怪事捜話
第二談・小鳥の呪い、願いの札①

 ガタン、ゴトンと電車は走る。
 文庫本を読む初老の会社員も、六駅前から立ちっぱなしの青年も、窓の外を見てはしゃぐ子供も、それを注意する母親も皆乗せて。
 ガタン、ゴトンと電車は揺れる。
 電車の走る線路の片側には海が見える。晴れた陽射しを受けてキラキラと輝く青い海。
 そんな海の見える位置に隣同士に座りながら、その少女と少年の間には一言の会話も無い。同じ駅から乗った上に、知らない仲でもないにも関わらずだ。
 少女は海を見つめていた。車窓の向こうにそれが見え始めてからずっと海を見つめていた。まるで縫い付けられてしまったかの如く。彼女は脇目も振らず、一心に海を見つめ続けていた。
 少年も海を見つめていた。しかし、不機嫌そうに真一文字に口を結び、腕組みする彼の視線は本当に海を見つめていたかは定かではない。窓の外を睨んだまま、全く別の事を考えていたのかも知れない。
 そんな彼ら二人も乗せて――ガタン、ゴトンと電車は行く。


 ――数日前。
 いよいよ待望のゴールデンウィークを目前に控えた四月末日。世間一般の新入生・新社会人たちが新しい環境に馴染みつつあるように、入学時には小学生気分の抜けきっていなかった古霊北中の新入生たちも大分落ち着きを見せ、いよいよ中学生らしい顔つきになりつつあった。それに連動するように、頻発していた「怪談自爆テロ」も終息に向かいつつあった。学校妖怪たちはやっと安息を取り戻し、乙瓜や魔鬼も一息つく。
 こうして人知れず平穏を取り戻した学校には、だからと言って何が変わるでもなく、いままで通りいつも通りの時間が流れていた。身体測定や内科検診などの新年度特有の活動を挟みつつも、授業の教科書は少しずつ進んでいくし、誰と誰が仲違いしただの、誰と誰が付き合いはじめただのと小さな話題はあれど大きな事件も無い日々。どこの学校にでもあるごくごく平凡な日常。
 そうこうしている間に美術部は六人の仮入部員を迎え、その中には先日の古虎渓明菜の姿もあった。
「先輩、先日はありがとうございました」
 明菜が自己紹介代わりに放った言葉がこれである。誰とは限定しないものの明らかに魔鬼に向けられた言葉に、魔鬼本人は嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な気持ちで顔を赤くするばかりだった。

