怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート⑥

 イーと歯を剥き、乙瓜が武器を振りかざしたその刹那。屋上を、否、北中の敷地内を取り囲む空気がビリビリと震えた。
 比喩ではない。錯覚でもない。まるで電流が走るかのように、恐怖に震えおののくように。空気そのものが震えているのだ。不快に、不吉に、不可解に。
 事実、その不気味な感覚は火遠や七瓜のみならず、屋上の扉一枚隔てた向こうに待機している花子さんにも、校舎内に留まった美術部各員にも、そして何も知らずに練習に勤しんでいた体育館や校庭・武道館の生徒たちにも、当然教師たちにも伝わっていた。
 多くの者は地震が来たのかと慌てふためき、何人かはいや違うと身構え、そして更に少ない事情を知る者――美術部と学校妖怪たちは思った。始まったのだ、と。
 一瞬にして北中を震撼させたその感覚の元凶は、言うまでも無く乙瓜の手の中にある長物ながものだった。
 葬魔槍そうまそう長柄ながえ武器の性質を持つ紺青こんじょうの退魔宝具。『矛』『槍』またはそれに類するあまねくものの形を取り、魔に類するものを――嘉乃に敵対する全てのものを打ち滅ぼす凶事まがごとの槍。
 所持者の怨嗟に同調するように禍々しく尖ったその穂先に万物は怯え、寒気立ち、やがて耐え切れなくなったものから崩壊する――!
 バリンと砕ける硝子の音が連鎖する。直に触れられてすら居ないのに。校舎中の窓硝子は次々と砕け散り、あちらこちらから悲鳴が上がる。
 音楽室から、パソコン室から、美術室や職員室、超えて体育館からも。重なる悲鳴の大合唱の中、乙瓜はしき槍の穂先を火遠へと向け、力強く足下のコンクリートを蹴った。
「さあ! ぼんやりとしている暇はないぞ火遠! 僕の【三日月】を潰すつもりなんだろう? この学校と人間どもを救うつもりなんだろう? それとも僕にこのまま降伏してくれるのかい!?」
「……っ、誰がッ!」
 弾丸のような……というより、もはやサイルのような初撃をかわし、火遠はしかし、と舌打ちする。
 彼の前に立つのは"烏貝乙瓜"だ。例え中身が曲月嘉乃だったとしても、その身体は紛れも無く烏貝乙瓜本人のものなのだ。
 今から約二年前の五月、火遠は彼女と契約を交わした。その契約の中で『身辺の安全を保障する』と誓ってしまった以上、火遠から乙瓜に手出しする事は出来ない。……かといっていつぞやの要求通りに契約を無効としてしまえば、記憶も何も奪われてしまったあの状態の乙瓜を辛うじて『乙瓜』として繋ぎ止めている最後の一線は、恐らく崩壊する。
 体勢を立て直しつつある乙瓜に注意を向けつつ、火遠はチラリと七瓜を見た。救いたいの姿をしたものに戸惑いながらも傘を剣へと変えるその姿を目に、火遠は唇の内側をぐっと噛んだ。
(感情を差っ引いても攻撃できない、攻撃するために契約を解けば乙瓜を失う……! 嘉乃め……!)
 僅かな焦燥を胸に、彼は背後に向けて後ろ手に手を伸ばす。
(遊嬉、一旦返してもらうよ)
 念話ではない。心の中の独り言だ。その届かぬ断りの後、柄を大きくくるりと回して屋上の床を切り裂きつつ向かってくる乙瓜を見据え、火遠は叫んだ。

