怪事捜話
第二談・小鳥の呪い、願いの札④

「今から――もう四年前になるのかな。私が古霊町に越してくる少し前の話」
 そう前置きして、彼女は語り出した。


 それは、小鳥眞虚が小学四年生の頃の出来事。
 両親の都合で小学校に入る頃から各地を転々としていた彼女は、その頃も古霊町から遠く離れた四国の某県に住んでいた。
 眞虚は元々が人に好かれる性質なのか、どこへ転校してもすぐに友達を作ることが出来たが、やっと築き上げた関係を引っ越し・転校の度に失うのが嫌いだった。
 しかし幼い眞虚は両親の都合に反抗することも出来ず、次第にそれを「しかたないこと」として諦めるようになった。
 その日も、彼女は漸く馴染んできたその町からも引っ越す事を母に伝えられ、酷く沈んだ気持ちでいた。
 それでも学校に行って、教師やクラスメートにそのことを伝え。短い付き合いだというのに泣きだす級友を前にして、更に重い足取りで帰宅する途中。眞虚は誘拐された。
「多分後ろから頭を殴られたのかな」
 そう言いながら後頭部を軽く撫でる眞虚。
 下校途中の道で後頭部に鈍い衝撃を感じた彼女は、気付けば見知らぬ小屋の床に転がされていて居たという。
 手足はロープで縛られ、取り囲むように配置された木箱のバリケードの向こうには複数の人間の気配。その状況を把握した瞬間、眞虚はこれが誘拐であると理解した。