 そんな再会からも日が経った、週末の放課後。
 薄く橙の陽射しが差し込む二階の廊下を、小鳥眞虚は歩いていた。
 既に部活は始まっている時間であり、美術室では先日入った仮入部の新入りを含む大所帯での活動が始まっている頃である。そんな中で眞虚が一人離れた場所に居るのは、所属している生徒会の会議が長引いたからに他ならない。前年度終わりの生徒会選挙の結果、前年度後期に引き続き生徒会に所属することとなった彼女は、定期的に開かれる生徒会の会議にも参加しなくてはならなかった。
 本日の議題は来月からのあいさつ運動について。あいさつ運動とはその名の通りきちんと挨拶をしようという強化週間のようなもので、その期間中は生徒会及び生活委員会では毎日数人の生徒を校門及び昇降口に出し、早朝7時半から8時5分朝のHRホームルーム開始までの間登校して来る生徒に大声で挨拶をすることとなっている。……まあ、平たく言うとその他大勢の生徒を代表して運動の模範になる役割が日替わりで巡ってくるので希望日を述べよという、学級会の延長のような会議である。
 本来ならばそれほど長引くような議題ではないが、その日生徒会では三人ほど欠席が出た為、彼らを何曜日の担当にするか考えるのに思いの外時間を食ってしまい、いつもより遅い解散となってしまった……というわけである。
 そんなわけで部活に遅刻した眞虚は、二階の廊下を歩きながらぼんやりと不安な気持ちを抱いていた。これからは面倒な事を考えずに済む部活の時間で、更に翌日は休日。だというのにどこか浮かない顔をした眞虚は、けれど美術室へと向かうべく、一人廊下を行くのだった。
「……はあ」
 何度目かわからない溜息を吐きながら、眞虚は階段にさしかかる。手すりに手を掛け、一歩一歩と段を下って行く。
 そんな彼女の頭上から、ぽつりと下りてくる声があった。
「辛気臭い顔してどうしたのさ。……小鳥眞虚」
「…………」
 聞き覚えの声に立ち止り、眞虚は振り返る。見上げた先の階上には、三階から下る階段の手すりの上から顔を出し、眞虚を見下ろす水祢の姿があった。
 ――草萼水祢。理の調停者まとめやくを自称する妖怪、草萼火遠の弟。胡散臭くもニヤニヤと笑顔を浮かべる兄と違って無愛想な水祢は、今日もやはりどこかつまらなそうな顔をして眞虚を見る。
「水祢くん」
 眞虚は水祢の姿を認めると、踵を返して下りてきた階段を一段上がった。水祢はそんな眞虚を制止するように首を振ると、手すりの隙間を越えて眞虚の居る側のへと降りてきた。
「偉く辛気臭そうな顔をしてるじゃないか」
 水祢は眞虚と同じ段に立つと、壁側に体をよりかけて腕組みした。
「……。そうかな? 結構いつも通りだと思うよ?」
「どうだか。平時はもっと楽しそうにしているだけど」
「うーん、そう言われればそうかもねぇ」
 眞虚はそう言って取り繕ったように笑った。そんな彼女の様子を見て、水祢はぽつりと呟いた。
「……何か心配事でもあるわけ?」
 その言葉に、眞虚はピクリと反応した。思い当たる節があったからだ。
 ――心配事。心配というか、憂鬱と言うか、兎に角気分が浮かないような懸念事項が、この週末に控えていた。

 その正体は、遠方に住む親類の結婚式であった。眞虚の歳の離れた従姉に当たる人がこの度結婚することとなり、その披露宴に眞虚の家族も呼ばれていた。……そこまではいい。そこまでは良かった。結婚式自体は何も悲しい事でもないし、不安に駆られるようなことでもない。眞虚としても、殆ど会ったことの無いような従姉ではあるが、素直におめでたいと思う気持ちはあった。……のだが。
 披露宴に出席する予定だった眞虚の両親が、この土壇場に来て急な仕事が入った為に出席できなくなってしまった。それがつい昨日の木曜日の事で、結婚式は日曜日。件の新婦の父に当たる伯父は母方の人間で、母が直接出席できない旨を電話したのだが、なまじ兄妹である為か揉めに揉めた。眞虚はその一部を聞いていたのだが、どうやら「普段から親類の集まりに顔も出さないのだからこんな時くらい」という事らしかった。それから眞虚が自室に戻った後も暫く言い争っていたようだが、やがて方がついたようで静かになった。しかし、それからすぐに母に呼ばれた眞虚が部屋を出ると、こんなことを告げられたのである。
『眞虚、悪いんだけど……。結婚式にはあなたが出てくれない?』
 唐突。実に唐突だった。母方に限らず碌に付き合いの無い親類の結婚式に、眞虚一人で行くことになってしまたのである。
 嫌なら行かなくてもいいと言う母に、しかし先程のやり取りを見ていた眞虚には拒否することができなかった。その上出席しない口実になるだけの予定も無い。本当なら二人分のキャンセルは二人で埋めるべきなのだろうが、小学六年生になる眞虚の弟はこの週末友人と一緒にバーベキューをする予定らしく、それを随分と楽しみにしていた。……弟思いの姉としてはとてもじゃないが連れて行けない。
 そんな事情から、眞虚はこの「非常に気乗りしないお使い」を引き受けてしまったのである。

