「……あなたたちにはもっと早くきちんと話すべきだったわ。そもそもの経緯を」
嵐の後のような美術室にて、烏貝七瓜は語り出す。その場に集う美術部員……乙瓜だけの抜けた二年生五人と残された一年生六人、己の仲間であるアルミレーナと三咲、火遠らと学校妖怪、そして八尾異の見守る中で。
自分と乙瓜の関係を。『あの雷の日』に至るまでの経緯を。
「私が初めてあの子を視たのは、今から十年くらい前だったと思う」
烏貝七瓜はこの古霊町ではさして珍しくない、祖父母と両親が同居し、二学年上の兄が一人居る家庭に生まれた。稀に家庭内で諍いが起こる事もあったが、近所をして「あの家は……」と密かに噂されるような程でもなく、全国探せばままあるような家庭だった。
そんな別段特筆するところのない家に生まれた七瓜はしかし、他の家族と違う非凡な才能を持っていた。
世間で評価されるところの頭の良さではない。スポーツの成績も平均よりやや劣る程度、絵を描くのは好きだったが他者に非凡なるものを感じさせる程でもない。七瓜にはただ一点、この世のものではないものを視る才能があった。……それも、生きている人間と見分けが付かない程にはっきりと。
特別といえば特別な才能だ。世界広しといえども全人類の殆どが持っていないその才を生まれつき持っている、という事は、ともすれば誇れる事なのかもしれない。
だが、非凡なる才能は時として世間の平均的な人間との間に溝を作る。
言葉を発するようになり周囲には視えざる何かの存在を語りだした七瓜を、家族は『小さな子供特有の思い込みだろう』と捉え、徐々に話半分程度にしか取り合わなくなっていった。
丁度その時期忙しかったのだ。祖父母の畑も、両親の仕事も。先じて保育園に通っていた兄は「こわいはなししないで」と取り合ってくれず、七瓜は幼いながらに疎外感を感じ始めていた。
七瓜はただ、普通に話をしていただけなのだ。怖がらせようとしたわけでもなく、ただ彼女に視えるそのままの世界を話していただけ。……なのに、周囲は真面目に聞いてくれない。嘘や冗談だと思って流してしまう。
それが七瓜には悲しかった。時々遊びに来る祖父の兄である居烏寺の住職と、盆と彼岸の時期だけ来る隣県のはとこだけは七瓜の話を真面目に聞いてくれたものの、いつでも会えるわけではない。
そうして未消化の思いを静かに積もらせ続けたある日、七瓜はそれを視たのだ。
間もなく四歳になる頃の、冬の夕暮れ。
茜色に染まった床の間の影で、七瓜はそれを見つけた。
くっきりと表れたコントラストの影に身を潜めている、黒い何か。
一人で折り紙遊びをしていた七瓜はそれに気付き、そっと近寄る。
恐れはない。そもそもとして幽霊も人間も同じに認識してしまう彼女にとって、それは家の中に居た不思議な何かを確かめるだけのこと。草陰に見つけた天道虫に近付くように、縁側で寛ぐ半野良の猫を撫でに行くように、遊びに来る祖父母や両親の知人に挨拶するように。彼女にとって、それはとても自然なことだった。
「だあれ」
そっと近寄り手を伸ばす。影の中のものは二つの眼をギョロリと向け、七瓜を見、そして同じように手を伸ばしてきた。
その姿が近くなるにつれ、七瓜は「あれ」と不思議に思う。潜んでいるものの姿は、床の間の隅に立てかけてある姿見越しに見る自分によく似ている気がしたからだ。
けれどもその陰影の中に姿見はなく、薄っすらと見える輪郭も鏡の中の自分とは幾らか違う。それは左右が反転していないからなのだが、幼い七瓜はほんの僅かに不思議に感じたくらいで考えるのをやめてしまった。
そうして自分によく似た知らない誰かを見つめている内に、七瓜はふとある事を思った。――これは私の妹だ、と。
