怪事捜話
第四談・現代奇談ナイトメア⑤

 時間は40分程前にさかのぼる。
 はじめは北中の半径1.5kmほどの範囲を哨戒していた眞虚は先の鵺騒動で用いた感知型結界を要所に設置し終え、北西方向に移動を開始していた。
 美術部の仲間たちがまだ当初散らばった方向に留まっているとするなら、北西方向には杏虎が居る筈である。眞虚が他の誰でもない杏虎の元へ真っ先に向かったのには、きちんとした理由がある。
 眞虚はこう考えていた。魔鬼や乙瓜、そして遊嬉たちは、怪事を解決するようになってから少なくとも半年以上の経験がある上に、内二人には契約の妖怪が付いている。契約妖怪のいない魔鬼にしたって魔法使いとしては数年のキャリアがあり、よっぽどの事が無い限り心配することはないだろう。故に、今一番心配なのは杏虎である。
 杏虎が"力"を手に入れたのは、今から逆算してほんの二十日ほど前である。その力が圧倒的だという事は先の怪事で実証済みであり、眞虚も決してそれを疑っているわけでは無い。増してや彼女に限って油断や慢心等あり得ないとすら思っている。
 だが、だからこそ眞虚は心配なのだ。
 いくら杏虎の持つ力が圧倒的とはいえ、彼女には"契約"が無い。自分たちのように身の安全を保障されるものや身体能力への補正を持たない杏虎自身は、何処にでも居る平均的な中学生女子なのである。
(杏虎ちゃんの武器は弓。遠距離向けの武装。……もし、万が一。万が一相手が杏虎ちゃんが弓を射るより速かったら? 純粋な力比べに持ち込まれたら?)
 眞虚が何よりも心配したのはそれだった。
 杏虎が一撃を加えるより早く杏虎自身を叩かれる、という危険性。圧倒的な力の裏側に隠された意外な――否、至極当たり前の弱点。
 一方で、眞虚の力は護符。弓矢や刀のように物理的な殺傷力は伴わないが、その代りに攻撃のみならず防御や封縛のサポートに秀でている。故に。
(――私が居れば、きっと杏虎ちゃんを守りながら戦えるよね……?)
 そう思い、眞虚はより一層拳を握りしめて暗い道を走った。
 とっくに太陽は沈んでおり、左右に広がる田畑からは梅雨を待つカエルの合唱が響いている。
 一瞬見上げた空には星が煌々と輝いているが、月の姿は見られない。眞虚は少しだけ不思議に思った後、今日は下弦の月だったかと思いなおす。
 ならば月が昇るのはもっと真夜中になってからであると納得し、少女はいつもより暗い夜道を走り続けるのだった。
 その空に薄らと暗い雲が差しはじめたのに、気付かないまま。

