怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート③

 日は静かに地平線の向こうへと沈み、暗い暗い夜が来る。
 昨日と同じ夜。しかし昨日とは違う夜。
 その宵闇の下自宅へ向けて自転車を押しながら、魔鬼は何度目とも知れない溜息を吐いた。
 あれから――美術室での集まりは下校時刻の訪れと共にお開きとなった。片付けは学校妖怪や丙らでやっておくからと、半ば追い出されるように学校を後にした魔鬼ら学生は、どこか釈然としない気持ちを抱えたままに各々の帰路に就くこととなったのだった。
 星の見えない曇った夜空の下、古霊町を走るそれぞれの自宅への道。その道の上に、烏貝乙瓜だけが居ない。
 だけども、それが正解だ。彼女は元々存在していなかったのだから。今夜烏貝家に帰るのは、丙の術式で失った影の部分を補強した烏貝七瓜。本来あの家に帰るべき存在が、そして心の底からあの家に帰りたいと望んでいた存在が。『乙瓜』としてだが漸く念願の帰還を果たすのだ。それは喜ばしい事なのかもしれない。……けれども魔鬼は思う。けれども、それはやはり間違っているのだと。
 それは決してひがみからではない。……七瓜が過去にした事を心のどこかでまだ許せていないかと言われれば、それは魔鬼にもわからないが――しかしその気持ちが七瓜に近くに居てほしくない、乙瓜の場所を取られたくないといったところから来るのかと自問すれば、それはやはり違うのだ。
 魔鬼にはその理由がわからなかった。……けれども、心のどこかで、或いは頭の中の本能的な部分で。本当は、わかっていた。理解していた。
 ほんの単純な事なのだ。彼女らが別れた数年の時間は、乙瓜と七瓜を残酷なまでに別の人間へと変えてしまった。経験も、記憶と伴う感情も、友人関係も。小学五年生のあの日を境として、彼女らの人生は見事に分岐してしまったのである。……だから今更七瓜が己の在るべき場所に帰ったところで、何もかもが以前と同じようには戻れない。

 足掻いても、足掻いても。彼女は既に、周囲の知る『烏貝家の娘』とは全く別の存在なのだから。

(これから一体どうなるんだろう……。乙瓜は……無事にまた会えるかな……)
 街灯も疎らな寂しい道を行きながら、魔鬼はただ親友の無事を願っていた。

 同じ頃、烏貝七瓜もまた溜息を吐いていた。
 数年ぶりの我が家。ずっと帰りたかった場所。その玄関を開けて「ただいま」を言う、それだけの事にたっぷり数分の時間を使ってしまった彼女は、かつてと同じようにそこに居た祖父母にほんの少し怪訝な目を向けられながら、知らぬ間に増築されていた『自室』へ入り、そのままへたり込んだのだった。
「すっかり変わっちゃったわね……」
 溜息の後そう呟きながら見遣った室内は、七瓜の全く知らない場所で。勉強机や以前集めていた漫画の単行本など、知っているといえば知っているものもあるのだが、部屋の半分近くを占めるベッドや、その上に雑に置かれた何が可愛いのかいまいちわからないぬいぐるみと片付けられていない携帯ゲーム機などが、ここが自分の場所ではない・・・・・・・・・事をまざまざと見せつけているようで。……七瓜は改めて落ち込むのだった。
(騒ぎになるだろうから私が帰れって、丙さんは言ったけれど……。やっぱりもうここは私の家であって私の家じゃないんだわ……)
 あれほど見て欲しかった・・・・・・・家族に再びその姿を認めてもらえるのは嬉しい事だ。しかし、その家族の中でここ数年の内に家族の一員として認められている娘は最早自分ではなく、よく似た他人だ。……自分ではない。
 たった一度の帰宅でどうしようもないくらいにそれを実感してしまい。七瓜は学校を出る前に与えられた北中制服のスカートをぐしゃりと握った。
 その視線を落とす床に広がる仮の影とて永遠ではない。日に一度丙と会って術式を張り直す必要がある。それを思い出してまた溜息を零し、ゆっくりと立ち上がり。七瓜は肩にかけたままの荷物をベッド脇へとそっと下ろした。
 ぽすんと情けない音を立てて床に倒れるスポーツバッグを見て、七瓜は思う。思い浮かべる。
(あの人――異さんって言ったかしら。乙瓜の友達だって言う)
 同学年にしては不思議な雰囲気を纏ったあの少女の姿を。帰り際、乙瓜が残して行った荷物と自転車の鍵を自分に手渡しながら、どこか意味深な言葉を吐いた彼女の瞳を、表情を。

