怪事捜話
第十九談・籠の中の虜は②

 囁き、亜璃紗は微笑を浮かべる。異と同じ金色の……否。夜空に輝く月の色をした瞳を、あの闇の底・・・・・で見た光と同じ色をした瞳を向けながら。そっと乙瓜の手を掴む。
 しかし乙瓜は抵抗する事無く、月光の瞳に魅せられたようにポツリと呟く。
「お、とう、……」
 雛鳥が親鳥の鳴き声を真似するように。短い言葉を。しかしそれを言ってしまえば乙瓜の中の大事なものが確実に失われるその言葉を。一音一音ゆっくりと。
 だが、乙瓜の唇がそれを紡ぎ終わるより早く、背後の異が声を上げた。
「駄目だ烏貝ちゃん! そうであったとしても君は『烏貝乙瓜』以外の何者でもないッ!」
 さえぎるように叫び、自由にならない腕を睨み。それから咄嗟とっさに左手の力を抜いた。瞬間、シャープペンシルを持ったままの利き手に僅かな空間が生まれ、ペンは重力に従ってコンクリートの地面へと落下する。
 その衝撃でノックボタンのキャップと消しゴムが弾け飛ぶ。と同時、ふたの外れた芯タンクから粉袋を叩いたような煙がボワと上がり、二つのなにか細長いものが亜璃紗に向かって勢いよく飛び出して行った。
「……あら嫌だわ。このに及んで」
 亜璃紗はそれをチラリと見、すくっと立ち上がって声を張る。
杳月はるつき音月おとつき!」
 彼の者たちの名を。呼ぶと同時に二つの影が躍り、亜璃紗に向かう二つのものを押さえつける。
 十五夜杳月、十五夜音月。十二月に退けた【月】の幹部。何かを押さえつけて無言で立ち上がる彼らの手の中には、それぞれ白い獣のようなものがキュウキュウと声を上げてもがいていた。
「学業に使うペンで管狐くだぎつねを飼っているだなんて。不良学生ですわね」
「君たちこそ。学業の場所に部外者が許可なく入り込むなんて、とんだ礼儀知らずだ」
 異は相変わらず動けない体のまま恨めしそうに亜璃紗を睨んだ。それから乙瓜を見つめ、再び「烏貝ちゃん」と叫ぶ。
「確かに君は人間ではないとぼくは言った、けれども今の君は『烏貝乙瓜』として存在する個でもある! その女と同じモノなんかじゃあない!」
「……八尾、さん……」
 乙瓜はハッとして異を見た。そんな彼女の方に手をやり、亜璃紗は言う。
「あらあら、面白い事を言いますのね、異。わたくしたち影の存在を認識している貴女なら知っている筈でしょう? 私たちが切っても切り離せないで繋がった存在であるという事を。一なるに通じる存在であるという事を」
「そうだとしても、そうであったとしても。……『烏貝乙瓜』はぼくの友達なんだ。何が何でも返してもらう」
「その無様に固まった格好のままで?」
「無様ともなんとでも言うがいいさ。ぼくは――」
 異が言いかける最中、再びの破壊音が上方より響く。異は続く言葉を中断し、音のした方向を見上げる。乙瓜も魔鬼も何事かと思いながら顔を上げる。
 そして見る。砕け散る校庭側の調理室の窓硝子と、その中を笑いながら落ちて行く白い女――エーンリッヒによって調理室を追放された葵月あおいづきかずらの姿を。
「調理室……!? 一体何が……」
 魔鬼が愕然と言葉を漏らす中、亜璃紗はニッと目を細めた。それから異に向き直り、袖で口許を隠しながら愉快そうに肩を震わせる。
「――頃合いのようなので、今日のお話はこのくらいで切り上げようと思いますわ。貴女も、そして魔法使いさんも。ずっとそのままじゃお辛いでしょうし」
 言いながら、亜璃紗は魔鬼にも目を向ける。そして未だ歯を食いしばったまま己を睨む事しかできない彼女を嘲笑うようにこう告げる。
「貴女も残念な半端者ですのね。媒介が使えないくらいで反撃すらできないなんて」
「ふ、ふざけんなッ! ……それ以上乙瓜に手出してみろ、腕折ってでもこの術破って噛みついてやるからなッ!?」
「あらお元気な事。そして貴女も変わり者ですこと。盗み聞きでこの子の正体を知って、それでもまだお友達ごっこを続けたいんですの?」
「ごっこなんかじゃない! 今更何者だったとしても、乙瓜は私を助けてくれた、私の友達だ! そうだろ乙瓜!?」
 煽るような亜璃紗の言葉を否定して、魔鬼は叫んだ。刹那、異の放った白い獣を取り押さえていた鬼たちが動く。手の中の獣を握りつぶし、瞬く間に魔鬼と異それぞれの背後に立つと、それ以上余計な事を言わせないとばかりにその口を手で塞いだ。
「あまり琴月様の手をわずら
わせないでいただきたい」
「此度の目的はあくまで烏貝乙瓜の連行である故」
「抵抗さえしなければ貴女きじょらの無事は保証される」
「今日この場限りは、な」
 異を抑える杳月と魔鬼を抑える音月が交互に告げる。魔鬼はそんなのってあるかとばかりに抵抗し、どうにかして口を開いて音月の指に噛みついてやろうとするものの、見た目の細さに反してその力は強く、口を塞ぐ手は一瞬たりとも離れる気配がない。
(ふざけんな、ふざけんなよ……! 乙瓜逃げろ、早く……! 或いはもっと抵抗してくれ……!)