ともすればそれは、突飛な発想だったかもしれない。だが、少し前に近所の同い年の子に妹が生まれたのを羨ましく思って親に無茶な頼み事――私も妹か弟がほしい――と駄々をこねていた彼女は、自分とよく似た姿のそれを妹だと思ってしまった。両親が知らない間に産んでいたのだと。末っ子で、まだ生命の誕生に立ちあった事が無く、無知であったが故に。――それを妹と定義してしまった。
あなたは私の妹、と。
それから七瓜は――他者から見て一人の時でも妹に話しかけながら楽しく過ごすようになった。妹は殆ど何の言葉も返してはくれないが、彼女が自分の話を遮る事なく最後まで聞いてくれる事が、七瓜にとってはこの上なく嬉しかったのだ。
その内家族に妹が視えていないと気付くと、存在を疑うではなく「そういう妹なのだ」と一人で納得し、家族の見ていない場所で話すようになった。流石に視えていないものについて話し続けてもまともに取り合ってもらえないと学んでいたのもそうだが、今や妹という理解者を得た七瓜にとって、もう他の家族に理解してもらう事にそこまでの必要性は感じられなかったのだ。
七瓜はその日あった些細な話を殆ど乙瓜にだけ話すようになり、家族や交流のあった近隣の住民には大人しくなったと評されるようになった。保育園に通いだすようになってはじめて"双子"というものの存在を知り、それなら自分と妹もそうなのだろうと思うようになっていった。
仲良くなった何人かの友達にはこっそりと視えざる妹の存在を打ち明けた。大人よりも不思議なものを受け入れやすい彼らは七瓜の話を始めこそ真面目に取り合ったが、年齢が上がり、小学校に通い始めた頃になると、次第に七瓜を「嘘つき」として距離を置くようになった。
結局最後まで付き合ってくれたのは、幸福ヶ森幸呼一人だった。彼女も彼女で本気で信じていたかと言われればそうでもないだろうが、七瓜が鵺鳴峠らに直接的に酷い言葉をかけられるようになってからも普通に接し続けていた。……ある種無関心だったのかもしれないと言われればそうかもしれないが。
その頃になると、妹には名前が付いていた。――『いつか』。いつか皆にも見えますようにと、七瓜の子供らしくもどこか悲しい願いの込められた名前。そんな名を与えられて、始めは無口だった『いつか』もやがて七瓜に語り掛けるようになっていった。
七瓜はそれを別段不思議とは思わなかった。自分の妹なのだし、話すのも当たり前の事なのだから。相変わらず誰にも見えない人間や、人間とは明らかに違う本当に不気味な何かを視て気味悪がられる事があったが、『いつか』が隣で慰めてくれるので辛くはなかった。
「――痛々しい子だって思うでしょう? ……自分でもそう思う。だけど、おかしくても幸福な毎日はずっとは続かなかった」
現在の美術室にて自嘲気味に笑い、七瓜は話を続ける。
「杏虎ちゃんは知ってるでしょ。……小学五年生の、七月の事よ」
夏休み前のある日、七瓜は『いつか』に襲われた。
その頃自室代わりに使っていた床の間でいつものように宿題を終わらせて『いつか』と喋っていた時、唐突にそれは起こったのだった。
「そろそろ私にくれてもいいよね」
囁かされた不可解な言葉と、手に走る鋭い痛み。視認する流血と、妹の手の中のカッターナイフ。
漸く夏の日も沈むかといったその時間。両親はまだ仕事で。祖父は偶々居鴉寺の兄の所へ出かけていて。祖母は回覧板を届けに行っていて、兄はまだ部活から帰っていなかった。
頼れる人間は一人もいない。そんなタイミングを見計らったかのような、信頼していた『いつか』からの攻撃。
七瓜はどうしていいのかわからなくなり、着の身着のまま家から逃げ出した。
その時の彼女には知る由もなかったが、それが丁度リミットだったのだ。彼女に憑いた『いつか』と云う影が、彼女の良き理解者であり続けられる時間の限界。烏貝七瓜と云う人格を知り尽くし――その存在を食らうに至るまでの限界。
七瓜は追われるままに逃げ惑い、気が付けば小学校の前に辿り着いていた。