 たっぷり20分後、古霊北中から北北西に7km程離れた地点。古霊町四大寺社・居鴉寺いがらすじから道路を挟んで向かい側。
 林を切り倒した小さな土地には、赤い屋根の小さな建物と申し訳程度の遊具が設置された小さな庭がひっそりと存在していた。
 そこは元々保育園だったのだが新しく大きな保育園が作られた為閉園となり、残った建物は集会場に、園庭は遊具そのままに児童公園として利用されることとなった場所である。
 尤も、門の柵には未だに「こだま西保育園」の名前が残っており、馴染みの住民や卒園者からは未だに保育園と呼ばれているのだが。
 そんな公園のカラフルに塗装されたタイヤの上。あたかも天を仰ぐような体制で腰かけながら、眞虚は粗い呼吸を繰り返していた。
 それも当然である。一応水祢が付いているとはいえ、特に身体能力強化の加護も受けていない身で7kmを全力疾走したのだから。
 何も成す前から既に息切れしている彼女に対し、いつの間にやら現れた水祢は馬鹿にしたような目線を送っている。
「フン。遊嬉みたいな体力馬鹿の真似をするからそうなるんだ。ばーか」
「水祢くん……。たしかにね……ははは……」
 眞虚は乾いた笑みを漏らしながら、はーっと大きく息を吐いた。
「……それにしてもなんですぐに気付かなかったんだろ? 私、元々そんなに走れる方じゃないのになぁ。……どう思う?」
 問われ、水祢は顎に軽く手を当て、少しの間何かを考える様な仕草をしてから口を開いた。
「これは憶測だけど。俺との契約の影響で、お前自身が腹に抱えてるモノの力がまた影響するようになったんじゃないの」
「お腹の……って、悪魔の卵の……?」
「そう。……一応聞くけど。お前、件の誘拐事件の後。何か自分で考えてもおかしなことがあったんじゃないの。……例えば。鳥になって逃れた後、お前は何処でどうやって見つかった? それこそ親類が余所余所しくなるような、何か奇妙な事があったんじゃなくて?」
 水祢はそう言って射抜くような視線を眞虚に向けた。
 眞虚は少しだけ驚いた様子だったが、すぐに何かに思い当たったように口を開いた。
「……すごいね水祢くんは。言ってない事もわかっちゃうみたい。そう、だね。確かに思い当たる事があるよ。私、あの時……あの後。岐阜の山林の中に居たみたいなの。そこから何時間も飲まず食わずで山を下って、県道まで出てやっと人に見つけて貰えたんだ」
 終わりに「今となっては別に辛いとかないし、ただ懐かしいだけの話だけどね」と付け加えて笑う眞虚を見て、水祢は「やっぱり」と呟いた。
「ならきっとその時に近い状態なんだろ。かなり平たく言うと、今のお前はお前自身の体力の限界をある程度までなら越えて行動できる。……いや、この言い方は語弊があるな。正確には体力や身体能力そのものは変わらない。けど、疲労に対する回復力が凄まじい。……現に、お前はもう全力疾走の疲労から回復しつつあるだろ?」
「あ、本当だ。苦しくない……?」
 水祢に指摘され、眞虚はハッとしたように目を見開いた。
 確かに、もう呼吸の乱れもなければ、一歩も動きたくない程強張っていた手足もすっかりなんでもない状態になっている。そのことに気づくと同時、眞虚は途端に神妙な顔つきになった。
「えと、いや……待って? 身体能力は変わらないなら、ここまで走ってこられたのは……?」
 訳が分からないとばかりに呟く眞虚を見て、水祢は呆れたように説明を始めた。
「……例えば。お前に元々50m走を8秒で走れる能力があったとする。だけど数学上の世界じゃないから、その速度を維持したまま7kmを突っ走れって言われても無理だろ? 駅伝の選手でもあるまいに、途中で疲労困憊で倒れるのが目に見えてる」
「うん、まあ、そうだね?」
「そう。だけど、もし疲労を無視して速度そのまま突っ走れたとするなら。単純計算でおよそ19分以内には走りきれることになる。……今のお前がそれね」
「ああっ! 成程ね、そういうことかー」
 漸く納得したように手を叩く眞虚を見て、水祢ははぁと大きな溜息を吐いた。

 眞虚たちがそんなやり取りをする公園の前で、一台の自転車がキュッと止まった。
 シンプルな銀色の車体は、学生の通学用としては定番のモデルであり、後部リフレクターのテールランプ下には、古霊北中の通学許可シールが貼られている。
 そんな自転車から片足だけを下した体勢で、白薙杏虎は呟いた。
「やっぱ眞虚ちゃん達じゃん。こんなところで何やってんだろ?」
 一瞬首を傾げた杏虎だったが、すぐにまあいいやとばかりに自転車から降り、スタンドを立てかけながら二人の名を呼ぶ。
「おーい眞虚ちゃーん、水祢ーーー」
 大きく手を振る杏虎に気付いたのか、眞虚もまたタイヤの上に座ったままで控えめに手を振りかえす。
 水祢は知らんぷりをしていたが、まあそんなものだろうと思い、杏虎は眞虚達の方へと足を踏み出した。
 ――その時だった。

