怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ③

「……誰に居場所を聞いてきたの」
 湯煎にかけたチョコレートをゆっくりと混ぜながら、草萼水祢は不機嫌な声を白い壁に反射させた。彼が使用する机の隅の椅子には小鳥眞虚が腰を落とし、チョコレートを溶かす水祢に物珍しそうな視線を送りながら、「花子さんに」と答えた。
「階段の所で会って、水祢くんが調理室ここ居るって聞いたから。……火遠くんに?」
「それがなにか」
 さも当然と答える水祢を見て、眞虚は「そっか」と呟き、「明日が本番だもんね」と続けた。「がんばって」とも。しかしどこかぎこちなく浮かない様子の彼女の言葉に、水祢はふと顔を上げた。
「お前はいいの?」
「えっ……?」
他人ひとの成功や幸せは願うけれど、お前はそのまま・・・・でいいの?」
 そう言って、水祢はジトリと眞虚を見つめた。眞虚はその深く青く大きな瞳から逃げるように目を逸らした後で、消え入るような声で「いいわけないよ」と呟いた。
「よくない事は分かってるよ、わかってる。……だけど自分でどうにかできるとも思えないし、丙さんにも不合格って言われただけだし……」
 言いながら、眞虚の顔は徐々に俯いて行った。水祢はそんな彼女の様子を黙って見つめて小さく溜息を吐き、充分に溶け温まったチョコレートのボウルを水の入ったボウルの上に移しながら口を開いた。
あいつは迷いのある願いは絶対に聞かない。……どうせお前の事だから、その力で誰かを救える可能性を示唆されたときにはっきりしない答えを返したんでしょ。……あいつはそういうやからは絶対救わない。それが道理であり公平だと信じてるから」
「…………、水祢くん……怒ってる?」
「幾らかは」
 返答し、再びチョコレートへと視線を戻す水祢は確かに怒っていた。それは助かるかもしれない希望を不意にした眞虚に対してでもあり、恐らく眞虚がそう答えるだろう事を見越して何もせずに帰した丙に対してでもあり、それ以上に自分に対して怒っていた。
 あのゴールデンウィーク前の結婚式場にて。言わせたものとはいえ「助けて」と願った眞虚に、助かるだけの力を与えたと水祢は思っていた。だが小鳥眞虚という少女に寄生する悪魔の力は想像以上のもので、彼と彼の契約の力だけでは完全に抑え込む事ができなかった。昔馴染みの狐を辿って悪魔の力を強引に抑え付け、元の形に留めるのがやっとだった。
 己の力では救えない。薄雪媛神の持ち込んだ禍津破の六勾玉でも救えない。救える可能性を持つ丙とはあの面談・・の後口論となったが、水祢にも彼女の言い分もがわからないでもないのだ。
 あの日丙は言った。悪魔の力は眞虚の一部の気持ちと半端に癒着している為、謂わば己の一部とも言える部分を心の底から引き剥がしたいと願わない限りは丙の術式を以てしても眞虚と悪魔を分離する事は不可能であると。
 悪魔の力が癒着している眞虚の気持ちとは、誰かを救いたいと願う心。……一度封じ込められた後にメリーさんを救う為に再び呼び起こされた悪魔の力は、自分を犠牲にしてでも誰かを救いたいというその願いと結びついてしまった。
 ――『献身』。その気持ちは必ずしも否定されるものではなく、時には賞賛されるものだろう。だが家族や親族に気味悪がられまいと『いい子』の理想形であり続けた眞虚には、自分より他者を優先する気持ちが元より根強い。更には悪魔の力の影響で必要以上にその感情へ引きずられつつある。

『そんな状態のままこれ以上【月】との戦いに巻き込めば、遠からずあの娘は破滅する。そうなったとき、お前さんはあの娘とその家族、友人たちに対して何か責任を取れるのか?』