「来いッ! 崩魔刀!!」

 始まりの夜と同じ言葉を。あの日と同じく烏貝乙瓜に向けて。あの日と同じく炎を産み、その形を大鎌へと変じさせて。
「嬉しいねえ。やっと戦う気になってくれたワケだ!」
 乙瓜が笑う。心底嬉しそうな顔で。
「…………!」
 火遠は口を閉ざす。辛さと覚悟の同居する顔で。
 青と赤の柄が宙にくるりと弧を描く。とても素早く、美しく。
 そうして二つの退魔宝具の刃金はがねと刃金がぶつかり合い、重く鋭い音を引き連れて火花が散った。
 そこから始まる二人の攻防。最早もはや常人には何がどうなっているかすら分からない激しいせめぎ合いの傍らで、七瓜は剣を構えたままその場を動けないでいた。
 こうなる可能性はとっくの昔にアルミレーナが指摘していた。乙瓜が【月喰の影】の手に堕ちてからここ二週間ばかしの間に相応の覚悟を決めて来た筈だった。……けれど足が動かないのだ。
(火遠さんから乙瓜を攻撃する事は出来ない……私が割って入らないといけない、でも……っ!)
 僅かな迷いが七瓜の足をその場に縛り付けて離さない。その様を見て初手の攻撃以降不動の亜璃紗はうふふと笑う。せせら笑う。
「あの時の勇ましさはどこへ行ったのやらですわ。貴女がそんな有様では、わたくしの術は必要ありませんでしたわね」
「……黙って……、黙りなさい……っ!」
 攻撃の構えも防御の構えも見せず余裕に微笑む亜璃紗を睨み、七瓜は己を奮い立たせるように声を上げた。それから剣を握る手に力を込め直し、スッと目を瞑る。
(こういう事だったのね。こういう運命だったのね。……異さん)
 一瞬だけ。いつか告げられた予言に思いを馳せ、七瓜は再び目を見開く。そして呟くように小さく唱えるのだ。
赤い靴が運ぶ死の舞踏ダンス・ディアーブルージュ
 魔女ヘンゼリーゼから彼女に貸し与えられた最後の魔法。身体強化の魔法。そこに定められた魔法の名。それを口ずさんだ直後、石のように固まっていた七瓜の身体は動き出す――!
 軽やかに。羽のように。せき止められていた時が動き出したように。七瓜の両足は俊敏にコンクリートの地面を駆り、己を軽く見る亜璃紗目がけて剣を振るう。
 躊躇ちゅうちょなく。迷いなく。喉首に向かう赤銅色の刃を、しかし亜璃紗は「あら」と一言華麗に躱す。とても着物を着込んでいるとは思えない身のこなしで。下駄を履いているとは思えない足捌きフットワークで。
 下駄底を鳴らしてタン、タンと飛び退すさり、三度目の跳躍ちょうやくと共に袂から三本のくないを取り出し放つ。
 ヒュッと宙を切る黒い鋼。その鋭い先端が七瓜の身体に到達するまで数秒も無い。だが強化の魔法の中にある七瓜は剣を地に刺し、それをバネ替わりに蹴り右へ大きく跳んだ。0コンマの時間の後、カツカツとコンクリートに刺さるくないたち。
「あらあらあら。御上手御上手」
 亜璃紗は表情を大きく崩さないまま、けれどほんの僅かな感情の揺らめきを隠せないようにピクリと眉を動かすと、次の一手とばかりに幾枚もの護符を取り出した。
「今日の貴女……影がありますわね」
 ニヤリとして目を細める彼女が放とうとしている術が"影縫い"であろうことは想像に難くない。七瓜はまずいとばかりに反応し、しかしすぐにさせないとばかりに眉を寄せ。踏み台にした剣を再び抜き、続け様に大きく振るった。
 宙に向けて、その先で護符を放とうとする亜璃紗に向けて。
「思う通りになると思って!?」
 七瓜の叫びと共に刃は空を斬る。だがそれは空振りに非ず。からの斬撃は衝撃波へと転じ、まさかとあからさまな驚愕を浮かべる亜璃紗目がけて一直線に向かって行く。
「くっ」
 そこで初めて亜璃紗は余裕を欠いた声を漏らした。しかし彼女の判断力はまだ死んでいない。攻撃に向けるつもりだった護符を全てその場に破棄し、素早く取り出すのは盾の護符。
 それらが亜璃紗の手から離れるのと衝撃波が直撃するのはほぼ同時。削ぎきれなかった破壊の力は亜璃紗の身体を後方に吹き飛ばす。その距離数メートル。僅かに数メートル、されども数メートル。猛烈な突風を突然浴びたのと同等の衝撃は、彼の影女にも少なからぬダメージを与えた。
 とはいえ致命傷には遠く及ばない。精々数秒の間足を止める程度だ。だがしかし、だがしかし。それで十分なのだ。少なくとも、七瓜にとっては。
 衝撃と共に舞い上がった、長い間コンクリートの溝に堆積たいせきしていた砂埃。半径数メートルを覆うその煙をかき分けて、烏貝七瓜が現れる。
 突撃。剣を構えて。斬りかかれる体制で。攻撃の護符を棄て、守りの護符も全て相殺させ、一瞬動きを止めた彼女目がけて。
「――!」
 言葉も無く目を剥く亜璃紗に、七瓜は言う。剣を振り下ろしながら。
「前ので分った。あなたの長所は回復力が高い所。だけど――」
 両足を地に、両手を柄に。空に弧を描く赤銅の刃は、真っ直ぐ亜璃紗の首筋に。
 亜璃紗の回復力が尋常でなく高い事は、乙瓜を奪われたあの日、確実に貫いたはずの手に傷一つない事が証明している。半端な傷では回復されてしまう事は明白で、だからこそ七瓜は考えたのだ。当座彼女を遠ざける為の方法を。
 無論誰が証明したわけでもない。それは半ば賭けだ。しかし剣を握り直したその瞬間から、七瓜はそれだけ・・・・を狙って動いていた。初めから。そう即ち――

