怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ⑤

「は? 犠牲になる気なんてないんだけど。頭湧いてんのか」
 蘰の余裕と見下しに満ちた言葉に臆する事なくそう言ったのは杏虎だった。
 キレ気味に。その言葉が終わらぬ内に矢を放つ。室内という狭い空間を、雨月張弓の光の矢は蘰目がけて真っ直ぐに飛ぶ。目標到達まで1秒もかからない。
 殆ど一瞬。しかし蘰はそれをかわした。余裕を崩さぬままにするりと、新体操の選手のように柔らかに体を曲げて。
 コンマ秒の後目標を外れた矢が壁を刺し、杏虎の双眸そうぼうが驚愕に見開く。蘰はそれを見てニヤリとし、ダーツを手にした右腕を振りかぶった。
 虚を突かれた今の杏虎には、それを避ける時間も余裕もないだろう。声一つ上げることも出来ない彼女の代わりに、叩きつけられた壁際から起き上がりつつあった眞虚が叫ぶ。
「杏虎ちゃんッ……!」
「遅い。遅いわ。まずは一人、貰うわよ?」
 にんまりと目を細め、蘰は迷いなくダーツを放つ。だがその瞬間、蘰と杏虎との間に大量の何か白いものが舞い、ダーツの推力すいりょくを削ぎ殺した。
 白いものはあっという間に調理室内に満ち、竜巻のように渦を巻いて旋回する。それが紙の鳥であると蘰が気づくのにたっぷりと2秒。その術者に思い当たり、それを睨み付けるまでに更に1秒。
 北中ここに来て初めて不快を露わにした彼女の視線の先には、紙の鳥の術者――草萼水祢が変化したままの腕を振りかぶり、次なる攻撃に転じようとしている姿が在った。
「ちッ」
 蘰は舌打ちし、次に飛んで来る巨大な爪の攻撃から床を転がるようにして逃れると、苛立った顔のまま髪飾りの紐を引き、ジャラジャラと鈴を鳴らした。
 どこか濁った鈴の音が響き渡ると、水祢のは一斉に飛ぶのを止め、重力へとしたがってゆらりと地に落ちる。
「術式攪乱かくらん……!」
 水祢が僅かに驚きを見せる中、蘰の視線は贅沢な紙吹雪と化した鳥たちの彼方に居る彼女・・へと向かう。――そう、鳥の裏でふらつきながら漸く立ち上がった眞虚へと。
 蘰は考える。初手の音波攻撃による三半規管へのダメージはほぼ抜けただろうが、眞虚にはまだ物理ダメージの痛みが残っている。ダーツと相性の悪い結界護符の使い手であるということは蘰も聞き及んでいるが、反応速度は鈍っているし、即では反応できないだろう。杏虎や水祢は当然妨害・・してくるだろうが、今し方鳥を落とされたばかりで次の術符の用意もしていない水祢が結界を展開するまでに早く見積もっても2秒。虎の眼の杏虎などは見えるものに対して体の方がついて行けていない為論外――と。
(――貰ったわ)
 表情に再び余裕を宿し、蘰はくるりと身体を起こす。起き上がり様にダーツを放つ。二発・・。ほぼ同時に二発だ。一発目は胴体目がけ、二発目は足。咄嗟に屈んでも逃げられない場所へとその針先を向け、ダーツは眞虚目がけて投射された。
 いち早く反応したのが水祢で、次が杏虎。そしてやはり蘰の見立て通り、眞虚が一番遅く反応した。痛む体で漸く立っている彼女は気付きと共に護符を展開しようとするが――同時にそれが間に合わない事を悟る。
(そんな……これ、無理――)
 絶望の自覚が眞虚の体感時間を引き延ばす。己へ向かう二つの飛翔体の姿が妙にゆっくりと見える。だが引き延ばされた体感時間の中では眞虚の動きもまた鈍重だ。危機を目前にして研ぎ澄まされた五感と脳内を巡る思考の速さに、肝心の肉体が置いてけぼりを食らっているのだ。
 ハイスピードカメラの映像のようにねっとりと進む時間の中で、眞虚の眼は驚愕の表情で振り向く杏虎の姿を捉える。次に水祢が己に向けて動き出そうとする姿を捉え、最後に蘰の悪意ある笑顔と、もう己の1m圏内に侵入してしまったダーツを捉える。
 ――月喰のダーツ。それに貫かれた人で無きものは人のような心を亡くし、本能のままに暴れ狂う獣となる。人間はそのまま心を砕かれ、生きたままに抜け殻と化す。
 眞虚は思う。現状半端に人間であり半端に人間でない自分はどちらになってしまうのか。……だがそんな事はわざわざ考えずともわかっていた。きっと前者の方だ、と。
(杏虎ちゃん、水祢くん、ごめん……ッ)
 心の中で謝りながら恐怖と諦めに目を瞑り、眞虚は全身を強張らせた。……だが、いい加減普通に流れ出しただろう時間の中で。彼女を襲う筈の衝撃は、いつまでたっても訪れる事は無かった。
「……えっ」
 恐る恐る開いた瞼の向こうで、漸く防壁として展開しつつある彼女の護符がキラキラと輝く。だがダーツが到達しない理由はそこに非ず、結界と眞虚との間にあるものに在った。
 眞虚には何百倍にも引き延ばされて感じられたあの一瞬・・・・の中、己でも間に合わないと見た結界の展開を諦め、その身一つで盾となった存在――草萼水祢の存在に。
「水、祢……くん……!?」
 一気に目を限界まで見開く眞虚の前に立つ水祢は、その背の中心と脹脛ふくらはぎに痛々しくダーツを突き刺さらせている。苦しそうに表情を歪めた彼は、いつもの様にぶっきらぼうに、そして震える声で眞虚に告げた。

