怪事捜話
第一談・非常日常トロイメライ③

 ――そもそもの始まりは、数時間前に遡る。


「階段でさ、出るらしいよ」
 時は昼休み。丁度乙瓜や魔鬼が昼の見回りに出ている頃。一年一組の教室の隅で、岩塚柚葉は鼻息を荒くしながらそう言った。
 彼女はこの春から北中に通う新一年生で、所属クラスは一年三組。だのに一組の教室に居るのは、偏に彼女の小学生来の友人が一組所属であるからに他ならない。
 古虎渓ここけい明菜あきな。柚葉と同じ新一年生。
 昔から少々人見知りで引っ込み思案な気がある明菜は、特別な用事でもない限り自分のホームルーム外には立ち寄ろうとしない。そんなわけで、こうして柚葉の方から明菜を訪ねているというわけだ。
「出るって、……何が?」
 興奮気味の柚葉に対し、さして興味なさそうに返す明菜。そんな明菜の態度など全く気にならないと言った風に、柚葉は嬉々とした声で答えた。
「てけてけ!」

 ――てけてけ。都市伝説の一種として名を馳せ、後に学校の怪談にも迎合された怪異の名。興味を持たない者からすれば「全く知らない」か「どこかで聞いたことあるような気はする」程度の存在であるが、オカルトやホラー愛好家にとっては常識レベルの知名度を持つ。
 そんな怪異の名前を興奮気味に持ち出した柚葉は紛れもなく後者であり、自他ともに認めるオカルトマニアである。……と言われると、柚葉本人は「厳密にはサブカルオタクで、オカルトは数ある趣味の内の一つ」と弁明するが、結局の所オカルトに並々ならぬ興味関心を持っていることは間違いない。
 何年か前、テレビの夏のホラー特番に感化されて真夜中に家を抜けて家族を震撼させたことに始まり、胡散臭いマニア向け雑誌に載っているUFOの呼び出し方やら呪術や交霊術の類はほとんど試したと豪語する柚葉は、既に歴戦の猛者である。
 その勢いは中学に入っても衰える事無く、つい先日も「トイレの花子さんを呼び出す」と称して新しく出来た趣味仲間と共にトイレのドアを叩きまるなどの奇行を繰り広げていたという。
「知らない先輩にめっちゃ怒られた」と言ってヘラヘラしていた彼女を見て、付き合いの長い明菜すら、このまま交友関係を続けていいものか悩んだという、筋金入りのこまったちゃんなのだ。
 そんな柚葉が懲りずに持ち出した怪異の名前を耳にすると同時、明菜は深い溜息を吐いた。
 てけてけがどんなものだかは、明菜も知っている。明菜は柚葉のようなマニアではないが、昔から柚葉の話に付き合っていた為、有名所の怪談の中身くらいは一応把握している。
 その昔列車に撥ねられて下半身を失った女の幽霊で、話を聞いた者のところに現れる。足は無いのだが二本の腕だけで素早く動き、逃げ切ることは難しい……と言った話だ。この話を初めて聞かされてから暫くの間、布団を頭から被らないと眠れなくなったのを、明菜は今でも覚えている。
「てけてけって……あの・・?」
「そ! その・・てけてけ」
 思い出して少し嫌そうな顔をする明菜に、柚葉はニコリとして頷いた。
「ここのてけてけは階段でちょっと特殊な方法を試すと呼び出せるんだって、アタシの兄ちゃんが言ってた!」
「へぇ……。で、その方法は分かったの?」
「それがねー。まだわっかんないんだねー。今ンとこお手上げかなー」
 柚葉は本当に両手を上に挙げつつ頬を膨らませた。
「ふーん」
 明菜は気のない返事を返しつつ、内心で安堵していた。比較的人の少ないトイレの時ですら怒られているというのに、階段なんて誰もが通る場所で迷惑行為をはたらくのは危険すぎる。教師陣に目を点けられるのは勿論、怖い先輩に「生意気」だと思われたりしたら――。……正直、この困った友人は一度痛い目に逢うべきだと思うものの、そんなフェードアウトは見たくないし、友人としても後味が悪い。
 少々の欠点に目を瞑れば、柚葉も悪い子ではないのだ。その昔、男子にからかわれてべそをかいていた明菜を庇ってくれたのも他ならぬ柚葉だし、怖い犬を追い払ってくれたり、熱を出して学校を休んだ日に家の方向が全く違うのにも関わらず見舞いに来てくれたりもした。それに柚葉は怖い話だけではなく、面白い話題も沢山もたらしてくれた。だからこそ明菜と柚葉は友人であり、故に明菜は柚葉の事が心配なのだ。
 柚葉は階段でてけてけを呼び出す方法を知らない。彼女の性分を知る明菜は、柚葉が実は慎重派であり、詳細が分からない事はあまり試したがらない事を知っていた。柚葉は雰囲気だけの廃墟には絶対に行かないし、実行することで何が起こるかわからない噂や、終わり方が不明な交霊術だけは絶対に試さない。だからこそ明菜は安堵し、同時に願っていた。
 ――どうか、ずっと方法が見つかりませんように、と。

