会おうとしていたのは、再び世間を恐怖させる存在になった燈見子に説得を試みる為だった。
 その理由は魔鬼に語ったような自分や夫の世間体の為……というのも勿論あったが、一番の理由は燈見子の両親に請われたからに他ならない。
 燈見子の両親・森谷夫妻は依然として古霊町に暮らしていた。
 それは娘に未練があったからなのか、それとも罪悪感からなのか定かではないが、古霊町に住み続けていた彼らには日曜日の事件を耳にする機会があった。
 ――お化け屋敷探検を敢行した子供達が引きずられる事件。
 彼らはそれを聞いてすぐに娘の仕業だと思い当たり、同じ町に住む狩口に「どうか娘を止めて欲しい」と泣きついたのだ。
 彼らに押しかけられた狩口は、はじめこそ「何て自分勝手な人たちだ」と呆れていた。
 当然である。大体、異形の異能と化した娘と録に向き合おうとせずに真の意味で"ひきこさん"にしてしまったのは間違いなくこの両親なのだから。
 狩口は勿論、都市伝説に乗じて暴走していた頃の自分が燈見子に多大な悪影響を与えてしまった事を理解しているし、申し訳ない事をしてしまったと後悔しているつもりだ。――だが、それ以上にこの両親は何なのだと、狩口は憤った。
 都市伝説のブームが去り、"ひきこさん"の名から解き放たれた彼女を"森谷燈見子"に戻す機会はいくらでもあったのだ。
 "口裂け女"としての存在価値を失った女が"狩口梢"という人間として物語を綴り出したように、"ひきこさん"としての存在価値を失った彼女も"森谷燈見子"として出来ることを探せばよかったのだ。
 だが、自ら動き出さず引き籠もってしまった彼女を、夫妻は殆ど放置していた。食事を摂らない事を心配して医者に診せることもあったが、現代医学では解明できない結果を前にして実の娘を気味悪がった。その事が益々燈見子の引き篭もりを助長してしまった。
 狩口がそれを指摘すると、森谷夫妻はしばし押し黙った。
 彼らは数分閉口した後「それが愛情だと思っていた」とドラマのような台詞を吐き、狩口を益々呆れさせた。
 結局彼らはすぐに帰っていったが、その訪問が切っ掛けで、狩口は長らく顔を合わせていないはとこについて考え始めた。
 実の所狩口は、その日夫妻の訪問があるまで燈見子の現状を知らないでいた。
 引き籠もったという噂は聞いたが、精々まだ家に居るのだろう位にしか思っていなかった。
 狩口の知る燈見子は、多少人見知りな所はあるが心優しく気だての良い少女だった。
 彼女が自分と同じ怪物じみた存在になってしまったと聞いたときは不安に思ったものの、開き直って怪人物として暴れているらしいという話を聞いて安心したりもしていた。
 だから、ここまで深刻な事態になっているだなんて思っていなかったのだ。
 居ても立ってもいられなくなった狩口はすぐさま家を飛び出し、昼間の内に燈見子の家へと向かった。そしてその中に居るだろう彼女に向けて呼びかけたのだ。
 しかし返事は無く、狩口はやむなく錆び付いた郵便受けに書き置きをねじ込むことにした。

『燈見子ちゃん。今日も夜、出てくるなら。私の所に来て。十字路で待ってる』

 そうして家の前から立ち去ったのが昨日の話。窓が割れていたのには気付いていたが、敢えてそこから上がり込む様な真似はしなかった、が。
 今となって彼女は後悔していた。――あの日無理矢理にでも会っておくべきだったと。


 回想の世界から浮上した狩口の左肩すれすれを燈見子の右腕が掠める。
 張り手のように突き出されたその腕はまったくの生身だったにも関わらず、狩口の服は一直線に裂け、露出した素肌には血が滲んでいた。
 狩口はそれを見てギョッとするが、驚いている暇などない。既に次なる攻撃が彼女の顔面目掛けて繰り出されている。
 狩口は持ち前の素早さを活かして瞬時に体勢を崩し、一瞬早くその一撃を回避する。
 直後、彼女の頭があった空間を鋭い風切り音が貫通する。
 その間僅かに一秒足らず。映画にしてもワンフレームあるかないかの、まさに一瞬の出来事だった。
 そんな一瞬の攻防に、狩口は肝を冷やしていた。