 公園の奥の林から、ガサゴソと大きな音が立ち。
 木々の隙間から、ぬっと。白い服を纏った細い人影が姿を現したのは。

 その人影は、よく見れば髪の長い女の様であった。俯き気味の顔にはホラー映画よろしく長い髪が覆いかぶさり、如何にも悪霊然とした佇まいである。
 白い服は少し季節を先取りしたサマーワンピースのようで、それだけ見れば清楚で可愛らしいものだったのだが、先に述べた容姿と合わさった所為か悪霊っぽさが協調されてしまっており、気軽に「かわいい」などと言えた雰囲気ではない。
 そんな女が現れる様を、杏虎と眞虚はほぼ同時に目撃した。
 女は前傾姿勢でぎこちなく歩いており、その片手には何か――ずた袋のようなものを地に着けて引き摺っている。歩き姿が不自然なのも、その袋が余程重たいからなのだろう。
 しかし、眞虚も杏虎も気づいていた。それがずた袋などではない事に気付いていた。

「「ひきこさん……ッ!」」

 同時に叫び、身構えるその先で。"ひきこさん"はニィと笑った。



 時刻は戻って現在。
 車線も側溝すらもない夜のおどろおどろしい林道を、闇に溶け込むかのような黒の軽乗用車が突っ走る。
 その速度は明らかに法定速度をオーバーしており、いくら警察の監視も取締装置もないような場所とはいえ、細く曲がりくねった道を走り屋よろしくすっ飛ばすその車は明らかに常軌を逸していた。
 そんな車の中には人影が二つ。
 一つは鬼気迫る形相でハンドルを握る狩口で、もう一つはその隣できちんと装着したシートベルトを更に握りしめながら、真っ青な顔でガタガタ震える魔鬼だった。
「かかか狩口さんっ、スピードっ、スピードぉっ!」
 あたかも暴れ馬に乗っているかの如く揺れまくる車内で、魔鬼は半狂乱気味に叫んだ。
 しかし狩口はそんな彼女にチラリと視線を送ると、余裕ありげに裂けた口を細く開いた。
「大丈夫よ。この辺民家も交番もないし広い道出るまで信号ないから」
 そう言ってニコリと微笑む狩口を見て、魔鬼は心の中で「そうじゃない」と思いっきり叫んだ。
 法的に大丈夫か大丈夫じゃないかなんてそんなことはどうでもいい。尚且つ、仮に運転手(狩口)のドライビングテクニックが神がかっていたとしても、本人には絶対に事故を起こさない自信があったとしても!
えええええええええええ! そんじょそこらのジェットコースターよりこええええええええええ!!)
 フロントガラスに次々と映る光景は、カーブだらけの道と激突する勢いで迫ってくる木々と、時折現れるガードレールも何もない崖。
 狩口の車がこの道に突入してからおよそ五分が経過しているが、その間ずっとこんなスリリングなものを見せ続けられた魔鬼の肝はというと、もう凍てつくほどに冷え切っていた。
 所謂心霊オカルトホラーとは別次元の恐怖が、そこにはあったのだ。
「あと少しで寺公園近くの道に出るからね、しっかりつかまっててよォ!」
「違うんですスピードぉぉ! ……って、あれ?」
「んン? どうしたの」
 不意に大人しくなった魔鬼に、狩口は怪訝な声を上げる。
 狩口が脇目で見た魔鬼はサイドの窓から後方を振り返っており、どうやら通過した地点にあった何かを確認しているようだった。
 そんな魔鬼の様子を見て狩口は思い出す。
 魔鬼が「あれ?」と言った瞬間のことだ。ヘッドライトの明かりが、只でさえ狭い道の横サイドに何か人影のようなものを捉えたな、と。
 そう思いバックミラー越しに覗いた後方はもう暗く、猛スピードで追い越した誰かの姿はもう見えない。
 知り合いでも居たのかな、と狩口が納得しかけた瞬間、魔鬼が大声で叫んだ。
「狩口さんストップストップ! 止まって下さい!」
「えぇ? そんな急に――」
「いいから止まって!」
「…………」
 あまりに必死な魔鬼の様子に、狩口は静かにブレーキを踏んだ。
 魔鬼がシートベルトを外す中、三桁近いスピードの出ていた車は速度を緩めながらやや長めの停止距離を走り、やがて静かに動きを止めた。
 魔鬼は車が完全に静止したのを確認するなり、バンッと勢いよく扉を開け、そして叫んだ。