 伝えたい言葉、伝えられない言葉。もがもがともがきながら魔鬼が見つめる先で、地に膝付いたままの乙瓜がぎこちない動きで立ち上がる。
「俺の、友達を――」
「あら。立ち上がる事ができますのね。どうするおつもりですの?」
 興味深そうに目を輝かせる亜璃紗を、乙瓜はキッと睨んだ。そして制服の袖口に手をかける。火遠の護符の宿るその場所に指をかけ、見えざるそれを一気に引き抜いた。
 朱色の星を天にささげる輝く護符。腕の回る限りにそれを召還し、乙瓜は叫んだ。
「離しやがれッ! お嬢様気取り野郎!」
 怒号と共に炸裂する護符。退魔結界陣・銀星ぎんぼし。至近距離から退魔の術を放たれながら、しかし亜璃紗は顔色一つ変えずに元居たフェンスの上へと跳び戻ると、己の袖口に手をやった。
「……嫌ですわ、そんなに怒っては」
 亜璃紗の手の中でくらい光がほとばしる。乙瓜の星の護符はその光を受けて見えざる壁に遮られるように進行方向を変え、明後日の方角に飛び去って行く。亜璃紗にも、そして十五夜兄弟にも。『銀星』の輝きは一つたりとも届くことは無かった。
「なっ……!?」
 驚きに目を見開く乙瓜に、亜璃紗は己の手の中にある護符を見せつけるように掲げた。
「――急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう。対護符式防御符。護符使いの居る場に何の対策も無くやってくる程、私不用心ではなくってよ?」
 尤も、使い捨てですけれど。そう続け、亜璃紗はにんまりと口角を上げた。わざわざ弱点を伝えるのは強者の余裕か。一筋の希望を見せつつもやられてやる気はさらさらないと言った表情で、亜璃紗は言葉を続ける。「もう攻撃しないんですの?」と。
「次の攻撃は有効でしてよ? それとも怖気づいてしまいました?」
「…………その態度じゃ次の手を防ぐ手段も残ってるんだろ」
「どうかしら? ハッタリかもしれなくてよ?」
「……どうだか」
 乙瓜は大きな舌打ちをかました。そんな彼女を見下ろして、亜璃紗は言う。面白おかしそうに。
「仕掛けてこないなら姉妹喧嘩・・・・ごっこも終わりにしましょうか? さあ、乙瓜さん。私たちのお家へ、マガツキ様の元へ帰りましょう」
「断るッ! 帰るも何も俺の家はこの町の烏貝の家だけだ!」
「まあ! 他人から奪った家族でも?」
「……っ」
 奪った家族。その一言のとげに言葉を詰まらせた乙瓜に対し、亜璃紗は言う。追い討つように。
「わかりましたでしょう? 貴女も私と同じ、他者から奪う事で存在を確立するもの。立場も、家族も、友人も。はじめから本当のものなんて一つも無いのですわ」
「ひ、とつ、も……」
「ええ、一つたりとも・・・・・・
 ねっとりと告げ、亜璃紗はフェンスの上より再び乙瓜の目の前へ舞い戻る。乙瓜に反撃の意思があればこれほどの好機はなかったが、しかし彼女の瞳からは既に反抗の意思は失われていた。
 そこに在るのは絶望。思い出した瞬間の混沌とした思考の中すら僅かに在った希望が砕けるのを感じながら、乙瓜は只々立ち尽くした。
 ――はじめから、なにもなかったのだ。
 その背後で、異が何か言いたげにもがく。魔鬼もまた何かを伝えたそう意志を瞳に宿らせるが、彼女らの発言権は拘束者によって封じられてしまっている。
 きっと彼女たちは示し合わせるまでもなく「違う」と叫ぶだろう。だが、その意思が言葉となって乙瓜に届くことは無い。
 故に亜璃紗は誰にも邪魔されることなく己の仕事・・を遂げるのだ。優しい声音で誘い込み、飲み込むように。
「でも、心配は要りませんわ。マガツキ様はいずれ私たちを本物・・にしてくださる。貴女の言う家族も借り物ではなくなり、が本当の家族になれる。その為に」
 言って、亜璃紗は乙瓜を抱きしめた。すっかりと放心してしまった様子の乙瓜は抵抗することなく、その抱擁を受け入れる。
 駄目だ、と魔鬼がもがく。けれど塞がれたままの口から辛うじて漏れるのは意味を成さないうめき声。
(駄目だって、そいつの言葉を受け入れたら……! 駄目なんだよ乙瓜ぁ!)
 半ば涙目になりながらもがく魔鬼を振り返り、琴月亜璃紗は勝ち誇るように目を細める。
「――そういうわけでこの子は私が【月喰】へと連れて行きますわ。今までこの子のお友達を演じて下さってありがとうございます。厚く御礼申し上げますわ?」
 嫌味めいてそう告げられた瞬間、魔鬼の身体がふっと軽くなる。ずっと体を縛り付けていた術が解かれたのだ。
 同時に岩のように口を押さえつけていた音月の手も離れる。もう用はないという事だろうが、魔鬼とてただ大人しく拘束されていたわけではない。例え一瞬であろうとも、ずっとずっとこの機会を待っていた。
「ッ、させるかぁ!!」
 拘束解除に気付くと同時に走り出したその先には、何の反応も示さなくなった乙瓜を抱えてこの場を去ろうとする【月】の使者たちの姿。
 亜璃紗と音月、そして異の口を押えていた杳月。一箇所に集う彼らに殺意にも似た感情を向け、魔鬼はスカートのポケットから十五センチ定規を取り出した。