今日日きょうび珍しく身代金の電話をかけてる風だったから、ちゃんと私だってわかってて誘拐したんだろうね。うちの両親、結構稼いでたみたいだし……」
 眞虚はうんざりしたように息を吐いた。
「……そんな状況からよくも無事で戻って来たね?」
 水祢が嫌味たらしくそう言うと、眞虚はクスリと笑った。
「私がどうこうしたわけじゃないよ。かといって警察が解決したわけでもない。……言ったでしょ、水祢くん。私は悪魔に会ったの」
「悪魔」
「そう、悪魔。……アレは綺麗で神秘的で――そして不気味な鳥だったなぁ」
 眞虚は当時の光景を思い出すように目を瞑り、その悪魔について語り出した。
「どこからか現れたそれは、真っ白い孔雀の姿をしていたの。そして私に語りかけてきた。それだけでもうただの鳥でないのは明らかなのに、孔雀は私を助けてくれると言ったの。……けれど、助ける代わりにと一つ条件を出された。『卵を温めて欲しい』と。鳥は私にそう言った。……そして私はそれに首を縦に振った」
「そうして助かったと、そう言いたいの」
「うん。孔雀は私の願いを二つも叶えてくれた」
「二つ……?」
 水祢は怪訝な視線を眞虚に向けた。そんな彼に対して眞虚は一つ微笑むと口を開いた。
「一つは、ここから助けて欲しいって願い。そしてもう一つは、……きっと、これ以上友達と別れたくないっていう、自分でも忘れかけてた願いなんだろうね。結局四国からは越しちゃったけど、お父さんもお母さんも古霊町に落ち着くことになって、まだ当分移動はしないみたい」
 眞虚はどこか懐かしむような目で言いながら、そっと下腹部に手を当てた。
「……だけどね。誘拐事件以降、親類は私の事を気味悪がるようになった。只でさえ付き合いが薄かったのが、一層疎遠になって行った。何でだと思う? ……その原因の一つが、これ」
 そう言って眞虚は自分の目を指差した。水祢はハッとした。
(この女、気付いていたのか……)
 眉をひそめる水祢の視線の先には、やはり真っ赤な瞳がある。血のような瞳が淡く怪しく輝く、大凡おおよそただの人間のものとは思えない目が。
 眞虚は知っていたのだ。誰に指摘されるまでもなく、自分の異変に気付いていた。
「私、あの時孔雀に卵を貰った。温めてくれって、お腹の中に埋め込まれたの。それから私の目は真っ赤になって、時々光るようになった。……聞いちゃったの。前にお母さんと伯父さんが私の事について電話で口論してるのを。伯父さん、私の事不気味だって言ってた」
 眞虚は自分で自分の腕をギュッと抑え、少し俯いた。
「……でも、ずっと言われっぱなしは嫌で、少し調べたんだよ。あの鳥が何者だったのか。そうしたら、わかった。あれは悪魔だったんだって」
 言いながら泣きだしそうに声を震わせる眞虚を見て、水祢は口を開いた。
「地獄の侯爵アンドレアルフス」
 唐突に水祢が言い放った言葉を受け、眞虚はハッと目を見開く。
 その、さも意外だと言いたげな表情を見て水祢は「やっぱり」と目を伏せた。
「水祢くん、知ってるの……?」
「偶々。前に少しだけ悪魔のことを知る機会があっただけ」
 水祢はそう言うと、眞虚の寄り掛かる手すりまで歩み寄り、腕を掛けた。
「騒音と共に孔雀の姿で現れる悪魔。種々の知識や技術を与え、生贄を与えると人を鳥の姿に変える。……確かそうでしょ?」
 頬杖を付いて振り向く水祢に、眞虚はコクリと頷いた。
 その様子を見て、水祢は珍しくクスクスと笑う。――その様子は彼の兄にそっくりだった。
「お前がどうやって助かったのか、成程。納得した。悪魔はお前を逃がす為に鳥にしたんだ。誘拐犯達を生贄にして。……お前が敢て言わなかったのか知らないけど、その後そいつらは見つかった? ……無いでしょ。だってもうこの世に居ないんだもの。だとしたら、ご愁傷様。きっとお前は呪われている」
「……うん」
 眞虚はニヤリと口角を上げる水祢にたじろぎながら頷いた。
 ……彼の言う通りだった。眞虚を攫った誘拐犯は全部で三人居たと見られているが、今日まで一人として見つかってはいない。
 犯行現場の小屋は発見されたがそこに犯人グループの姿はなく、それでいて車や金品の類は置きっぱなし。
 小屋の中にはおびただしい量の血痕が残されており、警察は内輪揉めの末殺し合いに発展したのだろうと結論付けていたが……仮にそうだったとして。……死体はどこへ消えたというのか。
 勿論その三人とは別の誰かが処分した可能性もあるわけだが、眞虚は思う。
 きっと彼等の死体は何処を捜しても見つからないだろうと。そして自分はあの時確かに鳥になったのだと。
 水祢には言っていない事だが、眞虚が囚われていた小屋は四国内である一方で、保護されたのは岐阜の山中を通る県道だった。
 少なくとも致死量の血を流している筈の犯人たちが誰にも悟られず移動できる距離ではなく、仮に第三者が居たとしても態々遠方の山の中に、しかも生かしたまま放置しておくのはいささか不可解だ。
 そして更に不可解な事に、発見された時の眞虚は全く衰弱していなかったのである。
 誘拐されてから発見まで十日、本人には一度足りとも何かを口にした覚えがないにも関わらずだ……!
「今日は従姉さんが主役だから特に何も聞かれないけど、時々居るんだ。その時の事蒸し返されること。……だから私ずっと憂鬱だった。だってあまりいい思い出じゃないし……やっぱり、自分でも気持ち悪いと思うし」
 眞虚はそう言って深く溜息を吐いた。
「……そんな言いたくもない話を俺にはするんだ?」
 さも呆れたように言う水祢に、眞虚は少し困ったように言う。
「だって、水祢くんは――……うーん、何て言うのかな。えと、うん。断ってもいいのにこんなところにまでわざわざついて来てくれるんだもん、言っちゃってもいいやって思ったから、かな?」
「何それ。打ち明けるならいつもの連中の誰かでもいいじゃないか」
 水祢はいつも眞虚が仲良くしている美術部メンバーの事を思い浮かべながら提案するが、当の眞虚は「だめだよ」と否定した。
「みんなには内緒。……だって、心配掛けちゃうもん。……だけどね。中学校で魔鬼ちゃんや、乙瓜ちゃんや、遊嬉ちゃんたちに、そして火遠くんや水祢くんに会えて。怖いけどなんだか楽しい日々があって。少しくらいヘンな私でもいいやって、そう思ったりして。ちょっとだけ救われたような気持ちになったりして」
 眞虚は儚げに笑いながら、「でもね」と付け加えた。
「時々不安になる。何だこんなことって、笑わないでね? ……今が幸せすぎて、不安なの。この幸せの数歩先に、底の見えない不安があるんじゃないかって。今日の従姉さんみたいには永遠になれないんじゃないかって。だから――」
 その時水祢は眞虚の言葉に重なるように響く、岸壁に打ち付ける波のような強い音――この展望台からは聞こえる筈の無い音を聞いた。
 それに気づいた瞬間、彼の顔色がサッと変わった。目の前では眞虚が今まさに次の句を紡ごうとしている。水祢は叫んだ。