「乙瓜ッ!」

「……乙瓜?」
 魔鬼の叫ぶその名に反応し、狩口も車中から後方を振り返る。
 サイドブレーキを引きながら視線を向けた先には、相変らず街灯も民家の明かりもないおどろおどろしい道が広がっており、人影などほぼ完全に見えない。
 だが、数十秒すると。闇の向こうから茫と輝く小さな灯りがこちらに向かってくるのが、確かに見えた。
 ――まさか。狩口は驚き、魔鬼に視線を移す。
 リアウィンドウ越しの自分よりも鮮明にそれの姿を捉えているだろう彼女は、向かってくる誰かに向かって大きく手を振っている。どうやら本当に乙瓜が向かってきているようだった。
 少し嬉しげな魔鬼の姿を見て、狩口は小さく感嘆の声を漏らした。
「あのスピードと視界の悪さの中でよく判別できたわね……」
 そう呟く言葉は、魔鬼には聞こえていないだろう。

 一方、車外。魔鬼の手の振る先には、やはり小型の懐中電灯を持った乙瓜が居た。車へと追いついた乙瓜は、息を切らしながらも「素通りすんなよ」と憤慨していた。
「仕方ないじゃんかーー! 狩口さんやたらすっ飛ばすんだからーーもー!」
「そっか、狩口さんと居たんだっけなお前」
 むくれる魔鬼を見て乙瓜はぼんやりと納得したように呟き、車中の狩口に軽く手を振った。そんな乙瓜を見て、魔鬼はふと思い出した。
「そういえば使い魔届いたか?」
「届いた届いた。……けど出来りゃ今度からは逃げない奴を寄越してくれ、無意味に疲れた」
 乙瓜は少し前の事を思い出したのか、あからさまにうんざりした様子で眉間を抑えた。
 魔鬼は魔鬼で、そんな彼女の様子を見て何か思い当たったのか、大きく溜息を漏らした。
「ああ……。すまん、アレはまだ戦闘以外ではどの程度利用できるか試行錯誤中だから、……とりあえずおつかいにはあんまり向いてなかったってことで……」
 魔鬼はそう言ってガクリと肩を落とした。そんな彼女の様子を見て乙瓜はため息交じりに「そっかぁ」と漏らし、「そういえば」と、思い出したように話題を変えた。
「お前ん所にも水祢の届いたか?」
「ん、こっちにも届いてるよー。それで狩口さんが車出すって言うから向かってた所」
「そっか。俺は一旦遊嬉と合流した所で届いたんだけど、そこで二手に分かれてお前迎えに行く所だったんだ。遊嬉と嶽木はもう眞虚ちゃんの所行ってる。火遠の奴は――ってあいつまた居ねぇじゃん。何処行っちまったんだ……ったく。まァ兎に角、だいたい皆公園前に集まってると思うから、車あるなら俺の事も乗っけてってくんねーか?」
 頼むよ、と車中を覗きこみ手を刷り合わせる乙瓜。
 彼女の向ける熱い視線に気づき、狩口はやれやれと言ったようなジェスチャーをしながら後部ドアの鍵を開ける。
 ロックの外れる音を聞き、乙瓜は喜んで後部座席に乗り込んだ。
「いやー助かった。狩口さんありがとなー、恩に着るぜー!」
「本当にィ? ……じゃあ今度作業場の掃除手伝ってもらおっかなー?」
「それは断る」
「言うと思った」
 車に乗り込むなり親しげな会話を繰り広げる乙瓜と狩口を見て、魔鬼は開けっ放しの助手席のドアを無言で閉め、後部座席の乙瓜の隣へと乗り換えた。
「助手席乗ってたんじゃないのか?」
 キョトンとした様子で問う乙瓜に対し、魔鬼は不機嫌そうなジト目を向けて一言。
「狩口さんの運転怖いから」
 そう言って頬を膨らませる魔鬼と、相変わらず「?」と言った表情で首を傾げる乙瓜。
 狩口はそんな二人の様子をミラー越しに見ながら人知れず笑みを零し、サイドブレーキを下して再び車を発進させた。