 そもそもとして彼女がこの場所に居たのは偶然ではない。
 その日の五時間目・図書室での自習中に幸福ヶ森幸呼と交わした不可解な遣り取りが引っかかった魔鬼は、幸呼の真意を確かめる為に一旦体育館へと向かい――その道中でふと乙瓜の姿を見かけたのだ。
 美術部が放課後に体育館方面に向かう事はまずない。それこそ催し物の時期の準備か、春先に二人で自主的にやっていたような怪談パトロールでもない限りは。そんな乙瓜がプールの裏手へと歩いていくのを不思議に思い、魔鬼は何の気無しにその後を付けた。ただ美術部が体育館方面に居るのが不思議というだけなら自分も大概であるが……それはさておいて、だ。
 声をかけても良かったが、なんとなくそれはしなかった。プール裏で立ち止まったので死角からこっそり様子を窺っていると誰かを待っている風だったので、時期が時期だけにもしや告白か? と疑ったりもした。
 だが、少ししてそこに現れた人物――きっかけの五時間目、幸呼からその能力の真偽を尋ねられた少女・八尾異と、彼女が語りだした話を聞いて、魔鬼はその場から動けなくなってしまった。

 今、自分は何を聞いてしまったのか、と。

 同じ小学校の出身とはいえ、かつて見たことが無い程に饒舌に話す異が語った『乙瓜に関わる話』。
 始めは何の話をしているのかと訝しんだものの、段々と異が何を話しているのかに気づいてしまったのだ。
 足下に影のないモノ。大元の存在を食らうモノ。同じ姿に成り替わるモノ。――乙瓜と、七瓜。
(まさか――)
 異の話は嘘か真か、しかし直接対峙する乙瓜の反応を見るに真実・・なのだろう。
 付きつけられる真実に乙瓜が凍り付く中、魔鬼もまたその場から動くことが出来なくなっていた。
 頭にあるのは困惑と、混乱。それは友人が人間でなかったから、ではない。確かにショックな事ではあったが、今までの活動の末に「人間じゃない奴は友達じゃない」なんて言えてしまうような魔鬼ではない。
 幽霊だって妖怪だって、分かり合う事だってできる事を魔鬼は知っている。……けれども。
 雷鳴の中、あの少女に初めて出会った日の事を思い出す。乙瓜と同じ顔をしたあの少女。彼女が何故乙瓜を殺そうとしたのか。そこに至るまでの経緯は、心情は。
 自ずと頭に浮かんできたあの日の出来事の、屈辱の裏側。それを思うと、魔鬼は不安で仕方ないのだ。――もう、普通の顔をして乙瓜と向き合えない気がして。