「駄目、そこから先を言っちゃ――」
 ……けれど彼の叫び虚しく、眞虚はその先の言葉を紡いでしまった。

「――なんだか、こわい」

 瞬間、眞虚の寄り掛かっていた手すりの背後から真っ黒い何かが噴水ように立ち上る。
 まるで蛇のようにうねうねと蠢くそれはよく見ると無数の手の集合体であり、あっという間に眞虚の身体に群がると、彼女を自分たちの内側へと引きずり込んで行った。
「眞虚ッ!!」
 水祢が手を伸ばしたときには既に遅い。
 眞虚は黒いモノに飲み込まれ、水祢の前には脱げ落ちた靴が転がっているのみ。眞虚を飲みこんだ黒い何かは依然としてそこに在り、喜び悶えるように身を震わせている。
「おまえか……ッ」
 水祢は黒いモノをキッと睨みつけた。彼にはそれが何であるか分かっていた。
 ――この場に巣食う呪いの塊。式場に入る前に感じた嫌な空気と同じ気配を纏うそれは、嘲笑うように蠢いた。
 誰かの幸せは別の誰かにとっても幸せとは限らない。
 嫉妬や羨望、恨みや妬みなどは、多かれ少なかれついてまわるもの。
 ましてやここは結婚式場。誰かの取り合い駆け引きの末の勝ち負け、誰かの淡い片思いの終焉しゅうえんの末に幸福がある所。
 白く輝く祝福の向こう側には、隙あらば不幸の谷へ引き摺り落とそうと這い寄るどす黒い怨念がある。

 眞虚を飲みこんで行ったモノの正体はそれだった。

 何人もの幸福の裏で積もり積もった誰かの怨念が、その誰かも知らない所で呪いと化したモノ。
 それ・・が眞虚に目を付けていることに、水祢は最初から気付いていた。
 同種のものを別の場所で何度も目撃してきたからだ。そして知っていた。
 この手の怨念は次から次へと負の感情を取り込んでより強大に成長していくのだと。
 黒いモノは眞虚の中にくすぶっている感情に目を付けたのだ。
 祝福よりも濃い嫌悪や引け目、花嫁への羨望は、それにとって恰好の養分だったからだ。
 そして何よりも魅力的だったのは、眞虚が抱える悪魔の卵。
 本来強すぎる為手の出せない悪魔の力と同等のものを持ち、それでいて全く抵抗する力を持てない卵というのは滅多に無いもので、この手の存在としては何としてでも手に入れたい御馳走だった。
 故に、それ・・は眞虚を誘導していたのだ。不安になるように、自らの付け入る心の隙を作るように。
 ――やられた。そう思い、水祢はギリと歯ぎしりした。
 気付いていた以上、彼とて何の対策もしていなかったわけでは無い。嫌々ながらも眞虚の傍を片時も離れなかったし、式が始まる前に眞虚に注意したのもその為だった。
 ――にも関わらず、抜け出した後の彼女の明るい笑顔を見て完全に油断していた。そしてその一瞬の隙を付かれ、眞虚を持っていかれてしまった。
「よくもこの俺を欺いてくれたね……?」
 水祢は怒りに満ちた目でそれ・・を見た。
 煽るようにぐねぐねと体を揺らすそれの中では、今頃眞虚が消化されようとしているところだろう。
 水祢は思う。正直、この程度の存在なら自分の力で今にでも消滅させることが出来る。
 今までそれをしなかったのは、単にそれ・・が姿を現して居なかったからに過ぎない。……しかし。
 あの黒いモノの中には眞虚が居る。今攻撃を仕掛けたとして、同化しかけている眞虚が無事で済む保証はない。
 故に水祢は躊躇ためらった。それまで兄以外の存在なんて殆どどうなろうが構わないと思っていた水祢が、である。
 そんな彼を馬鹿にするように、それ・・はまるで囃し立てるように黒い触手を伸ばすと、水祢にむけて一斉に放った。
 どうやら手だししてこないのを見て慢心したのか、あわよくばこちらも取り込んでやろうという魂胆らしい。
 水祢は襲い掛かってくる手に抵抗しながら必死で考えを巡らせた。
 この呪いの塊がすぐに去らなかったのは、眞虚を消化しきれていないからだ。腹が膨れて動きたくない、というところか。
 ……おかしな話ではあるが、その辺の仕組みは動物と何ら変わらないのだろう。
 ――それが自分に触手を伸ばしてきた、ということは。
 まさか。水祢は想像し、そして叫んだ。
「返事をしろ小鳥眞虚ッ! 思わなければ消えてしまう、存在自体が無かったことになってしまう! それでいいのか……っ!」
 水祢は声を張り上げ、黒いモノの中にまだ残っている筈の眞虚に向けて呼びかけた。しかし返事はなく、水祢は舌打ちする。
「この意気地なし! 聞こえてるんでしょ、手間取らせないでッ! 幾ら俺だってね……いきなり目の前で人が消えるなんてのは後味が悪いとか思うんだからね、わかるでしょ! 心配掛けるから誰にも言えないとか言って、本当は誰かに聞いてほしかったんじゃないか。馬鹿ね、はっきりすればいいじゃないっ、この――」
 臆病者、と言いかけて水祢は口を噤んだ。まるで自分自身に怒っているような、そんな気がしたからだ。
 を確かに愛していたけれど、本当の事を面と向かって伝えられなかった、遠い昔の自分自身に。
「チッ……!」
 舌打ちする水祢。その一瞬だけ立ち止まった足に触手が絡み、水祢の身体は宙へと浮かび上がった。
 しくじったと顔を歪める水祢、ずるりと引っ張り込まれる先にある触手たちの本体。
 その本体に飲み込まれる瞬間、水祢は音を聞いた。