 その頃、乙瓜と別れた遊嬉は一足早く現場に到着していた。
 一旦学校に戻り自転車を持ち出してから急行したが、既に水祢の式が届いてから20分以上は経過している。もしかしたらとっくに交戦が始まっているかもしれない。
 そう思った遊嬉だったが、公園前で自転車を停めた彼女が目にしたのは予想外の光景だった。

「どうしてもしなきゃ駄目なんですか!?」
 公園の敷地内から凛とした声が響く。それは眞虚のものだった。
 いつもどこか穏やかな彼女にしては強気な口調だったが間違いない。遊嬉はスタンドを立てるのもそこそこに、声の方向に視線を移した。
 見つめた先、滑り台の向こう側にはやはり眞虚が居た。傍らには杏虎の姿もある。
 彼女らの向かい側には如何にもジャパンホラー代表と云った容姿の女が、これまた如何にもな前傾姿勢で佇んでおり、遊嬉は一瞬で彼女が"ひきこさん"であると把握した。
 眞虚・杏虎と対峙するひきこさんはその体をゆらゆらと小刻みに揺らしており、何とも不気味な様相だ。
 顔面側に垂らした髪の所為で表情が伺えず、それがまた不気味さを倍増させている。
 そんな異様な相手を前にして、眞虚も杏虎も全く怯えた様子はない。
 寧ろずっと「恐がりの知りたがり」だった眞虚の方が杏虎より一歩前に立ち、勇敢な犬のような様子で再び口を開くのだった。
「その子を離して! あなたには関係ないでしょう!?」
 叫ぶ眞虚の視線はひきこさんの足下付近に向かっている。
 遊嬉はその視線に気付き、初めてひきこさんが子供の腕を掴んでいることを知る。そして前傾姿勢の理由と体を揺らしていた意味を悟り戦慄した。