 親戚は遠方――といっても首都圏に住んでおり、古霊町からでも電車を乗り換えて行けば数時間で辿りつける距離だ。流石にもう中学生ともなれば一人で行けない事もないだろうし、現地と古霊町を往復して足るだけの交通費にご祝儀を加えたお小遣いも今朝の時点で既に受け取ってしまっている。
 ――そこまで準備してしまって、今更行きたくないだなんて言えない。せめて誰か一人親しい知り合いでも居ればいいのに。眞虚の憂鬱はそんな思いから来ていた。

(誰か親しい知り合い……。いないよねぇ。そもそも知らない家の結婚式に連れて行ける都合よく暇な友達なんてねぇ)
 水祢の言葉を受けて再び昨晩からの悩みが頭の中で渦巻く眞虚だったが、そんな彼女の中に唐突に一つの考えが浮かぶ。
(――暇な……知り合い?)
 閃き、直感、インスピレーション。まるで神の啓示の如く、それは閃光のように眞虚の脳内を駆け廻った。
(暇……)
 眞虚はまじまじと水祢を見つめた。相手にとって物凄く失礼な自覚はあるが、目の前のこの妖怪はいつもかなり暇そうではないのか、と。それに水祢の容姿は殆どその辺の人間と変わりなく、普段の服装的にも祝いの場に居てそれほど違和感はなさそうだ。
(……いける? いける!)
 品定めするように繰り返し水祢の姿を確認し、眞虚は一人勝手に確信した。
 一方、そんな思惑など知らず、急に自分のことをじろじろと見る眞虚を気持ち悪く思った水祢は、冷ややかな目で彼女を睨んだ。
「何急に、きもちわるい」
 いつものような、否、もしかしたらいつも以上に毒気の籠った嫌味。しかし眞虚は一歩も引くことなく、むしろずんずんと水祢に迫ってくる。そんな、全く予想外の眞虚の反応に水祢は困惑した。
「おい、……まて、なに?」
 それまで美術部の中の少し気の弱そうな顔をした涙もろい奴程度にしか思っていなかった少女が、獲物を狩る鷹のような目で接近してくるのを見て、流石の水祢も何かがおかしいと悟った。だが、そう思った時には手遅れだった。
 トン、と。水祢の肩を挟んで両側の壁に、眞虚の両手が押し付けられる。前方を眞虚の身体、両側を眞虚の腕、後方を壁に阻まれた水祢は、いつの間にか逃げるタイミングを失ってしまった。本当は姿を消して逃げる事も出来たのだが、目の前にある眞虚の眼光に射竦められたからか、何故かその選択肢は浮かばなかった。
「さっきから何なのお前……っ」
 壁に追い込まれた水祢は憎々しげな視線を眞虚に送るが、眞虚は微動だにしないまま真っ直ぐに水祢を見つめ返し、そして言った。
「水祢くん。明日暇?」
「……っ、何でそんな事お前に教える必要があるのさ。…………。暇だよ、これで満足か」
「その次は?」
「はあ……?」
「その次の日曜日は。暇?」
「……だからっ、なんでそんな事教えなきゃならないんだよ……っ」
 矢継ぎ早に質問する眞虚に水祢はたじろいだ。
(というか、何でこいつ瞬きの一つもしないんだよ……!)
 水祢は思う。眞虚の只でさえ人より大きな瞳は更に大きく見開かれ、その視界に映るもの全てを飲みこみそうな威圧感を放ち続けている。その謎の気迫に気圧され、水祢は眞虚から目を逸らしながら……言った。

「…………暇だけど」

 水祢がその言葉を紡いだ瞬間。
 眞虚はゆっくりと口角を上げ、カッと見開かれていた目を細めた。満面の笑顔だった。
「そっかぁ」
 嬉しそな笑顔で眞虚は言う。しかし水祢としては、そんな眞虚のそんな笑顔が、今までに見たどんな悍ましい姿の妖怪よりも幽霊よりも、ずっと恐ろしい何かに見えていた。
(何……なに……?)
 嫌な予感を感じて背筋に悪寒を走らせる水祢。そんな彼から一歩離れ、やっと壁際から解放した眞虚は、しかし貼り付いたような笑顔のままこう言った。

「あのね水祢くん。日曜日、ちょっと付き合ってもらってもいいかな?」

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