 ――七瓜さん……いや、同学年だし七瓜ちゃんかな。君はいずれいっちゃん、乙瓜ちゃんと戦う事になる。……なってしまう。ぼくはそれを防ぎたかったけど……。

 未来が視えると語った彼女の残した不吉な予言。己の内側に深く突き刺さった視えざる杭。
(乙瓜と戦う事になる。…………それは恐らく乙瓜がただでは帰ってこないということで、私はどうすれば……)
 七瓜は重力に従うようにベッドに倒れ込み、仰向けになって白い天井を見上げた。祖父母のいずれかが先に点けたのか、或いは今朝乙瓜が消し忘れたのか。天井には蛍光灯の明かりがまばゆく輝いている。普段、七瓜の存在を掻き消す忌まわしき光。だが丙の術式によって一次的に影の部分を補われている今の七瓜は、その光に己の姿を掻き消される事無くここに在る。
 それはずっと望んでいた事。喜ぶべき事の筈なのに、今の七瓜には全く嬉しく感じられなかった。……帰れないと気づいてしまったから。望んでいたあの頃のあのままの生活には、どう足掻いたって。
 全てはもうすっかり乙瓜のもので。悔しいけれど、乙瓜のもので。そこに居るべき筈なのは、既に七瓜じぶんではなく乙瓜なのだ。
「分かってるつもりだったんだけどなぁ。分かった上で、……あの時は取り戻すつもりだったんだけどなぁ。…………無理だよ。もう、別の人間だもん。戻れないよ……!」
 天井に放った独り言が震え、視界は涙でぐにゃりと歪む。
「……もうあれ以上涙なんて出ないと思ってた」
 夕方にあれだけ泣いたのにまだ泣けるのかと自嘲する。そんな七瓜の近くで、何かが機械的な音を立てた。
 ブーンと振動音。ケータイのバイブレーション。驚き、涙を拭いながら身体を起こした七瓜は、丁度今まで頭を置いていた場所のすぐ横に見慣れぬケータイ――何処かからの着信に震える乙瓜のケータイを見つけた。恐らく昨夜か今朝に適当に放ったまま置きっぱなしだったのだろう。
 なかなか止まないバイブレーションの発信源に、七瓜は恐る恐る手を伸ばす。他人の私物、それもケータイを勝手に開くという行為に罪悪感を覚えつつ、しかし彼女はその着信に応答せざるを得なかった。今の彼女はあくまで『乙瓜』なのだから。
「……もしもし」
 相手も碌に確認しないまま恐る恐る電話を取り、頼むから知人で会ってくれと願う。そんな七瓜の不安を他所に、スピーカーから帰ってくるのはやけに陽気で、そしてどこかで聞き覚えのある声だった。
『もしもしもしもしー? 出るの遅いよー』
 ほんの少しいじけたように言う、少女の声。それが誰だったか、七瓜が記憶を手繰たぐり寄せる間に、相手は一人勝手に話を進めて行く。
『やあっっと推薦の面接終わったよー。……ていうか乙瓜ぁー、私からの電話何回か無視したっしょ? だめだぞー、そういう姑息な真似はー……って乙瓜、聞いてるぅ? もしもしー?』
「えっ、あ、うん。聞いてる聞いてる」
『そお? ……つかなんか元気なくない? だいじ? まあいいや』
 通話相手は電話口の向こうに居るのが普段話している相手ではないなどとは露知らず、今度また遊びに行くと残して電話を切った。七瓜は完全に相手のペースで終わった会話に呆然とし、それから今まで己が誰と喋っていたのかを確かめるべく、ディスプレイに目を落とす。
 そこには、『烏山蜜香みっか』の文字。隣県に住む一学年上のはとこ・・・の名前がしっかりと表示されている。年代の近い親戚の中では一番仲の良かった、実姉のように慕っていた少女だった。彼女が勝手に喋って行った事から推測するに、未だに『乙瓜』と仲良くしている様子だった。
「推薦の面接って……そっか。蜜姉みつねえももう高校生になっちゃうのね」
 長らく顔を見ていない彼女は、今どんな風になっただろう。会いたいな。――そんな他愛もない事を思い、しかし七瓜はすぐにガクリと頭を下げた。
 ……わかっているのだ。わかってしまった。今現在の蜜香が会いたいのは自分ではない。乙瓜の方なのだと。
(戻ってきてよ乙瓜。あなたが作った私の続きを、私は生きていける自信がないよ……)
 不吉な予言は自分と乙瓜の戦う運命を告げている。けれども七瓜は願った。精一杯願った。乙瓜が無事にこの場所に帰って来れることを。
 そして、自分は――。