「逃げろ小鳥眞虚……、お前は戦うな――」

 水祢はそう言い残し、その瞳から意思の光を消滅させた。
 元凶たる蘰は一時キョトンとし、けれどもすぐにニヤリとする。
「そう、誰か一人に中ればいいの。庇われたら庇われたで、好都合」
 余裕ぶって手近な机に手を突く彼女は、ふと何かに気づく。ここに来てからずっとあった気配――調理室の扉の向こうで縮こまっていた何者かの気配が消えている事に。
(霊的な力はまるで感じなかったけど、誰か応援でも呼びに走ったのかしら? ……まあ、無駄だけどね)
 瑣末な事と見逃し、蘰は再びそれに目を向けた。守ろうとした契約者の前で自我無き化け物へ変じていく一匹の愚かな妖怪の姿へと――。



 その頃、古虎渓明菜は東階段を駆け下りていた。
 先輩が先輩ながらも彼女が関わっているらしい"戦い"には殆ど巻き込まれた事のない彼女にもわかる事と言えば、調理室の硝子が割れてらしきものが現れたという事と、二人の先輩+α水祢が危機に瀕しているという事だけ。だが認識はそれだけで充分だった。
戮飢りくのうえ先輩に伝えなきゃ……! 小鳥先輩と白薙先輩が危ないって、変なひとに襲われてるって……!)
 蘰の目がこちらに向かない内にとあの場を離れた彼女が思い浮かべるのは、美術室に残る概ね明るい先輩の姿。他に頼りになりそうな先輩と言われれば明菜はあと二人程思い浮かべる事ができるのだが、彼女らは今日に限って美術室に顔を見せていない。
(黒梅先輩も烏貝先輩もこんな時にどこ行っちゃったんだろう……もうっ……!)
 半泣きになりながら一段飛ばしの勢いで階段を下り二階・一階間の踊り場へと至ったところで、明菜はぴたりと足を止めた。……決してくたびれたからではない。踊り場から見下ろす一階廊下に、見てはいけないようなものを見てしまったからだ。
「な……なに、これ……!?」
 驚愕に立ちすくむ彼女の視線の先・一階廊下と東昇降口には無数の人影。だがそれは生徒でも教職員でもない。そもそもとして人間でもなく、生物ですらなかった。
 そこに在ったのは、アパレルショップのマネキンのように人間大の球体関節人形・・・・・・・・・・。一見してそれと分かる状態の人形が、ゾンビの如く不気味にうごめきひしめき合いながら廊下を占拠している。
 その奇怪で異常な光景を前に、明菜の膝はがくがくと震えた。すぐそこが職員室なので、もしかしたら大声さえ出せば誰かしらが来てくれるかもしれない……という発想は完全に頭から消え失せていた。在ったとしても、幾ら大人だからと言って、明らかにそこいらの不審者とは一線を画す人形の群れという常識外れの存在に敵うとは思えなかっただろう。そもそも今は部活時間で、教師の過半数は監督者として職員室を離れている。確実に残っているのは校長・教頭・事務職員と部活顧問でないごく少数の教師くらいか。顧問自体が幽霊と化している美術教師もいるかもしれないが、確実に十人にも満たないだろう彼らだけでこの奇怪な軍勢とやり合えと言うのは無茶な話である。
 兎にも角にも『異常事態』という言葉をそのまま形にしたような光景を前に、明菜はすっかり頭が真っ白になってしまった。引き返す事も別の道を探す事も考え付かず、呆然としたままその場にへたり込む。
 そこで立てた僅かな音に反応したように、人形たちの感情のない顔が一斉に動く。それまでバラバラの方向を向いていた首は生物感など知った事かとぐるりと回り、彫り物の眼が不気味に明菜を睨み付けると、緩慢でぎこちない動きで明菜の立つ踊り場向けて歩き出す。
 益々ゾンビ物めいてゆく状況に、終わった、と明菜は思った。先輩に巻き込まれる形で妙な目に遭うのには大概慣れたと思っていたが、それは己の思い上がりであったことを知る。
「やだ、やだ!」
 声は出る。けれども再び立ち上がって走り出すことは出来なかった。精々床に尻を付いたままずりずりと後ずさりするのがやっとだった。だがそれも永久には続かない。そこが階段の踊り場である限り、必ず壁と段差に行く手を阻まれる。それ以上を望むなら立ち上がるしかない。
(わかってる、でも立てない、立てない……!)
 思考と行動の不一致を恨みながら後ずさる明菜の指は、やがてひやりとした壁に触れる。壁――否、コンクリートとはまた違うすべすべとした感触それは、何十年も昔の卒業生が記念品として寄贈した大きな鏡だった。東西二つの階段の、各階間全ての踊り場に置かれている、さして珍しくもないものである。
 やろうと思えばまだもう少し逃れる術はある。だが、もうそれ以上体が動かない。ゆっくりと確実に近づいて来る正体不明の人形たちの姿に、明菜の身体はその精神が音を上げるよりも早く抵抗を断念してしまったらしい。
 圧倒的な絶望の中、明菜はふと、去年の春先の出来事を思い出していた。
(そういえば、入学して最初に怖い目にあったのも階段だったな……。あの時は黒梅先輩が助けてくれたっけ――)
 まだ入部する前、てけてけに襲われた日の事を。春先に自分を助けた魔鬼の姿が、あの時の明菜には随分とかっこよく見えた。否、それは今でも、彼女をはじめ美術部二年が一般的にみて大分おかしな集団であると知った今となっても変わらない。なんだかんだと言いながら誰かを守れるような彼女たちの事を信じているからだ。そして自分もそういった先輩になりたいと願った。
(だけど私、全然動けないよ……。小鳥先輩と白薙先輩が襲われてて、階段降りたらこんな状況で、もしかしたら黒梅先輩たちも襲われてるかもしれないのに、だから私が戮飢先輩に伝えなくちゃいけないのに……全然動けない、動けないよ……!)
 無力な己を呪う彼女の瞳は、焦らすように踊り場へと延びる人形の腕を捉える。もう本当に駄目だ。思い、けれどもせめてもの抵抗として、明菜は己を守るように震える腕を構え――そして聞いた。