 ――ざざん、ざざん。



 黒いモノの体内にある、やはり真っ暗な空間の中に眞虚は居た。
 何処が天で何処が地か、己の輪郭すらも分からないその闇の中で、眞虚は怯えるように耳を塞いで身を縮める。
 彼女には聞こえていた。何処からともなく、そして絶えず聞こえてくるその声が。

 ――羨ましい。
 ――妬ましい。
 ――悔しい。
 ――悲しい。
 ――恨めしい。
 ――一人だけ狡い。
 ――……あなたも不幸になればいいのに。

 様々な負の感情、思い思いの呪いの言葉が指をすり抜けて鼓膜へ届く。その濁流に耐えきれず、眞虚は声にならない叫びを上げる。
 だがその叫びは誰にも届かない。普段怪事を解決すべく動いている例の二人も、ここには居ない。けれど眞虚は叫び続けた。そうしなければ自分が自分で無くなってしまうような、そんな気がしたからだ。
 ――早く誰か私を見つけて! 早く誰か私を助けて!
 叫んで抜けた言葉の分だけ自分が闇に溶けて行くような気がして、眞虚は心の中で絶叫する。
(あアあああアあああああああぁァああああああぁあああアアああッ!!! ……ああ、私は……! もう、私が……!)
 もう自分が何者なのかすら曖昧になる中、彼女は二つの目から零れ落ちる生暖かいものを感じた。それを認識した瞬間、彼女は暗闇の中に光るものを見た。
 青い二つの光。視界の遥か彼方で輝くその光に、彼女は見覚えがあるような気がした。
 けれど、それが何だったか思い出せない。もう何も分からない。自分が崩れていく。闇に砕かれ消えていく。
 そうして彼女が全てを諦めようとした、その時。