「集ったかーい? よーし始めるぞー」
 深夜、教職員もすっかり家路に就いた後の古霊北中生徒会室に集うは、花子さんら普段の裏生徒会メンバーと丁丙ら【灯火】の中心的構成員、アルミレーナや石神三咲ら【青薔薇】からの使者といった錚々そうそうたる顔ぶれであった。
 生徒会室狭しと集まった彼らを見遣り、今宵の会議の主催である丙は机の上に人型の紙をぺたりと置く。それは式神を宿らせた形代かたしろ。形代はひとりでにぴょこりと起き上がると、その紙の身から一筋の光を放った。
「まずは【月喰の影やつら】に関して当方で知り得た最新の情報を映像で共有する。とりあえず見てくれ」
 言って丙が傾注を促す先にはプロジェクター用のスクリーンが下ろされ、その白い布地の上に形代から放たれた光が像を結ぶ。とあるSF作家は充分に発達した科学は魔法と区別がつかないなどと定義したが、逆もまた然りというわけだろうか。式神によって映写された映像は三分程度続き、その場に集う誰もが何も発言しない内に終了した。
「……これは、どういう事かしら」
 暗くなったスクリーンに顔を向けたままに花子さんが言う。丙は式神を回収しながら彼女を見遣り、こう答える。「【灯火うち】で一番の千里眼使いに透視させた【月喰】本部の様子を映像に出力したものさ」と。
 それを聞き、花子さんは表情を険しくした。否、それは花子さんだけではなく、たろさんや闇子さんら裏生徒会常連メンバーもまた同じであり、外部からの初参加であるアルミレーナの視線も険しいものになっていた。
「あの抽象的なものが?」
 静かに、しかし内心苛立ちを秘めた声音でアルミレーナが問う。あんなもの・・・・・しか得られなかったのかと。先の映像はそれほどまでにひどいもの・・・・・であった。
 だが丙は言う。「必要十分な情報じゃあないかい」と。
「一番の術師を使ってあの程度までしか探れなかったのさ。内部の様子も正確な位置も何もかもノイズだらけ、奴らの本部はそれほどまでに複雑な術式で護られてるって事さ。……或いは白薙杏虎あたりならもう少しは視えるかもしれんが、あの虎・・・の出自と末路を考えると、あまり期待しない方がいいだろうなァ。……お前さんも。それとも何か知ってるかい?」
 不意に話を振られ、文字通り机の隅に居た鏡の妖怪・魅玄はびくりと肩を震わせた。
『い、いや、僕なんて下っ端の下っ端、使い捨て構成員だったから何にも知らないって! それに別になんも映そうとしてないんだからね!? 結構前から無理って知ってるし! 捕虜にそこまでしてやる義理とかないし! バレたらぜーったい殺されるし! 今更ッ――』
 言葉と裏腹に図星めいて慌てる彼を見て、丙はやれやれと肩を竦めた。
「まあ、なんでもいいさ。けれど折角拾ってもらった命なわけだ、簡単には捨てるなよ」
 言って丙はどこからともなく新たな形代を取り出し、指の上にちょこんと乗せた。
「というわけで力不足で申し訳ないが、少なくとも今の現状では奴らの本部に殴り込む事は出来ない。だからあちきとしては、奴らの次の行動アクションに烏貝乙瓜奪還の望みを賭けようと思う。やっこさんらもその目的上、いつまでもこちらから手出しの出来ない安全な場所に籠城しちゃ居られないだろうしなァ」
「次の作戦……」
 花子さんがポツリと呟く。アンナの残した『次の作戦』、その言葉を。再来の予告を。
 丙はそんな彼女に「ああ」と頷き、指の上で遊ばせていた形代を先のものと同じように机の上へと下ろした。
「奴らは来る。必ずもう一度現れる。防御術式を完成させられたのは不幸中の幸いだった。けれどもこの状況下で奴らからの次の接触と要求があるとすれば――」
 ふうと息を吐く丙の前で、式神の形代は新たな何かを投影するべく動き出す。
 放つ光がスクリーンへと向かい、皆の視線が再びその場所に戻る中、丙は言う。
「つい一時間程前にあの世郵便局経由で届いた奴だ。送り先は二時間前、S県の某所から――ってことになってるが、当然の如くフェイクだったよ。そんで肝心の内容がこれ」
 ふざけてるよな。うんざりと丙が腕組みする先、スクリーン上には一枚の手紙が大きく映し出されている。