 そんな明菜の心中を知ってか知らずか、柚葉は急にケロッとした顔になって言った。
「そう言えば明菜、アレ知ってる? 美術部の噂」
「美術部の?」
 いきなり変わった話題にキョトンとする明菜に視線を合わせ、柚葉は続けた。
「これ、昨日アタシが吹部の先輩から聞いた話なんだけどね。……なんか美術部の先輩はスゴイらしーのさ」
「スゴイ?」
「うんうん。なんでもね、」
 柚葉はそこまで言うと、急に周囲を気にしたようにきょろきょろと辺りを見回すと口元に手を立て、秘め事を打ち明けるように囁いた。
「学校にお化けが出てきても、美術部の先輩が退治しちゃうんだって」
「ええっ……?」
 ――学校にお化けが出ても、美術部が退治する。その発言をどう受け止めたらいいかわからず、明菜は顔をしかめつつ柚葉の顔を凝視する。だが、まじまじと見た柚葉の顔は真剣そのもので、とてもからかっているようには見えない。
 その表情を少しも崩さないまま、柚葉は再び口を開く。
「去年さ、うちらの小学校で北中の色んな噂が立ったじゃん。それでアタシ気になって、部活見学がてら色んな先輩にそれとなーく聞いてみたのよ。噂の真相、つーのかな? まあそんなカンジのを。したら、みんな言うワケさ。大体は美術部の仕業とか、美術部と居て酷い目にあったとか、美術部に助けられたとか。出てくる出てくる美術部の噂……!」
「……ちょっとタンマ。それマジで言ってるの?」
「マジだよ? ……アタシが嘘吐いたことがあるかいね」
 狼狽する明菜に、柚葉はケロリとした様子で行った。「まあ、肝心の美術部にはまだ見学行ってないんだけどねー」と肩の力を抜いたように言う柚葉とは対照的に、明菜は顔を引きつらせていた。それには理由があった。
 古虎渓明菜は運動が苦手だった。それは運動音痴だからというわけではない。走るのは得意だし体力も人並みで申し分ないのだが、どうにも苦手なのだ。――球技が。
 ここ古霊北中学校には運動部は数あれど、バレー、バスケ、卓球、テニス、野球、サッカーと、見事に球技揃い。陸上部や水泳部のようなボールの要らない運動部が見事に抜け落ちている。その事実は入学したての明菜を大いに失望させた。
 明菜は走るのにも泳ぐのにも自信があり、小学時代からそれ相応の記録を残してきたが、唯一球技の成績だけは悲惨そのものだった。投げれば明後日の方向に飛んでいき、蹴れば転び、ラケットを振れば空振りの連続。必ずと言っていいほど何かしらのアクシデントが起こるので、同じ小学校の出身者達には「おまえはボールに触るな」と言われる始末。明菜本人はそんなこともあってか球技が苦手になり、特に必要に迫られた時以外は触りたくないのであった。
 そんな事もあり悩んだ末。明菜は美術部に入部することを決めていた。消去法という後ろ暗い選択だが、何かをやらかして先輩の機嫌を損ねるよりよっぽどマシだと思っていた。幸い絵を描くことは嫌いではなかったし、昨日一昨日と覗いてみた部の雰囲気も穏やかだったのも後押しとなり、内心では殆ど決定事項だった。……というのに。ここに来て美術部の噂、である。しかもとんでもなく怪しい感じの。
「お化けを退治ってどういう事だろ……?」
「さあ? アタシゃ知らんよ。もしかしたら凄くおっかない先輩がいるとか、武闘派だとか、そゆことの比喩なのかもね。だけど、この学校にお化けが出るって話に何かしら絡んでることは間違いなさげだよん」
「幽霊……ねぇ。そんなの単なる噂でしょ。ていうかなんでそんな事私に言うのさ……」
「だぁって、明菜は美術部に入りたがってたじゃんよ。……あ。てか、そーそう明菜。部活見学で美術部見たんでしょ? どんな感じだった? おせーてよぅ!」
 急激に目を輝かせた柚葉に呆れ、明菜は深く溜息を吐いた。
「別に、フツーだったよ」
「なあんだ、つまらんのぅ」
 柚葉が口を尖らせると同時に、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
「ちぇっ、もう終わりかよ。まいっか、じゃーねー明菜。また来るよん」
「うん、またね……」
 明菜の返事を待たず、柚葉は風のように教室を飛び出して行った。廊下の向こうへ消えてゆく姿を見送りながら、明菜ははぁと溜息を吐いた。