 はっきりとそう言った丙を前にして、水祢は何も言い返せなかった。彼女の言い分は確かに正論だ。だがだからとて眞虚をこれ以上怪事に関わらせなければいいというわけでもなく。一度たがが外れてしまった以上、いずれ彼女は身も心も小鳥眞虚ではなくなる。
(……あいつとしては眞虚の気持ちが変わったらまた来いということなんだろうけど、けれど【月】は事情を汲んで待ちやしない。スキー合宿のあのタイミングで剥がせなかったのは完全に失敗だった)
 眉を顰め、水祢は考える。運よく・・・、或いは運悪く・・・。ここ二ヶ月ばかりの間は再び【月喰の影】の襲撃がないが、彼らの目的に大霊道がある以上安寧の時はいつまでも続かない。彼らは必ず再びやってくる。
 そうなった場合、眞虚は迷わず戦う事を選ぶだろう。……それが草萼水祢の知る小鳥眞虚という少女なのだ。
(つくづく愚かだと思う。……けれどもこのまま見捨てるのもそれはそれでしゃく
 水祢は苛立ちの滲む表情のまま再びチョコレートを湯煎に戻す。眞虚はそんな彼をチラリと見て、再びしゅんと頭を垂れた。
 彼らだけではどうにもできない。解決の可能性持つ白猿ひのえは何かを試すように沈黙し、願を託した神域の女たまおりからの返答はまだない。
 二人だけの調理室に重々しい空気が流れる中、閉ざされた扉がドンドンと音を立てた。
「……? はあい」
 ほんの少しの沈黙を置いて眞虚が立ち上がり、扉へと向かう。調理室の木製の扉にはめ込まれた四角い硝子窓の向こうには、杏虎と明菜の姿があった。
「杏虎ちゃん? それに明菜ちゃん、どうしてここに?」
「いや、なんか今日部員の集まり悪いから深世さんが捜して来いって。ていうかどうしてって、眞虚ちゃんこそ部活サボってなにしてんの? チョコつくってんの?」  開いた扉の片側を抑えながら調理室を覗きこむ杏虎に、眞虚は「チョコ作ってるのは水祢くん」と答る。
「ふーん」
 杏虎は割とどうでも良さげにそう答えて調理室内に入ると、水祢が作業する様をしげしげと見つめた。
「……何」
「いや……そっか。火遠にかー」
 いつも以上に苛立った様子の水祢を前に、しかし杏虎は平然と対応する。それからさり気なく冷蔵庫を開けて中身が空であることを確認すると、「ちぇー」と言いながらその扉をパタリと閉ざした。
 そのあんまりにも自由な様に眞虚がポカンとしていると、扉の前に立ち尽くしたままだった明菜が「あの」と口を開いた。
「烏貝先輩と黒梅先輩見てませんか? 黒梅先輩は荷物は美術室にあるんですけど、歩先輩も戮飢先輩も見てないって……」
「乙瓜ちゃんと魔鬼ちゃん……?」
 呟き、眞虚は己の記憶を辿る。同じクラスの乙瓜は帰りのHRホームルームまでは同じ教室に居た筈だが、その後はいつも通り美術室へ向かったのだと漠然と思っていた。同じクラスの乙瓜ですらそうなのだから、隣のクラスの魔鬼などは猶更だ。
「ごめんね、でも少なくとも調理室ここには来てないかな」
「そうですか」
 困り顔の後輩は益々困り顔になって、それでも「ありがとうございます」と結んだ。
「二人ともどこ行っちゃったのかな……?」
 首を傾げる眞虚の脳裏には、一瞬『怪事』という言葉が浮かんでいた。
(まさか怪事に……? 【月喰の影】が……?)
 嫌な想像に不安を掻き立てられ、眞虚は再び眉を顰めた。明菜はそんな先輩の表情の変化に気づいてか、恐る恐る「先輩?」と声をかける。彼女としては、眞虚ら先輩陣がまたあのスキー合宿前の調子に戻ってしまうのではないかと心配なのだ。
