怪事捜話
第十九談・籠の中の虜は①

 真実を知ることは、いつだって必ずしも正しい事とは限らない。
 知って喜ばしいもの。知らなければ良かったと後悔するもの。時に嘘以上に人を傷つけるもの。――けれども、ほんとうのこと。
 それを受け入れるのも受け入れないのも自由だ。けれども、もう知らなかった頃には戻れない。
 足掻あがいても、足掻いても。



 "付き纏う影"、呼ばれているモノ・・が在った。
 所謂"ドッペルゲンガー"に近いモノと言えば、幾らか伝わるだろうか。それに取り憑かれた者の周囲には、常にもう一人・・・・の存在が付き纏う。まるで鏡写しのように、けれども左右反転ではなくそっくり同じ姿の存在――の存在が。
 には足下の影が無く、故にか誰にでもいつでも見える存在ではない。それを常に認識する事が出来るのは、影に憑かれた人間だけ。取り憑かれる人間には寂しい人間が多く、特に子供などは自分に寄り添うもう一人の自分を友達・・きょうだい・・・・・として仕立て上げてしまう事があると云う。
 イマジナリーフレンド。……かの夏合宿で乙瓜自身が語ったオカルト話・・・・・。或いは心理学や精神医学の分野で『空想』と位置づけられるそれそのもの・・・・・・が、幽霊や妖怪、神や悪魔と同じように――この世界には在る・・
 影の存在は取り憑いた存在を常に観察している。近くに遠くに。ある者には恐れられ、ある者には親しみを持たれ。そうしてある程度の時期が過ぎた後、影は大元の存在を食らう・・・
 ……異は語った。彼女が幼い頃亡くなった祖母には、常によく似た何かが付き纏っていたのだと。
 祖母と同じ顔の、けれども祖母ではない何か。両親や近所の親戚、保育園の友人。誰に言っても信じて貰えないそれ・・が、八尾異にははっきりと認識できていた。……そして、彼女の祖母自身にも。
 異は祖母が大好きだった。けれども祖母のような何かは好きになれなかった。漠然と触れてはいけないもののような気がしていた。故に一度だけ、己と同じくそれ・・を認識する祖母に、それ・・は何なのかと尋ねた事があった。
 まだ全ての不思議な事が迷信とされていなかった時代に育った彼女の祖母には、何か感じる事があったのだろう。部屋の影に黙して座るそれをチラと見て、それから異にこう教えたのだと云う。――あれは私の死神である、と。
 その数日後、異の祖母は亡くなった。幼き日の異は、不思議と悲しくは無かったと言う。祖母のあんな発言を聞いてしまったからというのもあるのだが、何よりその時の葬儀の光景は夢の中で何度も見ていたような気がしてならなかったからだ。
 乙瓜には語らない事だが、それはまだ無自覚であったかんなぎの力が見せた未来の光景であった。夢の中で泣き尽くした異の胸中にあるのは、「やはり死んでしまった」という悟りにも似た思いと、そしてあの『死神』についてだった。
 葬儀の途中、彼女は気づいていた。火葬場で別れを告げた祖母の棺が、妙な気に包まれている事に。勿論他の誰も気づいていないし、火葬そのものは無事に終わった。けれどもどこか消えない違和感を胸に葬儀を終えた異は、すっかりがらんとしてしまった祖母の部屋でそれ・・を見たのだ。

 見知らぬ女。けれども古いアルバムの色褪せた写真の中に見た、若き日の祖母に似た女の姿を。

 異はそれを見て――それを視て・・。そして悟ったのだ。彼女があれ・・――祖母の死神であると。これ・・棺の中の祖母の影を奪ったのだ・・・・・・・・・・・・と。

「暫くして火遠に会ったぼくは、あの日去って行ったそれが何だったのかを知った。"付き纏う影"、"ドッペルゲンガー"。そして――"影の魔"と呼ばれるモノ」
「……"影の魔"?」
「そう、"影の魔"だ。烏貝ちゃんもどこかで聞いた事があるんじゃないかな」
 異の言葉に、乙瓜はゴクリと唾を飲む。……確かにそうだ。あの日――【灯火】の丙は言っていた。"影の魔"と。そして何より――。
「そして何より、ぼくの話を聞いて何か思い当たることはないかな」
 金色の瞳に見つめられ、思い当たることが乙瓜にはあった。
「前に話してくれた、小学生の時の話。学校の屋上から、はどうして飛び降りたのか。……あれから幸福ヶ森さんにもそれとなく聞いてみたんだ。何か覚えていないかって」
 止むことない言葉の雨を前に、乙瓜の表情はみるみる青めて行った。