どれほどの間どこをどう走っていたのか。いつの間にか夜はとっぷりと深く、空には真円になりかけの月が高く輝いていた。
気が付けば、『いつか』は居ない。七瓜は一時安心するが、自覚してしまった夜の闇は恐ろしく、また家族に叱られるのではないかと云う別枠の恐怖も湧いて来る。その時七瓜の目に入ったのは、時折立ち寄る文具店横の電話ボックスだった。
すっかり店仕舞している様子の文具店の横、夜闇の中蛍光灯に照らされて不気味に明るい硝子張りの電話ボックス。
七瓜は恐る恐るそこに入るとつけたままの名札の裏から十円玉を取り出し、電話機に投入した。そして自宅の番号をプッシュしかけ――途中で『別枠の恐怖』に負け、幸呼の自宅にコールした。
「今小学校の前の電話ボックスで……助けてっ!」
よくよく考えてみなくとも不思議な話ではあるが、誰もその瞬間まで七瓜が一人そんな場所に居る事を知らなかった。とっくに家に帰りついていた烏貝家の家族も小学生の娘が夜中に家に居ない事を疑問に思わなかったし、警察にも、幸福ヶ森家含む近隣の家にも連絡を取っていなかったのだ。
決して烏貝家の両親祖父母が変わり者の娘を放置していたからではない。寧ろ平時は門限には厳しいし、外出先で少しでも姿が見えなくなろうものなら大騒ぎするくらいだ。だと云うのに気付かなかったのは、全てこの世ならざる力の成せる業か。
漸く周囲が騒ぎ始めたその頃、七瓜もまた『いつか』に見つかってしまう。
そして何故か開いた学校の門と昇降口超えて、居残り仕事中の教師すら居ないような闇夜の校舎を追いこまれているとも知らずに駆け上がって、駆け上がって。――逃げられないのだと悟って。
――どうしてこんなことをするの。何度目とも知れないその言葉を口にする七瓜に、『いつか』は笑って、只笑って。何も持っていない手を伸ばして、初めて会った日と同じように手を伸ばして。
強く? 軽く? 七瓜はもう覚えていない。確実なのは、その手は七瓜を屋上から突き落としたという事実だけ。
烏貝七瓜は地に堕ちて、『いつか』はその存在を喰らい烏貝乙瓜となった。
七瓜に関する全ての認識をねじ曲げて、自分だけは全てを忘れて、生まれついての人間として。
存在を喰われた七瓜は消滅する筈だった。現世からも、人々の認識からも。
けれども、彼女は。影だけを失くした、だからといって己を喰らった影そのものでもない、中途半端な存在としてこの世に残ってしまったのだ。
光の下では殆ど誰にも認識されない。何かの影の下に入れば漸く居る事に気づいてもらえるが、嘗てのクラスメートも、幸呼も、そして家族さえも彼女を見て「誰?」と言った。「乙瓜じゃない」とも。
……そう。その時七瓜は既に『烏貝七瓜』と言う人間ではなく、精々『乙瓜によく似た誰か』『乙瓜の偽物』へと成り下がっていたのだ。
烏貝七瓜の生きた痕跡はどこにもない。あるけどない。全て乙瓜の人生となってしまっている。家族も、友人も、突っかかって来たクラスメートすらも。全てが今や乙瓜のものだった。……居場所なんてない。守ってくれる大人も、通う学校も、住むところも。彼女は未だ、生きているのに。
絶望があった。形容しがたい絶望があった。その絶望の最中、七瓜は彼女に出会った。――大魔女、ヘンゼリーゼ・エンゲルスフィアに。
「……ヘンゼリーゼは私に住む家と服、食事を与えてくれた。恩人だったわ。いいえ、今でもそう思う。……彼女と出会なければ、私はきっと誰にも知られないまま死んでいた。だから……家族や友人に分かってもらえないのは寂しいけれど、あのままヘンゼリーゼの所で暮らせればいいとおもってた。……けれど」
そこまで言って七瓜は俯き、右手で左腕を抱き寄せた。
「あの日、ヘンゼリーゼは言ったのよ。……このまま影を奪われたままにしておけば、私はいずれ消えてしまうって。――乙瓜を……殺さなくてはいけないって」