「大丈夫ですよ、烏貝先輩と黒梅先輩ですよ? ……こんなこと無責任かもしれないですけど、なにかあってもあの先輩たちなら大丈夫ですって」
「明菜ちゃ――うん。そうだよね。……ありがとう」
 多分でなくとも己を元気づけようとしている後輩の意を汲み取り、眞虚は小さく笑みを作った。そんな中、調理室の未使用机にどっかりと座り、するともなしに足を揺らしていた杏虎がふと立ち上がる。
 床にタンと足を付き、校舎北側の窓を睨む。やや遅れてチョコを型に流していた水祢が何かに感付いたように手を止める。
「どうしたの……?」
 二人のただならぬ様子に気付き眞虚が訪ねると、水祢はふところから黒い護符を取り出しながらこう答えた。「来る」と。
「「えっ?」」
 眞虚と明菜が声を重ねる中、杏虎は既に蒼き弓――雨月張弓を顕現させており、何の合図も無く光の弓を窓に向かって一直線に放った。同時、水祢が黒い護符を結界として展開させる。
 次の瞬間窓硝子は砕け、幾多の破片が調理室に飛び散る。眞虚はその破片の雨から明菜を庇うようにしながら扉の外側に隠れた後、漸く何かがおかしいことに気づいた。
 はじめ眞虚は、窓を割ったのは杏虎の矢だと思っていた。けれども教室内から外へ向けて放った矢が硝子を破壊する時、破片の大半は屋外へと向かう筈だ。しかし、今飛び散ったこの破片は外から内へと向かってきた。それは決して気のせいなどではない。現に少し振り返って見れば調理室内に散らばる大小さまざまな破片が確認でき、中には眞虚たちが身を隠した扉のすぐ横まで到達しているものもある。
 眞虚は己の咄嗟の行動が正しかった事に安堵しつつも確信する。これが外部からの攻撃であると。
「せ、せせ、先輩……!?」
「ごめん明菜ちゃん、ここに居て」
 突然の事で疑問すら出せずに震える明菜にそう言い残し、眞虚は調理室内を用心深く覗き込んだ。それとほぼ同時、すっかり様相の変わってしまった調理室内から怒りの言葉が響く。
「……よくもよくも台無しにしてくれたね」
 決して大きくはない、けれども確かに怒りに燃えて震える言葉が――草萼水祢の言葉が。眞虚が覗きこんだ先で結界に守られながら立つ彼の前には、守り切れずに破片が突き刺さったチョコレートの姿が在る。……水祢が噴火寸前である事を察するには充分だった。
 そんな惨状・・の中、教壇の影から杏虎がひょっこりと顔を出す。
 どうやら無事そうな友人の姿に眞虚が安堵する一方、杏虎の方はと言えば眞虚にも水祢にも目をくれず、ただ「外したか」とだけ吐いて舌打ちした。
 そうして杏虎が立ち上がる中、眞虚は割れた窓の方向に嫌な気配を感じた。
 ゆっくりと、恐る恐る視線を移す。そして水祢や杏虎の視線と交差したその場所に、眞虚はそれ・・を見た。
 杖と云うべきか武器と言うべきか。沢山の鈴の付いた大きな棒を掲げる、白いおかっぱ頭の異様な風体の女。
 彼女は調理室内を、水祢を、杏虎を、そして覗きこむ眞虚を見てニコリと目を細めると、手にしたの石突をシャランと床に付け、それに寄りかかるように身体を曲げながら口を開いた。

「良い感じのお出迎えで嬉しいわねぇ。あたしかずら。月喰の影【三日月】関東地区総括部隊長、葵月蘰よ。――こう名乗ったのだから、目的は今更言うまでもないわよねえ?」

 品を作るように、そして煽るようにそう言って、蘰はニヤリと口角を上げた。

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