『ねえ君、助けが必要?』

 囁く声を。己のすぐ近く――寧ろ己の脳内に直接囁きかける声を。
 場違いなまでに落ち着いたその声に、明菜は当たり前だとそう思った。
『そうか。――わかった』
 明菜の思考を直に感じ取ったのか、見えざる言葉の主はそう答え、そして空気がゆらりと揺れた。
 刹那、明菜の眼前に黒い影が躍り出る。突として現れたそれは明菜と人形の間に立ち塞がり、何かを勢いよく振るった。

「塵と還りなさい!」

 影は――誰かは叫ぶ。それは叫び声だったからかも知れないが、少なくとも明菜の耳には先程の声とは別人に聞こえた。だがその割には聞き覚えがあるような気がして、明菜はゆっくりと顔を上げる。後姿しか見えない誰かは、北中の制服ではない黒いスカートの服――クラシック・ロリータとでも云うのだろうか。明菜は柚葉の家で見た事がある――を纏い、何か長いものを振るっては人形たちを攻撃しているようだった。
「あ、あの……!?」
 あまりにも力押の光景に、明菜の身体は漸く自由を取り戻す。恐る恐る目の前の少女に呼びかけると、彼女はくるりと振り返った。
 肩で揃えられた黒髪がふわりと揺れる。キョトンとした瞳の中に明菜が映る。その顔は――
「烏、貝、先輩?」
 疑問形で明菜が問うと、彼女は「あっ」と口を開き、直後キッと表情を引き締め、そして言った。
「あなた乙瓜の――美術部の後輩ね」
「……えっ、えっえっ?」
 訳が分からないと明菜が目をキョトキョトさせる中、一階廊下に爆音が響く。見れば、昇降口前のある一画だけ人形の姿が綺麗さっぱりと消し飛んでおり、代わりに緑色の妙な形の杖を担いだ角の生えた少女がたたずんでいる。
(何、何!? 何これ!?)
 立て続けに起こる不可思議の連続に明菜の頭はパンク寸前だった。そんな彼女などまるで目に入らないように、角の少女は黒い少女に「おーい」と手を振った。
「こっち片付いたよー。ナノカは大丈夫?」
「ええ、大丈夫よエーンリッヒ」
 黒い少女――烏貝七瓜が答えると、角の少女――エーンリッヒはニコリとして階段を駆け上がる。そうして七瓜の横に並び立つと、未だへたり込んだ体勢のままの明菜に手を差し伸べて一言。 「立てる?」
 言って手を伸ばす彼女の手を取り立ち上がった明菜は、目の前の明らかに只者ではない存在をまじまじと見つめ、いじけたように「なんなんですか」と返す。
「今日一体なんなんですか!? 十三日の金曜日だからなんですか!? 先輩は変なのに襲われるし廊下にも変なのいっぱいいたし、そこのその人烏貝先輩そっくりだし、何が一体どうなってるんですか!!?」
 恐怖と共に蓄積された疑問を爆発させるように明菜は喚く。エーンリッヒはそんな彼女の肩にポンと手を当て、明菜の瞳をゆっくりと覗き込みながら、言い聞かせるように「落ち着こう」と言う。
「落ち着こう? 確かに君から見れば訳が分からないの連続だと思うけれど、落ち着かない事にはどうにもならないよ。ココケイ・アキナちゃん」
「わ、私の名前? なんで?」
「だからそんな怖がんないでよ。私は……なんだろな。えっと、そっか。君たちの先輩の知り合いだから。敵じゃないよ。ここのこの人も」