 ひきこさんは。二人と対峙して足を止めて尚、手に掴んだままの子供を地面に擦りつけているのだ。

(なんて化け物……!)
 噂以上に常軌を逸した行動を目の当たりにし、遊嬉は一瞬息を呑む。
 しかしすぐに何かを振り払うように頭を振った後、冷静に子供の様子を窺った。
 ひきこさんに片腕を掴まれたまま地面に伏しているのは、どうやら小学校中学年から高学年程度の少年のようだった。
 半袖の服はもう砂埃にまみれ、所々破けて血が滲んでいる。素肌の部分はそれ以上に痛々しく、特に地面に接する箇所からは赤黒いものが覗いている。
 あまりに凄惨な有様に遊嬉は思わず目を背けそうになるが、すぐにある事に気付きハッとする。
 ――僅かに動いているのだ。ぐったりとしていて殆ど死んでいるように見える彼の腹部が、僅かに上下している。呼吸をしているのだ。
(生きてる――!)
 遊嬉は驚き、そして納得する。眞虚も杏虎も少年の無事を知っている。故に眞虚は彼を解放させようと呼びかけているのだ。
 そして、逆に言えば。少年が生きているからこそ、生きてひきこさんの手の中に在るからこそ。眞虚も杏虎もひきこさんに手を出せないで居る。
 人質。遊嬉の頭には真っ先にその言葉が浮かんだ。そう、あの少年は人質なのだ。
 ――卑劣な手を。そう思い遊嬉は舌打ちした。だがしかし、だからとていつまでも指を銜えて見ているわけにも行かない。
 幸か不幸か、眞虚たちもひきこさんも遊嬉の事など眼中になく、到着したことにすら気付いていない様子だ。
 遊嬉はそれを良いことに一旦門柱の影に身を隠し、様子を窺いながら策を練る事にした。
(……まずはあの子供をひきこさんから引き離さなきゃいけない……ね。となると一瞬だけひきこさんの注意を別の場所に向かわせて、その隙に誰かがあの子を助ける、って感じになるんだろうけど、上手くいくかなぁ?)
 遊嬉は再び眞虚たちに視線を向かわせた。
 ひきこさんに気付かれていないのはいいが、作戦を立てる上で彼女たちにも気付かれていないというのはネックだ。これじゃ連携も何もあったもんじゃないと、遊嬉はまた小さく舌打ちした。
 そんな彼女の肩にポンと手が置かれると同時、誰かが耳元でこう囁いた。
「大丈夫遊嬉ちゃん。良い方法があるよ」
 その声の主が嶽木であることは、振り返るまでもなく明らかだった。遊嬉は僅かに顔を上げ、視線そのまま口を開いた。
「……その方法って?」
 独り言よりも小さな声に、しかし背後の嶽木は即座に反応して答える。
「今は引っ込んでるみたいだけど、あっちには水祢がついてるだろ? そこに向かっておれが思念を送るから、経由して眞虚ちゃんに遊嬉ちゃんの思ってることを伝えるんだ。……大丈夫、契約者同士なら言葉に出さなくても意思を通じさせる事が出来る。ひきこさんに漏れることはない」
 背後の気配はそう言ってにやりと笑った・・・・・・・。それは目で見なくとも遊嬉には解った。
 きっと今の嶽木は火遠みたいな顔をしていることだろう。それを想像し、遊嬉もまた緩く口角を吊り上げた。――なるほどそんな方法もあるのか、と。
 新しい悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべながら、遊嬉はそっと口を開いた。
「わかったよ、じゃあお願い」
「――了解」
 嶽木はそう言うと、ほんの少しだけ黙った。いつものように引っ込んだ・・・・・わけではなく、気配は依然としてそこに在る。僅かな息づかいも聞こえる。
 少しの間だけ妙な沈黙が流れた。遊嬉の居るこちらも、眞虚達のあちらも静まりかえっている。
 だが、遊嬉が向けたままの視線の先で、一瞬だけ。一瞬だけ、眞虚がこちらに視線を向けたのを、遊嬉は見逃さなかった。
 それと同時に嶽木が口を開く。「伝わったよ」と。
「水祢の奴は幾分か機嫌を悪くしたみたいだけどねー」
「……? なんでさ?」
「なんでだっていいじゃないかそんな事。さて――」
 そう言って嶽木は遊嬉の顔をのぞき込んだ。夜闇の中で淡く輝く翡翠の双眸の中心には、遊嬉の顔がくっきりと映し出されている。
「作戦の段取りはこうだよ遊嬉ちゃん。30秒後、君はここから出来るだけ目立つように・・・・・・・・・・・してひきこさんに突進する。で、ひきこさんが気を奪われている間に眞虚ちゃんたちはあの男の子を救出する。わかったね?」
「えっ、あ、あたしがやるのォ?」
「そうだよ」
 にこりと笑う嶽木に、しかし遊嬉は困惑を隠せないでいた。
 確かにどうにかしてひきこさんの注意の矛先を変えようとは思っていたが、その具体的な方法までは考えていなかった。ましてや自分が囮になるだなんて。
(出来なくはない……けど、完全に想定外だよ!?)
 そんな風に戸惑う遊嬉を見ながら嶽木は悪戯っ子のようにクスリと笑い、静かにこう囁いた。
「だって遊嬉ちゃん言い出しっぺじゃないか。大丈夫、遊嬉ちゃん強い子でしょ。トラックにだって勝てたんだからひきこさんくらいどってことないって。……それに、もうそこまで来てる」
「大丈夫ってそんな――……何が来てるって?」
「なんでもないよ。それ、時間だ!」
 行ってこいとばかりに強く背中を叩かれ、遊嬉はよろめきながら門柱の影から踊り出た。
 叩かれた瞬間に思わず「うわっ」という声を上げてしまったため、自然とその場の注目を集める形になってしまう。
 ゆっくりと振り向いたひきこさんの、長い髪の間から覗いた目ははっきりと遊嬉の姿を捉えており、今更後に引くわけには行かない。
 嶽木の言う「そこまで来てる」の意味も気になるが、今はそんな事に脳みそのリソースを裂いている場合ではない。遊嬉は覚悟を決めた。