「手を伸ばせ、小鳥眞虚!」

 すぐ間近で響いた声に、彼女はハッと目を見開いた。気付けば、何も見えないと思っていたそこには、彼女に向けて手を伸ばす彼――草萼水祢の姿がある。
 その瞬間、眞虚は思い出した。自分がどこの誰であるのか、どんな顔でどんな姿をしているのか。忘れようもないのに忘れそうになっていた事を思い出した。
「水祢くん!」
 眞虚は水祢に手を伸ばす。しかし眞虚の身体は奈落の底へ引っ張られるように沈んでいき、水祢から引き離されていく。
「駄目だよ水祢くん、逃げて! 私の事はいいからッ」
「馬鹿、何馬鹿な事言ってるんだこの馬鹿! お前がここで消えたとして、こっちは兄さんやあいつらに何て説明したらいいと思ってるの! 死ぬならせめて俺が見てない所にしてッ! 本当に……馬鹿!」
 水祢は何度も馬鹿馬鹿と言いながらも、眞虚を追うように沈み込んで来る。
 眞虚はそんな彼の言動を嬉しく思いつつも、しかし駄目だと首を振る。
「水祢くんだって大事な人がいるじゃない……! 私なんかの為にこんなとこ来ちゃ駄目だよっ……!」
「煩い、馬鹿! 言っとくけどね、俺はお前と心中しに来たわけじゃないんだからねッ!? あんまりにも馬鹿で愚かなお前を引っ張り上げて連れて帰る為に来たんだから。勘違いしないでよね!?」
「えっ……?」
 ぽかんと口を開ける眞虚に、水祢はぐっと手を伸ばした。その指先が眞虚の指先に届くと、彼はにやっと笑った。
「"助けて"と言え小鳥眞虚。尤も、これは悪魔の契約じゃない。俺はお前を助けない。その代り、助かるだけの力をやる。自分で勝手に巻き込まれたんだから、自分で勝手に助かって。いい? 分かった? 分かったら早い所同意して」
 畳みかけるように言葉を紡ぐ水祢に眞虚は少々呆気に取られるも、彼女の答えは一つだった。だから眞虚は。「早く」と急かす彼に、こう答えたのだった。

「――"助けて!"」
「それだッ!」
 眞虚が答えるなり、水祢の腕がいつか見た老木のような異形の腕に変化する。
 そしてその巨大な手で眞虚の身体をがっしりと掴むと、へ向かって勢いよく放り投げた。
「水祢くん!?」
 突然の事に驚く眞虚の眼下で、水祢の声が響く。
『契約宣誓! 一つ、この者に我の持つ力を分け与える事! 一つ、この者の存在を「小鳥眞虚」として証明すること! 以上! 我が契約の名はソウガクミズネ、契約主はコトリマコ。契約承認待機、……契約完了!』
 まるで何者かに誓うような言葉が終わるや否や、眞虚は闇から一転、眩いばかりの光に包まれる。
 思わず目を瞑った彼女の耳に「受け取れ」という言葉が届く。
 その瞬間、眞虚は全身を清い何かが通り抜けて行ったのを感じた。
 まるで綺麗な清流のような、すっと透き通る感覚が闇に飲まれそうだった心を優しく包み、潤されて行くような不思議な感覚だった。
 それを感じた直後、眞虚は頭の中に何かが入り込んでくるのを感じた。
 それは言葉のようだった。声が聞こえたというわけではない。まるで本で読んだ事のように、知識そのものが入り込んでくる、そんな感覚だった。
(知らない、けれど知ってる。私はこれを知ってる……!)
 眞虚はカッと目を見開いた。彼女には分かった。それが水祢の与えてくれた力だと、ここから助かる為の力の使い方であるのだと識った。
 周囲には既に闇が戻っており、水祢の姿も見えない。けれど眞虚にはもう不安は無かった。
 そして眞虚は思い浮かべる。怪事を前にして勇敢に戦う乙瓜や魔鬼の姿を。正直羨ましいなと思ったその姿を思い出し、眞虚は両手に力を込めた。
 ――やったことは無いけれど、きっと出来る。そんな妙な自信が眞虚の中に満ち、そして彼女は叫んだ。

「我こいねがう! 封呪の札右十八枚、滅呪の札左二十二枚! 来たれ!」

 まるで魔法の呪文のようにそう唱えると、眞虚の周囲に輝くものが生じた。
 淡く緋色に輝くそれはよく見ると護符であり、しかし乙瓜のものとは違う文字紋様を持っていた。
 次の支持を待つようにその場に留まりつづけて居る護符はまるで星の様であり、その美しい光景に眞虚は微笑を零す。
 けれど彼女には分かっていた。この美しい光を散らせて闇を断たねばならないと。
 眞虚は覚悟を決めたように眉間に力を籠め、強い言葉で宣言した。