 もし、自分が素早い系統の怪異でなかったら。
 そしてもし、僅かでも判断が遅れていたら。
 ……今頃自分は頭を潰されていただろう。
 狩口はそう考え、戦慄し、恐怖した。
 それは"口裂け女"と称されるようになって以来久方ぶりに味わう感情だった。
 ――されど彼女には恐怖し萎縮する時間すら与えられない。恐怖の根源となった燈見子は未だ至近距離にあり、咆吼しながら次なる攻撃を加えようと体勢を整えている。
 自らを奮い立たせるよう唇の内側を噛むと、狩口は一気に姿勢を低くし、その体勢から燈見子の腹を蹴り上げた。
 そして燈見子がよろめいた瞬間に素早く後ろに回り込み彼女を羽交い締めにした。

「正気に戻って燈見子ちゃん! もう大丈夫だから、おばちゃんも一緒に考えるから、燈見子ちゃんが前みたいに誰も傷つけずに暮らせる方法考えるから……!」

 狩口はそう呼びかけるが、燈見子は唸るばかりで話にならない。
 捕縛から抜け出そうと暴れる力は強く、狩口はそれを必死で押さえつけるものの、自分でもすぐに限界が来るだろうと感じていた。
 現に彼女には、もう左腕の感覚が殆ど無かったのである。それは云うまでもなく、先に受けた肩の傷が原因していた。
 碌に止血も出来なかった傷口からはだくだくと血液が漏れだし、狩口の黄色いカーディガンをじわじわと赤く染め上げていた。
 血は狩口が力を込める度に噴水のように吹き出し、誰がどう見ても尋常でない量が流れ出てしまっている事は明らかだった。
 だが彼女はそんな状態になって尚、燈見子を押さえつける事を止めようとしなかった。
 どんなに振り払われそうになっても、どんなに傷口が痛んでも、決して。
 決して、燈見子を離そうとしなかった。

 血を失い過ぎて朦朧とする意識の中で、狩口はある光景を見た。それは自らに……否。自分と燈見子に向けて矢を向ける美術部の姿だった。
 それを見て、彼女は何故だか微笑んだ。

(いいわ、射抜きなさい。このまま燈見子ちゃんが理性も何もない怪物になってしまうくらいだったら、いっそ私共々――)
 狩口はそんな思いで目を瞑った。しかし次の瞬間彼女の耳にはっきり聞こえた言葉は、想像とはまるで違うものだった。


「――助けるからね」


 狩口が燈見子を押さえつけている間、火遠は美術部に語った。
「いいかい。これから乙瓜が持つ俺の退魔の護符フダと眞虚が持つ水祢の封呪の護符フダ、その二つの力を複合してひきこさんの中に染みこんだ大霊道の障気"のみ"を封印する」
「俺の札と?」
「私の札の力を合わせる?」
 顔を見合わせる乙瓜と眞虚に、火遠は「そうさ」と頷いた。
「どちらか一方じゃあ駄目だ。"退魔"でひきこの妖怪としての力を押さえつけ、その間"封呪"で障気の力を取り除く。今この場ではそれ以外に有効な方法はないだろうね」
 わかったかいと指を振る火遠を見て、乙瓜は眉間に皺を寄せた。
「おい待てよ。二つの力を複合ったって、今のひきこさんは狩口さ……口裂け女と揉み合ってる状態で、とてもピンポイントに狙い打ちなんて出来ねえぞ!」
 そう食ってかかる乙瓜を見て、火遠は「だろうね」と呟いた。しかしそれを受けた乙瓜が口答えするより早く、火遠はこう続けた。
「しかしだ、乙瓜。こうして五人も集まっておいて、何のための仲間だい。こういう時こそ知恵を絞って力を合わせるべきじゃあないか。ねえ、杏虎」
「はい?」
 唐突な名指しに杏虎は首を傾げるが、火遠はお構いなしな様子で彼女にこう告げた。
「俺の見立てが間違いでないなら、君は虎の目・・・を持っているね?」
「虎の目? 確かにあたしは杏だけど……洒落か何か?」
「とんでもない、歴とした君の能力ちからさ。数秒先の未来を予見する、まあ未来予知の一種だね」
「未来予知~? そんなモンが何であたしにあるのさ」
 杏虎はいまひとつ釈然としない様子だったが、火遠はそんな彼女の様子を見てクスリと笑った。
「何がおかしいのさ」
「いいや」
 火遠は少しムッとしたような杏虎に弁明しつつ、手で口元を覆いながら何事かを呟いた。
 それは杏虎には聞こえていなかったようだが、別の位置に立っていた眞虚にははっきりと聞こえていた。