(知りたくなかった。知らない方が良かった。本気で後悔した。……だけどッ!)
 魔鬼は走る。亜璃紗らに向かって。右手に持つ定規に紫の輝きを宿らせて。
 あの後に待ち受けているのがこんな状況で良かった。彼女は不謹慎ながらもそう思った。そうでなければ立ち上がる事が出来なかっただろうから。あの場から逃げ出したとして、乙瓜と顔を合わせる事が出来なかっただろうから。
 敵の襲撃なんていう非日常のお陰で、悩む間もない状況のお陰で。魔鬼には分かったことがあるのだ。そこに立つ同級生の少女。その正体が何者であったとしても、彼女は紛れもなく己の友人である筈なのだ。
 乙瓜が七瓜の偽物だったとしても。困った状況の時に隣に居たのは七瓜ではく、乙瓜だった。例え全てが嘘であったとしても。己の中にある乙瓜との時間は、感じている友情は。……嘘偽りなく本物である筈なのだ。
(その気持ちが叫んでる! ……私は乙瓜をあいつらに連れて行かれたくない! 例えそれが間違いだとしても絶対にッ!)
「たああああああああああああああッ!!」
 己を駆り立てるようにえ、手にした光を振りかざす。光はその内から小さな光の玉を産み、玉は円となって魔法陣を描く。
「召喚、召喚、召喚! 使い魔たちよ!」
 魔法陣が弾ける。花火めいた爆発の中から間抜けな顔をした使い魔たちが顔を覗かせ、ぱかりと大口を開く。
 魔力を収束したレーザービームの固定砲台。それが使い魔たちに与えられた役割。わざわざ言われずとも分かっているとばかりに魔鬼を取り囲み、彼らは口中を発光させる。
 そんな使い魔と、向かってくる魔鬼を見て。亜璃紗は顔色一つ変えず、只届かせる気のない声量で「無駄ですわ」と呟いた。
 呟くと同時に袖口から取り出すは一枚の護符。如何にも呪術然とした墨文字紋様の中央には盾の文字。それが軽く宙に放たれるのと魔鬼のビームが放たれるのはほぼ同時。破滅的な紫の光が轟音と共にほとばしり、乙瓜を連れ去らんとする三人の【月】の使者を焼き滅ぼさんとする。
 開放、発動、発射、着弾、炸裂。ここまでわずか十秒足らず。一矢報いた確かな手応えに、魔鬼は定規を持つ手をぐっと握りしめる。
(乙瓜が居る都合急所は外したけれど、牽制にはなった筈。だから後は乙瓜を連れて――)
 算段を立て走り続ける魔鬼に、誰かが叫ぶ。「駄目だ!」と。
「駄目だ黒梅ちゃん、今の攻撃は奴らには――」
 それは警告。誰かではなく、この場で乙瓜を除けば唯一味方・・と呼べる八尾異からの警告だった。だが、猪突猛進の勢いで走る魔鬼にはそこで退く事も止まる事も出来ない。
 そして何より、警告を受けるまでもなく、魔鬼は己の身をもって知ることになる。己の見積もりの甘さを。敵が何者であるのか・・・・・・・・・、その視点を欠いていた己の浅はかさを。
「――いけない子ですわ。抵抗しない限り身の安全を保証すると、そう伝えましたのに」
 炸裂の砂煙を女の声がクスクスと揺らす。静かに吹く風が煙を散らし、魔鬼の眼と鼻の先にその女の顔が――亜璃紗の顔が現れる。
 左右に控える杳月音月も含めて全く無傷の姿で。欠片も動揺した様子もなく怪しい光を宿らせた瞳を向ける亜璃紗に、魔鬼はしかし、それ以上攻撃を加える事はできなかった。
「少し損した気分です。影縫いの術符を二度も使う事になるだなんて」
 ふうと溜息を吐いて、亜璃紗は己の髪を右手の指に絡め、意味も無くくるくると弄った。もう片方の左腕に放心した乙瓜を抱いたまま。
 手を伸ばせば届く距離に乙瓜は居た。けれども再び身体の自由を奪われた魔鬼は、悔しく舌打ちしながらも言葉という手を伸ばす。
「乙瓜ッ、乙瓜ってば! 何ぼんやりしてるんだよッ、そこから逃げろッ!」
「無駄ですわ魔法使いさん。貴女の言葉はもう乙瓜さんには届きませんの」
 不敵に告げる亜璃紗の腕の中で、乙瓜はピクリとも反応しない。まるで糸の切れた人形のように。
「てめえッ! 乙瓜に何したッ!」
「あら嫌ですわ、随分と乱暴な言葉を使いますのね。何をしただなんてそんな、私はただ、乙瓜さんに本当のことを告げただけ。そうしたら勝手に心を閉ざしてしまわれただけ、ですのよ。うふふ」
 ケロリと言ってのける彼女の背後から、二つの何かがぬっと伸びる。杳月、音月。亜璃紗に比べれば随分と寡黙な彼ら二人は、動けない魔鬼の頭に銃口を突きつけるように掌をかざした
「そういうわけだ。今の烏貝乙瓜に言葉が届くことは無い」
貴女きじょがこれ以上努力したとてその全てが徒労に終わる」
「諦められよ。我らは賢い返答を期待する」
 無感情に告げる無感動な視線が魔鬼を射抜く。「そう言う事ですわ」と亜璃紗が続け、何がそう言う事なんだと魔鬼は思う。奥歯を強く噛み合わせる。……だが、それ以上何もできない。完全な手詰まりだった。
 そんな中で異もまた「くっ」と苦しい呻きを漏らす。彼女は拘束こそ解かれたままだったものの、開放の際に転ばされて足を挫き、ついでに唯一の対抗手段として密かに持ち歩いていた管狐もやられてしまった。こちらもまたお手上げであった。