「首を絶たれたらどうなるのかしら!?」

 雄叫びにも似た問いと共に亜璃紗の身体から離れる生首、一瞬遅れ噴水のように噴き出す黒い血。その血を全身に浴びながら肩で息をする七瓜を、生首はギロリと睨んで負け惜しむように言う。「成程ですわね」と。
「確かに首と体を絶たれたら幾ら私とてどうしようもありませんわ。……完敗です。お見事ですわ」
 糸の切れた人形のように倒れ込む胴体と、幾らか離れてゴトリと落ちる生首。七瓜はそれを一瞥し、亜璃紗にくるりと背を向ける。
「とどめを差しては行きませんの?」
 亜璃紗が言う。生首の癖にどこか偉そうに。七瓜はそんな無様な彼女をチラリとだけ振り返り、ギロリと睨んでこう告げた。
「あなたと戦ってる暇はないの」
 言って、火花と火花ぶつかり合わせる彼ら・・の元へ向かう七瓜を見上げ、生首はあらあらと笑う。あざけるように。
「私はもう用済みという事ですの? 冷たいんですわね。こんな体にされて私、もう観客をするしかないじゃないですか。どう責任を取って下さるおつもりで?」
 くす、くすと。煽る女の言葉を背に、七瓜は剣を握り直し、そして叫ぶのだ。

「乙瓜!」

 そう。乙瓜、と。彼女の妹の名を。妹であって妹でなく、確かに友達であった筈の存在の名を。
 張り上げた彼女の言葉に、それ・・は振り返る。乙瓜の顔で。その内に乙瓜でないものを潜ませて。
 攻撃に転じる事の出来ない火遠を甚振いたぶるように攻め続けていたそれ・・は攻撃の手を一旦ぴたりと止め、の名を呼ぶ者をおもむろに振り返り、ふっと笑う。
「亜璃紗を倒したのかい。君もやるねえ」
 味方を倒されたというのに大して意にも介していない様子で。寧ろ嬉しそうに。
 無邪気にも非情な態度のそれ・・を見て、七瓜もまたふわりと笑った。同じ顔で。けれどもまるで違う感情を秘めた顔で。
(乙瓜。私はね――)
 微笑み思いだす事は、あの日帰った、ずっと帰りたかった自分の家。自分の家、けれどももう自分の場所ではない家。知っている家族と、その中で色々な形で愛されている自分の知らない『乙瓜』という一人の人間の姿。
 この二週間ばかり、『七瓜』ではなく『乙瓜』として生きて分かった事。それを胸に、七瓜は乙瓜・・に剣を向ける。
 忽ち怪訝な表情を浮かべる乙瓜と、何かに気づいたように顔色を変える火遠。
「……待て七瓜、君は――」
 はやまるなとばかりに声を上げる彼の言葉には耳を貸さず七瓜は言った。確かに言った。
 乙瓜に向けて。彼女を操る曲月嘉乃ではなく、その片隅に何かが残っている可能性だけを信じて。

「――来なさい。火遠さんを倒す前に……お姉ちゃんが遊んであげるわ」

 そう。を、救うために。

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