怪事捜話
第十七談・雪山妖霊スノーデイ⑤

「……それで、このホテルの中に何か・・が居る、と」
 一度スキー場に出て戻った夕方。ホテルの廊下で魔鬼に捕まえられた乙瓜は、彼女の話を聞いて神妙に眉を寄せた。
「そうなんだよー。まあそんなわけだから、そっちの方でも何かあったらよろしく。……まあ、火遠の奴らは『ここは古霊町じゃないから、みかけたら対処する程度でいいよ』とか言ってたけど」
「古霊町じゃないからって――ああ、大霊道の件には関係しないとかそういう? まあわかった」
 乙瓜は一つ頷くと、「ていうか、火遠の奴は来たなら俺らにも一言挨拶してけよ」と愚痴を零し、それから魔鬼に軽く手を振って411号室へと戻って行った。それを見送った魔鬼もまた414号室へと戻る。くつろぐ為ではなく、次の行動に入る為だ。合宿のスケジュールは普段の学校より自由が少ない。
(あんまり勝手に動けないし、寒いとか寒くないとかのレベルで終わってくれるといいんだけどな。あるいは火遠と水祢あいつらが対処してくれればそれでもいいけど、よくよく考えたら何号室泊まってるとか知らないし、今は何をやってるんだか)
 魔鬼がそう考えていた頃、火遠と水祢はのんびりと温泉に入っていたりするのだが、そんなことは彼女の知る由もないし、知らない方が吉だろう。
 だが、414号室のドアノブに手を伸ばしかけた時、魔鬼はふと何かを思った。
(いや、まてよ……。なんか前にもこんなことが……)
 既視感、デジャヴ。以前にも似たような体験をしたような感覚。だがその正体を今一つ思い出せない魔鬼は首を傾げるだけ傾げた後、まあいずれ思い出すだろうと自分に言い聞かせ、部屋に戻ったのだった。