 ――本当は知ってる癖に。

「え……?」
 眞虚はハッとして顔を上げた。だが火遠は既に平然とした顔で話を再開しており、眞虚は先の呟きの真意を問う機会を逃してしまった。
(一体どういう事なんだろう?)
 そんな眞虚の疑念を余所に、火遠はひきこさんと口裂け女を見据えながら話を進めていく。
「兎に角杏虎。君は特定の対象の動きを予見して正確に射抜く事が可能なワケだ。ならばそのやじりに二つの札を付け、ひきこさんを狙えばいい」
「な、なるほど? まあやってみるよ」
 杏虎は無理矢理納得したように言うと左腕を前に突き出し、その手の中に青の弓を出現させた。
 火遠はそれを確認して乙瓜と眞虚に目配せする。札使いの二人は頷くとそれぞれの札を取り出し、杏虎の手の中で更に形作られた光の矢にそれを刺させた。
 そうして全ての準備が整い、杏虎が弓矢を構えようとした瞬間。今まで嘘のように黙っていた遊嬉が唐突に手を挙げた。
「はいはーい、せんせー。着々と準備が整ったワケだけど、あたしらはやることないんですかーーー。ねーーーー?」
「あたしらって私もかよ?」
「なんだよ魔鬼。たりめーじゃーん。……ねーーーー火遠ってばーーーー」
 駄々っ子のように声を伸ばす遊嬉。数メートル先では口裂け女が血みどろになっているというのに、何とも緊張感に欠けた様子である。
 そんな遊嬉を見て火遠ははぁと溜息を吐いた。
(前々から思ってたけど、この子にとって場の空気とか状況とかはだいたい二の次なんだろーな……。姉さんはなんだってこんな子を選んだんだか)
 自分のことを完全に棚上げしつつそう思った火遠は、しかし直後妙案を思いついたように手を叩いた。
「――そうか、それを任せるのもアリか」
「それって何さー」
「いや、君たちにしか出来ない事さ」
 火遠は魔鬼と遊嬉を振り返り不敵に笑みを零した。


 斯くして全ての準備が整い、杏虎は構えた弓矢をひきこさんに向ける。札使いの二人は矢に通された札に念を込めながら放たれる瞬間を待つ。
 ほんの僅かな沈黙の後、杏虎は目を見開いて声を張り上げる。

「――見えた! 穿て、偽霊弓矢レプリカ・アロー

 同時に光の矢が放たれ、宙を真っ直ぐに飛んでゆく。
「助けるからね……!」
 眞虚が二つの手をぎゅっと握り合わせた。乙瓜も右手を前へ突き出しながら眉間に力を込めた。

 長いようで短い一瞬の後、矢は狩口を傷つけることなくひきこさんに命中し、その右胸を射抜いた。暴れていたひきこさんは小さく呻いてぐらりとよろめく。その瞬間を見計らい、乙瓜と眞虚は声を揃えて叫んだ。

「「願いましては四の五の双つ、希いては青の三つ! 魔を退け、邪気を祓え! ……対魔対呪結界・青星あおぼし」」

 二人の宣言に呼応して、矢に貫かれたひきこさんの胸から青い光が漏れ出す。ひきこさんは跪き、胸を押さえて呻きだした。
 その悲痛な声を耳にし、てっきり彼女ともども死ぬものだと思っていた狩口は目を開けた。
 その双眸が捉えたのは、胸に穴を開けて苦しんでいるはとこの姿だった
「……燈見子ちゃん? 燈見子ちゃんッ……!」
「が……うぐぁ……ぁぐ……あっ…………」
 言葉にならない言葉を上げる燈見子を見て、狩口は顔を青くした。
 狩口はよろよろの体で燈見子を抱き留めながら、美術部に鋭い眼光を向けた。
「何で、何で私も纏めて射抜かなかったの! 何で燈見子ちゃんだけを撃ったのよ!!」
 そう叫ぶ狩口の目には大粒の涙が浮かんでいた。
 何故自分を撃たなかったのか。
 そう訴えながらも、だからといって美術部に怒りをぶつけるのは筋違いであることくらい、彼女にはわかっていた。そもそも美術部のひきこさん退治に助力したのは自分であるのだから。
 だが、彼女にはわからなかったのだ。この遣り場のない感情の矛先を、果たしてどこへ向けるべきなのか。
 狩口はその腕に燈見子を抱きながら、我が子を守る母の様な目で杏虎たち三人を睨み続けた。
 出血は酷く、もう人一人抱き起こす力など残されていない筈なのにも関わらずだ。まさしく、極限の状態であった。
 そんな状態の狩口の手に、そっと触れる者がいた。