 クラスが違うから当然と言えば当然だが、昔に比べて柚葉と話をする機会が減ったようだと明菜は思う。今日のように昼休みに会話するのも実は久しぶりで、柚葉は新しい趣味仲間と何かしている時間が多くなった一方で、明菜は一人で過ごしている時間の方が多くなった。
 一応友人らしきものはいるのだが、まだ柚葉を相手にするように腹を割って話すことは出来ていない。その上引っ込み思案な性格が災いして、その友人が別の友人と楽しそうに談笑している輪に入っていくことがなかなか出来ないのだった。
 ――今はまだ、時々ではあるが柚葉が来てくれる。だけど、それはいつまで続くだろう。柚葉がクラスの友人と更に親密になったら、いつか自分の事なんて忘れてしまうのではないだろうか。そう思うと、明菜は不安で仕方ない。
(駄目、だよね。このままじゃ。私が柚葉に依存しすぎだ。そろそろしなきゃ、柚葉離れ。……クラスのみんなとも仲良くしなきゃ)

 このまま一人ぼっちにならないための居場所を。――古虎渓明菜はさがしていた。

 憂鬱な気分のままで明菜が迎えた放課後、部活見学の最終日。
 妙な噂を聞きつつも懲りずに訪れた美術部は、やはり普通の部活動にしか見えず。エアブラシの使い方を実演しつつ教えてくれた先輩などは気さくで優しそうだし、特別な事はせず普段通りに活動しているだろう先輩達も至ってまともな雰囲気だ。
(やっぱり普通だよ。何もヘンなところは無いし、やっぱりここで良かったんだ)
 改めて明菜は思った。途中で先輩の会話に変な単語が聞こえたような気がしたが、それは敢えて聞かなかったことにした。

 そんなこんなであっという間に一時間。最後の部活見学の時間も終わり、先輩に送り出されて美術室を出た後。明菜はそのまま昇降口へは向かわず、一旦三階の自分の教室――一年一組へと足を運んだ。
 理由は単純、忘れ物をしたからである。
 部活見学の最中、明菜は普段制服の内ポケットの中に仕舞っている筈の自転車の鍵が無い事に気付く。一応美術室を出る前に床や荷物を確認したものの鍵はなく。しかし帰りのHRホームルーム時には鍵を触った記憶がある。ということは、鍵は自分の教室と美術室の間のどこかにあると考えるのが妥当である。
 そんなわけでたどり着いた一年一組教室には、人気ひとけはないものの数人の荷物が置きっぱなしになっており、幸い施錠はされていないようだった。
 明菜はそっと扉を開け、自分の机へと向かう。そして机の内側に手を入れると、鍵はすんなりと見つかった。単純に持ち忘れただけのようだ。よかったと、明菜は安どの溜息を漏らす。
 鍵を手に改めて教室を出、明菜は今度こそ昇降口へと向かう。早足で降りていく階段の窓からは橙色の西日が差し、明菜の黒い影をくっきりと浮かび上がらせた。
 人気ひとけのない校舎、普段より大きく伸びる影、普段より大きく響く足音。西日に浮かび上がる外の木々の揺らめき。
(何だか怖いな)
 明菜は思った。そう思った瞬間に限って、タイミング悪く柚葉の言葉を思い出す。

 ――階段でさ、出るらしいよ。

(ああ嫌だ嫌だ、何でこんな時に限ってその話思い出すんだよう)
 明菜は頭の中に浮かんだ言葉を振り払うように頭を振りながら、恐怖を掻き立てるものを何も見ないように目を閉じた・・・・・
 二階から一階に下る階段の、踊場から下の十二段を。目を閉じながら手すり伝いに降りて行った。
 それは本当に偶然だった。彼女は知らなかった。知るはずもなかった。