 エーンリッヒがチラリと目を遣った先で、七瓜は「さっきからこことかそことか失礼ね」と頬を膨らませ、それから明菜に向き直った。
「はじめましてになるわね。私は烏貝七瓜。乙瓜の――姉よ。よろしくね」
「お姉さん、ですか……? はじめま――」
 ポカンとして、七瓜の伸ばした握手の手を掴みかけて、明菜はハッと何かを思い出す。
 あの秋の朝。意味深なメールで己を呼び出した先輩に聞かされた話を。

 ――この話は、今は眉唾まゆつばだと思って信じてくれなくてもいいよ。だけど分かる時が必ず来る。だから、その時まで覚えていてほしいな。誰にも言わないで、ね。

 話を聞きながら明菜は、何を言っているんだろうこの先輩はと思っていた。そんな事を聞かせて何をさせたいのかと思っていた。実際にそこまで真剣に捉えていなかった。少なくとも彼女は。
 この世にはおかしなことが、幽霊が、妖怪が、神様が、魔法のような不思議な力が。トリックでも何でもなく実在するという事を明菜は知っている。けれど八尾異の話すそれ・・これ・・とが彼女の認識の中で微妙に噛み合っていなかったのだ。
(だって、烏貝先輩は別におかしい所とかないし、……いやおかしいといえばおかしい所もあるけれど、全然そんな……)
 思い出し徐々に表情を引き攣らせる明菜と、そんな彼女を前に訝し気に眉を顰める七瓜。エーンリッヒだけが場違いに明るい顔でうんうんと頷き、そして言う。
「成程成程、どこの誰だかしらないけど君に招待状・・・を渡した子がいるのね? やっぱり助けて正解だったってワケだ。――じゃ、行こっか。【月】のドブネズミは上――調理室ね?」
 フフンと鼻を鳴らし、エーンリッヒはふわりと階段を駆け上がる。七瓜も遅れてそれを追い、数段上った所で未だ踊り場に立ち尽くしたままの明菜を振り返る。
「あなたもそのままそこに居ると危険よ? あの人形、術者倒してないからその内また新しいのが来るわ」
「……っ、それは……困ります……!」
 けど、と明菜は一階を見る。目先の危機が去ったからこそ、彼女の思考は漸くそこに至ったのだ。美術室は――柚葉や寅譜らをはじめとする自分の友人は無事だろうか、と。
 わけのわからない事が山ほど起こってはいるが、未だかつてない異常が起こっているという事は理解できた。いつもとは違う。上階に残る眞虚たちの事も勿論心配ではあるが、戦う力を持つ先輩二人が危機的な現状、美術室に残してきた友人の安否が気がかりで仕方ないのだ。
 明菜の抱えるそんな不安を察したのか、七瓜は踊り場へと足を戻し、それから明菜の手をそっと握った。
「大丈夫……。美術部のあの子は、北中は、きっと負けないわ。……初対面の私にこんな根拠のない事を言われて、信じてって方が難しいかも知れないけれど……」
「せんぱ、……七瓜さん」
 見知った顔と同じ顔の浮かべる見知らぬ表情を見つめ返し、明菜はゆっくりと頷いた。
 何が何だか分からない。だからこそ誰かの言葉を信じなくてはやっていられない。そして少なくとも明菜には、七瓜の言葉が信じられるような気がしたのだ。

 ――例え彼女が、烏貝乙瓜をやがて壊す存在だとしても。

←BACK / NEXT→
HOME