 ――二年ぶりかしら、私の妹。
 ――私は七瓜 。烏貝七瓜。世界に忘れ捨てられた烏貝の影、そしてあなたの双子のお姉さん。
 ――あなたは私だったのよ。
 ――そして私とあなたは友達だった。

 思い浮かぶ誰かの――七瓜の言葉。夏祭の夕べに彼女が乙瓜に告げた事。乙瓜が覚えていない事。七瓜の影を奪ったらしいという事も。
 ……否、本当はきっと分かっていたのだ・・・・・・・・。最初からずっと分かっていた。分かっていたけど気づかないふりをずっとしていた。
「"影の魔"は取り憑いた者を死に導き、影を奪ってその人と成る。不都合な事は忘れて、自分をはじめからの人間だと思い込みながら。……ぼくのお婆ちゃんの場合は、幾らか違う要因もあったようだけれど」
 やめろ、聞きたくない。乙瓜の心はそう叫ぶが、言葉は喉に詰まってしまったようにそこから先へ出て行かない。けれど、聞きたくないその先は薄々わかっていたのだ。異がどうしてそれを告げたいのか。どうして自分は丙に不合格を告げられたのか。
「火遠も最初は判断しかねてたみたいだけど、多分今はもう完全にわかってる。わかってて伝えないでいる。……だからぼくが伝える。ぼくの言葉を信じるも信じないも君の自由だ。けれどもぼくはこれを君に伝えなくちゃいけなかった。そうでないとやつらに勝てない。君ももう、薄々気付いているんだろう? 君がどうして丙に合格を貰えなかったのか。……こんなことを言うぼくを憎んでくれてもいい。恨んでくれてもいい。だけど言うよ」
 クスリとも笑わない真剣な表情と眼差し。それを見て乙瓜は思う。
(……そうか、そうだったんだ。)
 絶望というよりは悟りのように。なんのことはない。はじめから答えの示されていたパズルを、わざわざ難しく考えていただけなのだ。
 烏貝乙瓜と烏貝七瓜、二つの存在。そこから推測されるの正体。
は――)