「願いましては四の五の双つ! 退魔宝具・崩魔刀!」

 走り出し、叫ぶ手の中に火柱が生じ、一瞬の後にそれは刀の形として構築される。
 退魔宝具・崩魔刀。その姿は以前と少しだけ変わり、頭の部分から金色の房のような飾りが生えている。
 遊嬉はそれを態と大きく振りかぶり、雄叫びを上げながらひきこさん目掛けて突進していく。態と、目立つように。
 目論見通り、ひきこさんの目は完全に遊嬉に向いていた。
 突如現れた日本刀の娘に対し、ぎこちなくではあるが両手・・を構える。その手の中に子供の姿はない。
 あまりにもすんなりと行ってしまい、遊嬉は思わず笑いがこみ上げてくるのを堪えきれなかった。
まんまと嵌められたね・・・・・・・・・・、マヌケめっ!」

 煽るような遊嬉の叫びに事態を察したらしく、ひきこさんはギョロリとした目を更に見開いて足下を見遣るが、もう遅い。
 血痕などの痕跡はあるものの、数秒前まで転がっていた筈の少年の姿はどこにも見当たらない。
 そんな筈はないとでも言いたげに、ひきこさんは焦った様子で辺りを見渡しはじめた。
 滑り台、砂場、鉄棒、タイヤと、次々に遊具に目を遣るが、そのどこにも少年の姿はない。
 ひきこさんは明らかに狼狽した様子だった。気が付けば向かってきていた少女も姿を消している。
 信じられないと言った様子で呆然と立ち尽くす彼女に向かって、一つの声が投げかけられた。
「……見つからない? ここだよ?」
 勝ち誇ったような声。それは彼女の背後から聞こえていた。ひきこさんが勢いよく振り返ると、そこには傷だらけの少年と、彼を何とか抱えて立つ小柄な少女――眞虚が居た。
「意識のない人を抱えて瞬時に逃げられるわけないよ。視界が悪いのが徒になったみたいだね」
 そんな種明かしを聞いて、ひきこさんの顔はみるみる内に驚愕から怒りの表情へ変わっていった。裂けた口がバックリと開き、声にならない雄叫びを上げながら悔しがっているようだった。
 一通り獣のような声で吼えた後、ひきこさんは嗄れた声でこう叫んだ。
「おまえら、絶対、ころ、ブッ殺すッ!!」
 殺意の目を向け掴みかかろうとするひきこさんに対し、眞虚は静かな口調で告げた。

「駄目。人質が居なくなった時点であなたの負けだよ」

 負け惜しみを! ひきこさんがそう叫ぼうとした時、眞虚よりも更に向こう側の闇で何かが光った。
 赤と青、二つの光。ハッとして目を凝らすひきこさんが見たものは、己に向かって矢を番える者と、いつでも飛びかかれる体勢のまま刀を向ける者。杏虎と遊嬉の姿だった。
 もし目の前の少女に手を出そうものなら、彼女らが弾丸より早く自分を仕留めにかかるだろう。
 本能的にそう判断し、ひきこさんは眞虚に向けて伸ばしかけた手を引っ込めた。
 その隙に、眞虚は少年を抱えたままゆっくりと後退する。折角の獲物が遠ざかっていくのをみすみす見逃す形となり、ひきこさんはギリと奥歯を鳴らした。
 ひきこさんは考えた。
 自分の邪魔をするこの珍妙な女学生たちが何者なのかは知らないが、恐らく純粋な力比べならば自分に勝る者はいないだろう。目の前の子供達は一応人間のようではあるので、怪力でもって殴り飛ばせば勝てるのではないか、と。
 だが、かといって自分にはほぼ一瞬で目の前の三者を倒せる敏捷性はないので、一人目に襲いかかった所で誰かの反撃を受けるのは必至。あの玩具のような珍妙な武装にどれほどの殺傷力があるかは知らないが、万が一致命傷に至るようなことがあってはいけない。