 そうこうしている間にあっという間に陽は沈み、黒い夜が山裾やますそを登ってやってくる。
 山奥のホテルの窓からは、綺麗な夜景なんて気の効いたものは見えず。ただ山颪やまおろしの風音とそれに吹かれる木々の戦慄わななきだけが、暗闇の中を遠く近くにこだましていた。
 そんな外界の音をカーテン越しに聞く乙瓜は、広縁から畳敷きの客室をするともなしに見つめていた。
 時刻は間もなく9時を回り、そろそろ消灯して就寝しなければならない頃合いだ。だが部屋狭しと敷き詰められた布団の上に居るクラスメートたちはというと、お決まりのカードゲームをしたり、バラエティ番組を見ながらゲストの若手俳優にお熱を上げていたりと、眠る気配は欠片もない。まあ普段より疲労が溜まる日程とはいえ9時のドラマが漸く始まる時間帯に寝ろというのだ。恐らく消灯してからも暫くは起きているだろう。
 それは乙瓜にもまた言える事だった。彼女は未だ来ない眠気を待ちつつ魔鬼から聞かされた"怪事"の話に思いを馳せ、どうしたものかとぼんやりと考えていた。
 自分は未だ直接会っていないものの、このホテルの中に火遠らが居て、その彼らが「みかけたら対処する程度でいい」と言うくらいなら、怪事はそれほど深刻なものでもないのだろう。【月】との関係も薄そうだ。
「結局、何もしなくても大丈夫ってことなんかな」
「しらない。余裕あったらすればいいって話じゃね」
 ポツリと漏らした乙瓜の言葉に、向かい側の椅子に掛ける杏虎が答える。彼女はケータイを幾らか弄ってパタンと閉じると、ふと窓側を見遣った。
 寒々しくおどろおどろしい風と木々の音しか聞こえない外を。何かを見つけたようにじっと見つめた彼女に気づいて、乙瓜はそれを振り返る。
「杏虎?」
 怪訝に名を呼ぶと、杏虎は「いや」と何かを否定しかけた後、一拍妙な間を置いてから「乙瓜には聴こえない?」と続けた。
「何かって…………風の音くらいしか聞こえないけど」
 窓越しの音に耳を傾け、しかし乙瓜の耳にはそれまで聞こえていた以上の物音は聞こえない。だとしたら、と乙瓜は考える。
「それ、どんな音だ?」
「声。ていうか多分歌。子守歌みたいな」
 即答する杏虎に乙瓜は確信する。杏虎は自分たち美術部の誰よりも、この世に存在しないモノの音を聴く能力が高い。彼女は今、窓の外に――この夜の森に潜む何者かに反応しているのだ、と。
「……山の妖怪か何かかな」
 より声を潜めて訊ねる乙瓜に、杏虎は「そこまではわからない」と答え、顔を上げた。
「だけどホテルこっちには向かってないと思う。多分敵意はない。今のところは」
 杏虎は存外あっさりとそう言うと、うーんと伸びをはじめた。どうやら消灯を前にして律儀にも眠る気らしい。
「寝んのか?」
「寝るー。つかなんか、アレ・・聴いてたら眠くなってきた。こりゃだめだ。おやすみ。んにゃ」
 欠伸を噛み殺すように意味を成さない言葉を発し、杏虎は自分の布団へと戻っていった。反応した何人かのクラスメートが「もう寝るの?」という疑問文の後に「おやすみ」を言う。乙瓜もまた便乗するように「おやすみ」を告げ、改めて屋外の音に耳を傾けた。そしてやはり意味を成す音が聞こえないと確認すると、諦めたように立ち上がり、自分もまた己の布団へと戻った。
 相変わらず眠くはない。かといって明日に備る殊勝な心掛けからでもない。ただこれ以上やる事が特に思い浮かばなかっただけだ。
も寝る」と布団に潜り込むと、寄って来た遊嬉が心底残念そうに「怪談しないの?」と不満を漏らす。
「怪談しないの怪談ー? 消灯したらやろうと思ってるんだけど??」
「しないよ怪談、普段してるじゃんか怪談。……ていうか去年、いや一昨年? 俺ら合宿でえらい目に遭ったって言ったじゃないか。そもそもなんで俺に限って引き留める」
「だぁってさー、杏虎有無を言わさぬ感じだったし。ていうかもう寝てるし」
 遊嬉が頬を膨れさせながら示す先で、杏虎は既に静かな寝息を立てていた。それは狸寝入りである可能性もあるだろうが、先程の様子からして本当にもう眠ったんだろうと乙瓜は思った。
「あんまり騒いで起こすと殺されるぞ。ていうか眞虚ちゃん居るからいいじゃないか」
「眞虚ちゃん、消灯したら寝るって」
「……一人でやれよ。ていうか暇ならホテルのどっかに居る何か捜しに行けば。怒られても知らんけど」
「ん。それはもっとみんなが寝静まってから」
「やるつもりなのかよ」
 呆れ顔を隠すよう目の下まで布団を被る乙瓜に、遊嬉はコクリと頷いてみせた。ちなみにホテルで起こっているらしき怪事については既に美術部各員に通達済みである(深世を除く)。乙瓜は「まあいいか」と判断したが、遊嬉は積極的に関わる気満々らしい。
 そんな遊嬉を見つつ、乙瓜はふと何かを思い、それを口にした。
「そういえばさ遊嬉。山から子守歌が聞こえる、みたいな怪談しらんか?」
「子守歌? さあてそんなのがあったかどうか――……なに、杏虎それで寝ちゃったとか?」
 伊達に北中美術部はしていないらしい遊嬉の察しの良さに、乙瓜はコクコクと頷いた。遊嬉は腕組みして幾らか考えるようにした後に、「わかんないけど」と前置きした上でこう言った。

「雪女でも歌ってるんじゃない?」


 やがて人の声も疎らになり、夜は深くに沈んでいく。強い風は雲を運び、雲はその身から雪を降らせる。一時いっときの降雪。雪は深々と降り積もり、大地を白く白く染め上げる。
 ――そんな真夜中。