『烏貝乙瓜の身柄は確かに預かった。当方の拠点について余計な詮索はせず、且つ防御術式の解除を約束するならば無事に帰そう。取引の日時は後日改めて連絡する』

 短く、そして概ね予想していた通りの文面。終わりを結ぶ三日月型のシンボルマーク。【月喰の影】からの、謂わば脅迫状。
 大なり小なりざわめく裏生徒会らの意見を代表するように、アルミレーナは小さく呟く。
「……ふざけてるわね」
「な? そうだろ」
 丙は小さく頷き、再び形代を回収すると、そのままスタスタと生徒会室を後にした。
 ガラリと開いた扉の向こう、非常灯の赤と緑がぼんやりと照らす廊下の壁には、夕方以来どことなく消沈したままの火遠が寄りかかっていた。
「お前落ち込みだすと際限なく落ち込めるなァ。いつもはそんなキャラでもないだろーに」
「……師匠が落ち込まなさすぎるだけですよ」
 呆れた調子の丙にいじけたようにそう返し、火遠はプイと顔を背けた。子供のように。
「なっさけねえぞぉ坊よぅ。それとも玉織になんか言われたか?」
「玉織は関係ないじゃあないですか」
「何を言うかい、仲間じゃあないか」
 苦笑いし、丙は火遠の対面の壁に背を預けた。
 そうしてふと目を遣った廊下の果てでは、特に破壊し尽くされた調理室を駆け巡るなにか――以前遣わした修理屋ではなく、「責任の一端は自分にもあるから」と修復を任されて行ったエーンリッヒが呼び出した何者か・・・の気配が蠢き、時折呻き声とも唸り声とも付かない不気味な声が漏れ出ている。
 その様に一時意識を向け、少なからぬ心配をした後、丙は火遠に向き直った。
(こいつも時々こうして抱え込んじまうんだよなあ。出会った時は世間知らずでクソ生意気なボンボンだったくせに、一丁前に真面目気取りよって)
 こんな時にどこか感慨深く思う一方、丙の頭には美術部らを帰した後に火遠が言った言葉が浮かんでいた。

 ――もう、乙瓜の眼につながらない。

(……想像よりも大変な戦い・・になるかもしれんな)
 希望を語った紅い妖怪と猿神がそれぞれ難しい顔で宙を睨む中、深刻な夜は深刻なままに過ぎて行くのだった――。

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