 ――倒される? 冗談じゃない。自分は捜さなくてはならないのだ。……しかしおめおめと逃がしてくれそうな様子もない。

 ひきこさんは恨めしそうな目で眞虚達を睨み付けた。
 なんとなくだが、彼女には予感がしていた。逃げた所でこのゴーストバスターもどきたちは自分を逃がしちゃくれない、そんな予感が。
 実際その予感は当たっていた。全員に招集を掛けた時点で、眞虚は今日中にひきこさんを叩くつもりでいた。
 恐らくそれは杏虎も遊嬉も同じ気持ちだろう。見敵必殺、逃がすつもりなど更々無い。
 遊嬉も杏虎もいつでも攻撃を仕掛けられたし、一見無防備に見える眞虚もその気になった瞬間に結界を展開できる準備で居た。
 それでも攻撃に転じなかったのは、単に負傷した少年をひきこさんから遠ざけることを優先したからに他ならない。

 ほんの少しだけ間があった。時間にして1分足らずの短い間だ。張りつめた沈黙が場を満たす中、あまり力のある方ではない眞虚が少年を連れてゆっくりと後退するザッザッという音に混じり、遠くの道路を走る自動車のエンジン音が幽かに響いていた。
 そんな状況下で、両者は奇しくも同じ事を考えていた。

 いつまでもこうしているわけにはいかない、と。

 そして、眞虚が杏虎と遊嬉より更に後退した瞬間。遊嬉が地を蹴り、杏虎が矢を放ち、ひきこさんが全力でその場からの逃走を開始しようとした、まさにその瞬間。

「!?」
 突如として起こった眩い光が暗い公園を明るく照らし出す。その場にいた全員は一様に驚き、光源に向かって顔を向ける。
 一体何事か。美術部・ひきこさん問わず誰もがそう思い見遣った公園の入り口には、いつの間にか一台の軽自動車が止まり、こちらに向けてハイビームを照射している。
「はぁ? 何あの車ッ!?」
 思わず遊嬉が叫んだ先、光源の向こうの後部座席から二人の人影が降り立つ。
 ドアを閉める音と共に「おーい」と呼びかける逆光の人物の声は、どうやら乙瓜と魔鬼のようだった。
「魔鬼ちゃんと、乙瓜ちゃん……なの?」
 吃驚したように問う眞虚に、件の人影は手を振って応じる。
「やっほー眞虚ちゃーん。みんな無事かー? 無事だなー?」
「助けはー……なんだ、別にいらねーか」
 やけにのんびりした調子の二人に眞虚たちが呆然としていると、不意にハイビームの光が消えた。そしてバタンとドアが閉まる音と共に、車の持ち主である狩口がその姿を現した。
 眞虚たちは初めて見る彼女に対し「誰?」という視線を送るが、次の瞬間その顔をよくよく認識すると同時に目を剥いた。

 耳元まで大きく裂けた口。世間からはほぼ忘れ去られたような存在であるが、心霊やオカルトの類に興味がある者なら一度くらいはその名を聞いたことのある存在。
「口裂け女!?」
 そう叫んだのは遊嬉だった。
 指さす勢いで狩口を見る遊嬉は、あまりにもイメージ通りの口裂け女が出現したことに驚き、大層興奮した様子だった。眞虚・杏虎の二人も、叫びこそしないものの同じような表情を浮かべている。
 そんな彼女らの反応を余所に、狩口の視線は真っ直ぐにひきこさんへ向けられていた。
 そしてひきこさんもまた狩口に対し睨み付けるような視線を送っている。
「梢、さん……」
 どこか恨めしそうなひきこさんの言葉を受けながら、狩口はおもむろにシュシュを外し、肩から前へ垂らしていた長い髪を背中側へと流した。
 自由になったその髪は、丁度ひきこさんの髪と同じくらいの長さだった。
 そんな長い黒髪を緩やかな夜風に靡かせながら、狩口は静かに口を開いた。
「……やぁっと見つけたわぁ」
 狩口の双眸が金色に輝き、裂けた口が更につり上がる。
 そんな、世にも恐ろしい笑顔を浮かべながら。彼女はひきこさんにこう告げた。

「えっとねえ、燈見子ひみこちゃん。……いい加減覚悟は出来てるんでしょうねえ?」

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