 美術部、そして北中方の完全敗北。そうとしか言い難い状況がそこには在った。

 心は折れていないもののこれ以上動くことのできない二者の表情をそれぞれ堪能するように見遣り、亜璃紗は「そろそろ本当にお別れですわね」と着物の袂を探る。恐らくはこの場を去る為の術を行使する為に。
 もう打つ手はない。そう思われた、――その時。

 ブンと重い風切り音と、それを率いて宙を飛ぶ何か細長いものが一つ。
 真っ直ぐ自軍目がけて飛んでくるそれに気づき、亜璃紗は初めて表情を歪めた。
「そう……タイムアウト、ですのね」
 今までの余裕の態度から一転。やや不機嫌そうに呟くと、彼女は袖の中で掴みつつあった転移の術符を放棄し、その右腕を高く掲げた。まるで飛来物を受け止めようとするように。
 そんな亜璃紗の細腕の先で赤銅色の飛来物はきらりと輝き、誰かの雄叫おたけびが轟いた。
倭迹やまと迹日ととひッ、百襲媛ももそひめえええええッ!!!」
「……なっ!?」
 目を見開く亜璃紗の右手を赤銅の長物が貫く。槍のように、だがそれは槍ではない。
 全長四尺、メートル法に直して約百二十センチ。歴史資料に出て来そうな古代めいた出で立ちの両刃剣。そして何より――。
「――伝説上の金属・緋緋色金ヒヒイロカネの不滅の刃! ……混ざりものでも刺さるでしょう?」
 雄叫びの主は告げ、この場に強く一歩を踏み出す。学生たちとは明らかに違う、ショートブーツの底が砂利を踏む。
 その足下には影はない。しかし彼女はそこに居る。光を弱める曇り空の下、現れた彼女の姿は――。
「お前……っ!」
「貴女もここに来ていらしたのですね」
 純粋な驚きから目を見開く魔鬼。憎らしそうに言いながら剣に貫通された掌を下ろす亜璃紗と、無言のままそこに突き刺さる剣を抜く十五夜兄弟。
 大凡おおよそこの場に居る誰しもが彼女・・に注目する中、異は人知れず、何かを悟ったように眉を顰めた。
 怒っているのか、或いは泣き出しそうなのか。そのどちらとも取れる表情を浮かべ、異は呟く。「遂に始まってしまったか……」と。
 その小さな絶望を知らぬまま、剣を放った彼女・・は――烏貝七瓜は。乙瓜とうり二つの顔に隠しきれない怒りを表し、そして乙瓜と同じ声で叫ぶのだ。

「乙瓜を――私の妹を離しなさい!」

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