「……ねえ、乙瓜ちゃん。乙瓜ちゃんったら」
「う、ううん……何……?」
 誰かに身を揺さぶられ、乙瓜が目を覚ますと、辺りはまだ真っ暗だった。寝ぼけまなこと回らない頭で、数十秒かけて漸く電気が点いていないのだと理解した乙瓜は、「まだ夜じゃんか」と、自分を起こした人物に悪態をつく。
「ごめんね……でも」
 申し訳なさそうに言った、その誰かの声は眞虚のものだった。乙瓜がそれに気づいた中、眞虚の声は更に続けた。
「起こさないようにそっと外に来て。みんなももう待ってる・・・・・・・・・
みんな・・・?」
 怪訝に聞き返す乙瓜に、闇の中の眞虚の気配はコクリと頷いた。乙瓜の目にはもう彼女の姿がはっきりと見えていた。眞虚は乙瓜の手を引き立ち上がるよう促すと、眠るクラスメートの間を注意深く抜けるように歩き出した。
 乙瓜は手を引かれるままに客間を進み、音を立てないように部屋玄関へ、そして廊下へと出た。蛍光灯が落とされてすっかり暗くなった廊下は、しかし常夜灯と非常灯の灯りによって室内の何倍も明るく見えた。
 そんな廊下に、既に数人の人影があった。よくよく見るまでも無く、それは杏虎と遊嬉、そして別室に泊まっている魔鬼――いつもの美術部メンバーだった。薄明りの中眠そうに、或いは何ともなさそうに、それぞれ違う表情で立つ彼女らの下に連れられて、乙瓜は「?」と首を傾げた。
「眞虚ちゃん、これ一体どういう?」
「どうって……。私も火遠くんと水祢くんに、一人ずつ起こして来てって頼まれただけだから……」
 言って眞虚が振り返った廊下の先には見知った二人――火遠と水祢の姿があった。普段と違うところといえば、揃いの黒いコートを羽織っている事くらいか。
 そんな火遠を忌々し気に睨み、乙瓜は「睡眠の邪魔すんなよ」と零す。魔鬼や杏虎も同じ気持ちだったようで、言葉に出さずとも物申したさ気な視線をジトリと火遠に向けている。
 火遠はそれら視線をことごとくスルーし、何事も無かったように美術部たちに歩み寄る。水祢もまたそれに続く。
「お休み中だったところ悪いね」
「悪いと思うなら起こさないで欲しかった」
 絶対に悪いとも思っていない調子の火遠に乙瓜が言い返すと、火遠はこれまた言い訳する風でもなく「でも今くらいしか時間取れないだろう?」と小首を傾げた。
「時間? 何の」
「【灯火】へ行く時間さ。先生たちも寝ている今ぐらいしかチャンスはないだろう?」
 あまりにもあっさりとそう言うと、火遠は水祢に何かを促した。水祢は黙って頷くと、コートのふところから数枚の護符を取り出した。赤地に黒文字。見慣れぬ護符だった。
「待て、今から行くのか?」
「当たり前じゃあないか。何を今更。まあ、行くったって移動に時間がかかるものじゃあないから安心しなよ。水祢」
 火遠が言うと、水祢は赤い護符を宙に放った。一つ、二つ、三つ、四つ。四方に飛び、地に落ちることなく空中に留まるそれらに顔を向け、火遠は言葉を続けた。
「【灯火】本部は疑似神域の内側に存在する現世と隔絶した場所。中心に設定した土地・・・・・・・・・から一定の圏内で疑似神域そのばしょにアクセスすることが出来れば、物理的な移動を要しないのさ。こんな風なを使ったりすればね」
 にやりとし、火遠は護符に囲われた空間に手を伸ばした。そしてシンプルに一言「開け」とだけ言った。
 刹那、空間がぐにゃりと歪む。雫を落とした水面のように、護符で囲われた向こう側の景色がぐにゃぐにゃと形を変え。やがて切り取られたようなが姿を現した。
 ――否、それは白ではない。その向こう側・・・・から、溢れんばかりの光が漏れ出しているのだ。
「わあお!」
 遊嬉が小さく歓声を上げる。その他四人はどちらかと言えば唖然としている。そんな彼女らを振り返り、火遠は言った。導くように。

「ここから先が君たちが招かれる場所、そして君たちの行くべき場所だ。――ようこそ、【灯火】へ」

 ほどなく、ホテルから五人の生徒の姿が消えた。それを静かに見守るように、凍てつく夜に幽かな歌声が響いていた――。

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