「烏貝乙瓜ちゃん。君は人間じゃない。――影は君の方だったんだ」

 それが異の告げた真実だった。それとほぼ同時、彼女らの遥か上方で何かが砕ける音が響く。
「……思ったより早かったみたいだ」
 異が言う。乙瓜は一瞬何が起こったか分からず呆けた後、己の背後に立つ何かの気配に気づいて振り返る。
 ガシャンと揺れるプールの金網フェンス、直角に交わる柵の角上に下駄を乗せて器用に立つ着物の女。
「はじめまして、ですわ」
 慇懃いんぎんに、けれどもどこか嫌味たらしい態度で微笑む女。彼女は乙瓜に、異に、順々に視線を遣り、それから僅かに後方を振り返る。
「隠れていないで出て来たらどうですの。――魔法使いさん?」
「えっ……」
 乙瓜が小さく声を上げる中、彼女らから丁度死角に当たるプールの角の向こうからガサリと枯草を踏む音が立ち、やがて固い面持ちの魔鬼が姿を現す。口を真一文字に結んだ彼女は、フェンス上の女を一睨みし、それから乙瓜らに目を向けて、消え入りそうな声で「ごめん」と呟いた。
「……いつ……から?」
「さあ、最初からじゃないのでしょうか?」
 声を震わす乙瓜に、魔鬼が答えるより早く女が答える。魔鬼はそんな女に再び目を遣り、ポケットから何かを――いつもの十五センチ定規を取り出そうとして…………できなかった。
 躊躇ためらったのではない。できなかったのだ。
「なっ……これっ……!」
 戸惑いつつ恨めしそうに声を上げる魔鬼の右腕は、定規を取り出そうとした形のまま空気中に縛り付けられたかのように動かなくなっていた。それは左腕も同じことで、さらに言えば両足もまた一歩も動かす事が出来なかった。
 明らかな異常事態。その元凶と思しき女は魔鬼を見てニコリと微笑み、その着物の袂から護符を取り出してみせた。
「少し動きを封じさせて貰いました。こちらのお話が終わるまで大人しくしていてくださいねぇ?」
 言って、女は見せつけるように護符を揺らす。どうやらなんらかの術に囚われたらしいと悟り、魔鬼はギリと悔しく奥歯を噛む。
「そして貴女も」
 言って、女はくるりと乙瓜らを振り返る。だが特に変わった様子もない事に戸惑う乙瓜がふと背後に目を遣ると、そこには何故かシャープペンシルを取り出したままの体勢で固まっている異の姿があった。その表情は普段の澄ました表情からは一転し、明確な敵意を宿した瞳でフェンスの女を睨んでいる。
「魔鬼、八尾さん……。どうして俺だけ……!?」
「あら? 貴女はもう知っている筈でしょう。わたくし、お迎えに上がりましたのよ。改めて・・・
 疑問を叫び見上げる乙瓜にそう返し、着物の女は言葉を続けた。
「名乗りが遅れましたわ。私、月喰の影本部参謀・琴月ことづき亜璃紗ありさと申しますの。……尤も、そこの物騒な巫女さんとは、『はじめまして』ではなくて『暫く』になりますわね?」
 うふふ、と口許を袖で隠す亜璃紗に、異は言う。積年の思いをぶつけるように叫ぶ。
「……会いたかったよ。お婆ちゃんの仇である君にね!」
「光栄ですわ」
 にっこりとして小首を傾げ、亜璃紗は改めて乙瓜を見つめる。どこか異と似た顔で・・・・・・・・・
から聞かされましたでしょう? 私、今の姿・・・にはそのむすめのお婆様の影から成りましたの。烏貝乙瓜さん。貴女と同じ起源を持つ貴女の同類、そして貴女の――真の家族ですわ。よろしくお願いしますわね?」
 ざわりと冷たい風が吹く。その風に散る落ち葉のように、烏貝乙瓜はドサリと膝を付いた。
「嘘、だ」
 呆然と呟く。けれどもそれが嘘でない事は他ならぬ彼女自身が知っている。――思い出してしまった。
 そんな彼女に笑いかけ、琴月亜璃紗はタンとフェンスから飛び降りる。乙瓜の前に屈み、そっと優しく手を伸ばす。
「さあ行きましょう、我が。鬼の居ぬ間に、誰も来られぬ間に。心配は要りませんわ。今ならあの無粋な灯火・・は来られない。誰にも邪魔はされませんの」
「誰、にも……?」
「そう。誰にもですわ。学校妖怪も美術部も。どこかから入り込んで来た輩も。誰も私たちを邪魔できないのですわ。……迷う事なんてありませんのよ。元々貴女も私と同じモノなのですから」
 言って、亜璃紗は乙瓜の顔をゆっくりと撫でた。大事そうに、壊れ物を扱うように、人間と変わらぬ温度で。
 そんな手に撫でられながら、乙瓜はぐるぐると考えを巡らせていた。
 気付いてしまった己の真実。思い出してしまった『己ははじめからそういうものなのだ』という自覚とかせから解き放たれたような解放感、影を奪ってしまった七瓜や、今まで共に戦ってきた仲間に対する罪悪感。今日まで当たり前に人間として生きてき自分が全て虚像のモノだったという虚しさと、やるせなさ。どうして教えてくれなかったんだという怒りと、知らないままで居たかったという悲しみ。矛盾する感情を抱きながら、しかし乙瓜にはわかっていた。
(……火遠はこうなる事が分かっていて、これを伝えないでいたんだ……)
 きっと彼は初めから分かっていた。本来消えてなくなる・・・・・・・・・筈の七瓜の存在に一度は迷ったが、それでもどこかで真実に辿り着いていて……その上で今まで黙って居たのだ。なぜならば。
(思い出した。いいや、本当はずっと覚えていた。俺は、私は――)
 世界は海、暗黒の海。己を取り巻く黒と、天面で揺らめく青白い光。そして――そこよりもっと深い底で蠢く、辺り一面の黒より黒きもの。
 闇の魚は成りたかった。眩い白の世界に跳ねる、光の中を泳ぐものになりたかった。
 成りたかったから形を模した。模した形は光にかき消された。消されぬものになりたかった。

 消されぬものに、なる為に。力を与えてくれた男の顔は。

 思い出し、凍り付いてしまった乙瓜に、着物の女は優しく囁く。
「行きましょう。マガツキ様の所に。――お父様のところに」

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