「草萼封殺結界・茜雲あかねぐもッ!」

 彼女の言葉が引き金となり、護符たちは旋風のように舞い上がる。赤い光が尾を引いて、暗闇の世界を切り裂いていく。
『アア……ぁぁ、ああ!!』
 世界が叫びをあげている。それは黒い呪いの上げる断末魔の叫び声だった。四方八方から悔しそうな唸りを響かせて、闇が崩壊していく。
「終わった、ね」
 そう呟いた途端、眞虚は自分の身体が落下していくのを感じた。闇の中での緩やかな落下とは違う。悪意もなければ思いやりもない強力な力が下へ下へと引っ張っていく。
 それが地球の引力だと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「え、これ、えっ……!?」
 そして眞虚は思い出した。自分が展望台の手すりから落ちた事に。そしてもう一つ、見晴らしのいい展望台の下が緩く崖になっていたことに。
「嫌あっ!!」
 非常に現実的な命の危険を感じて悲鳴を上げる眞虚が、しかしそれ以上落下することは無かった。何かに引っ掻けられたような感覚の後、眞虚は崖の半ばで宙ぶらりんになる。
「……えっと?」
 何が起こったか分からずに目を白黒させる彼女の真上で、呆れたような、それでいて少し苦しそうな声がした。
「全く……もうッ! 一々手間取らせないで……ッ!」
「水祢くん!?」
 眞虚が見上げた崖上には、一人腕を伸ばして踏ん張っている水祢の姿があった。その腕は眞虚に伸びており、どうやらまた彼に助けられたようだった。
 そのことに気付き、眞虚はまた少し涙ぐむ。
「馬ッ鹿、ぼんやりしてないで早く上がってきてッ!」
 水祢は眞虚の様子を知ってか知らずか、ぷりぷりと怒っている。その様子がおかしくて、眞虚はクスリと噴き出した。
「何笑ってるのッ!」
「なんでもないよぅ」
 眞虚は水祢の手を借りて崖を這い上がった。酷く恐ろしい目に逢ったというのに、もう不安も恐れも無く。不思議とスッキリとした気持ちであった。
 ――小鳥眞虚は探していた。両親にすら頼られてしまう自分が素直に頼れる存在を、きっとどこかで探し求めていた。そして多分それは、探すまでもなくすぐ傍に居たのだ。
 それを、見つけた。眞虚にはそのことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。

 数分して崖上に引き上げられた眞虚は、それはもう酷い有様だった。折角のドレスは小枝に引っかけたのか所々破け、泥が付き。ストッキングも破れた上に髪の毛もぐしゃぐしゃで、とても宴席に戻れる様子ではなかった。
「ひっどい顔」
 水祢はそんな眞虚を見て、馬鹿にするようにそう言った。けれど眞虚は落ち込むこともなく、そうだねと笑うのだった。
「あーあ。ドレスもダメになっちゃったし、靴も片っ方どっか行っちゃったしなぁ。もう帰っちゃおうか、私たち」
 清々しい顔で言いながら、眞虚は左足をフラフラと振った。ほぼ素足同然の足を見てケラケラと笑いだす彼女に、水祢はスッと何かを差し出した。それは眞虚が展望台で落とした靴だった。
「幾らなんでも裸足じゃ帰れないでしょ」
 そう言って靴を差し出す水祢を、眞虚はキョトンとした顔で見つめた。
「……拾ってくれたの?」
「悪い?」
 不思議そうに問う眞虚に、水祢はまた機嫌の悪いような調子で答えた。けれども眞虚は悪巧みを思いついたみたいな顔をすると、ニヤニヤしながらこう言った。
「なんだ、やっぱり水祢くんは王子様だったんだね」
「はァ?」
 眞虚の言葉に水祢は最初意味が分からないと言った表情を浮かべていたが、段々と何の話であるかを思い出したのか、顔を真っ赤にしてソッポを向いてしまった。



 ガタン、ゴトンと電車は走る。
 居眠りする男性も、ゆったりと会話する老夫婦も、行楽帰りの家族連れも皆乗せて。
 ガタンゴトンと電車は揺れる。
 電車の走る線路の片側には海が見える。ほんの少し天辺から西に傾いた陽を受けて、相変らずキラキラと輝く海が見える。
 そんな海の見える位置に隣同士に座りながら、その少女と少年の間には一言の会話も無い。同じ駅から乗った上に、知らない仲でもないにも関わらず。
 けれどそれもその筈。乗客たちは彼らを見て微笑ましい気持ちでいた。
 何故なら、くたびれてしまったのか互いに寄り掛かって眠る彼等を、誰もがかわいいカップルだと思っていたから。

 ガタン、ゴトンと電車は行く。
 彼等が互いに目を覚まして顔を赤くするまで、あと数駅。



(第二談・小鳥の呪い、願いの札・完)

おまけ

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