「梢……さん、大丈夫、……だから」

 手をさすりながら弱々しいく呼びかけるその声に、狩口はハッと目を見開いた。
 すぐさま視線を落とした先には、憑きものが落ちたように穏やかな顔の燈見子がいた。
 その表情を見て、狩口は声も出せずにボロボロと涙をこぼした。
 腕の中の燈見子は笑っていたのだ。遠い昔、只の人間だった頃を最後に何十年も見たことのないような顔で。
 その胸には確かに射抜かれた筈の傷跡はなく、狩口は漸く自分がとんだ思い違いをしていたことに気付いた。
「ありがとう……ありがとうね……」
 狩口は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、美術部に向けて何度も何度も礼を述べた。



 ――それから。
 あの後意識を失った狩口及び病院に搬送されていたそれまでの被害者は、眞虚の回復結界の力で元気を取り戻した。
 新たな被害者も出ないことから、ひきこさんの噂は再び忘れられて行くだろう。
 すっかり邪気の抜けたひきこさん本人こと森谷燈見子は被害者に謝罪して回ろうと考えていたが、下手にトラウマを刺激するのもどうかという狩口の意見もあり、それは断念した。
 何故あんなにも子供達を憎らしく思ったのかは燈見子本人にもよくわかっていないようだった。
 だが、火遠の考察が合っているなら、気の弱っていた所で大霊道の障気に当てられ、それが意図せぬ暴走に繋がったという事になるのだろう。
 燈見子はこれから一旦両親に話を付け、その上で彼らの元を離れ、再び森の中の家で暮らすつもりだった。
 勿論以前のように無為に暮らすのではなく、先ずは狩口の助けを借りながら人間らしい生活を取り戻すことから始めていくようである。
 その知らせを聞き、誰より喜んだのは眞虚だった。
「よかった、本当に……」
 安堵の溜息を漏らした眞虚は、実の所ずっと不安だったのだ。自ら助けると言い出したものの、障気なんて関係なく元々悪意や敵意を持っている相手だったらどうしよう、と。
 故に、この結果は眞虚を大いに安心させた。
 もう少し落ち着いた頃になったら改めて燈見子に会いに行きたい。眞虚はそう語った。


「……で、あんたら二人は何したーの?」
 一週間後、美術室で。魔鬼と遊嬉に視線を向けながら、深世はシュレッダーのハンドルを回し続けていた。
 細切れにされて行く大小様々な封筒は、騒動が終わっても処分しきれない美術部宛の手紙である。
 もはや普通に捨てた方が早いだろうと周りは言うのだが、「個人情報をそのままにして捨てられない」とシュレッダーをかけ続ける深世は、もはや律儀を通り越して自棄になっている気があった。
 そんな深世の質問を受けて、魔鬼と遊嬉は気まずそうに顔を見合わせた。
「え……」
「いや……知りたい?」
「? 何その言い方は。人に言えない事でもしてたの?」
 顔をしかめる深世に、二人は揃って「いや……」と返した。そしてどこか遠い所を見る目をしながら、魔鬼は言った。

「アレって何年前の映画だっけ……子供知ってんのかな……」

 そんな返答を受け、深世は益々わけがわからなくなってしまった。
 実の所遊嬉と魔鬼は、件の三人がひきこさんを射抜く直前に場を離脱し、ずっと意識を失っていた少年を家に送り返すという地味な仕事を押しつけられていた。
 その時やけくそになった遊嬉の思いつきで魔法で自転車を浮かし夜空を飛んだという面白愉快なエピソードがあるのだが、二人がどこかうわのそらなのは、その事が原因で古霊町に新しい都市伝説が発生してしまったからに他ならない。

『自転車で空を飛ぶ宇宙人が出たらしい』

 そのなんともファンシーな噂はひきこさん騒動を上塗りする勢いで広まっていったが、果たしてどう対処したものか。遊嬉と魔鬼は頭を抱えるが、深世にとっては関係のない話だ。

 兎にも角にも脅威は去り、古霊町には一時の平穏が訪れていた。……その裏で。

「障気の影響で自我を失い活性化する妖怪。……なぁるほどぉ。このアイディアもなかなかイケてるじゃないか。帰ってマガツキ様に進言しましょ、そうしましょ……っと!」
 うふふ、うふ。不穏な笑みを残し、人形使いは再び姿を隠した。



(第四談・現代奇談ナイトメア・完)

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