 放課後、二階と一階を繋ぐ階段で。踊場から目を瞑って階段を降り切る事。それが、この学校に於いて何を意味しているのかなんて。

 だがもう遅い。何も知らずにそれを実行してしまった明菜は、ふぅと息を吐いたところでやっとそれに気づく。
 じゃらりじゃらりと固い音。まるで鎖を引き摺るような金属音。それに伴って、ぺたりぺたりと何かの音。素足で廊下を歩くような幽かな音。
 その音が、たった今降りてきた階上から降りてくる事に。
「えっ……?」
 明菜は振り返った。迷いもせず振り返った。知らなかったからこそ振り向けたとも言える。――そして見た。
 髪の長い女が。這いつくばる姿勢で階段を下りて来ているのを。そして彼女は、既に明菜の真後ろまで迫って来ているのを。
 一瞬何が何だか分からずにぽかんとする明菜と、その女の目が合った。女はにこりと笑った。よく見ると彼女の首には飼い犬のような首輪が付けられており、鎖が繋がれている。じゃらじゃらという音の発生源はどうやらそこらしい。
 妙に納得した明菜は、しかしすぐに気付く。女の土気色の肌に。爪の剥がれかけた手に。生気の無い瞳に。そして何より、彼女には――下半身が無かった。
 見るのに一秒、全体を把握するのに二秒。その間に下半身の無い女は明菜に追いつき、彼女の足首にぺたりと触れた。その手は氷のように冷たくて。明菜はやっと完全に理解すると同時に悲鳴を上げる。
「きゃぁあぁぁぁああああぁああぁぁあぁぁああああああぁあああああッ!」
 絶叫。自分でもこんな声が出るのかと信じられないくらいの声を上げて、明菜はその場から逃げ出した。目の前が既に昇降口だというのに、気が動転していたのか、何故か美術室目がけて走り出す。
 少し遅れて、ぺたぺたぺたと音が追いかけてくる。今度はとても振り返る気にはなれなかった。振り向いたら手だけで追ってきているそれを見てしまう気がしたからだ。
 ――てけてけ。明菜は確信する。あれはてけてけだと。
 柚葉が言っていたてけてけを呼び出す方法を、自分は無意識のうちに実行してしまったのだと。
(どうして、どうして私なの……ッ)
 自分がしでかしたであろう「何か」を後悔しつつ、明菜は全力で廊下を疾走する。そして自分にてけてけの話をした柚葉を心底恨んだ。
(昔は「話」を聞いたって全然出てこなかったくせにッ、今更になって本当に出てこないでよッ! 行くなら柚葉の所に行ってよッ!)
 そんな事を考えながら必死に走る内、明菜はとある違和感に気付く。否、気付かざるを得なかった。
 昇降口と美術室の間は、実際それほど離れていない。昇降口からすぐにある廊下の突き当たりをL字型に曲がれば、あっという間に美術室だ。
 だというのに、明菜が全力疾走する廊下はおそろしく・・・・・長い。果ては見えるのだが、走れども走れどもそこに到達しない。それは明らかに不自然な事だった。
「どうして……なんでッ……!?」
 泣きそうな声で叫ぶ明菜に答えを返してくれる者は誰も居ない。その間にも背後の気配は容赦なく明菜を追い続けており、明菜にはもう逃げ続ける以外の選択肢が無くなってしまった。
 しかし、それもいつまでも続くようなものではない。人間には必ず限界がある。明菜が如何に足に自信があろうとも、体力は確実に減っていく。
(てけてけに捕まったらどうなるんだっけ。死んじゃうんだっけ? 仲間にされちゃうんだっけ?)
 明菜の涙腺は既に決壊していた。頭には嫌な想像ばかりが浮かび、今ならいつでも発狂できると、まるで他人事のように考え始めていた。
 呼応するように肉体にも限界が近づき始める。終わらない廊下を何千メートルも疾走し続けた足はもつれ、いつ転んでも不思議はない。
「も……ヤダ、もうだめ……。逃げられないよ……!」
 ついに明菜が諦めようとした、その瞬間。

『こっち』

 不意に誰かの声が聞こえた。それと同時に、あんなに遠かった廊下の果てが一瞬にして近づいた。すぐそこには美術室へ向かう曲がり角が見える。
(曲がるしかない……!)
 明菜は即決した。例えその先が行き止まりでも、美術室には美術部員が居る。
 ――学校にお化けが出てきても、美術部の先輩が退治しちゃうんだって。昼間の柚葉の言葉が蘇る。
(どうか、その噂が本当なら……!)
 僅かな希望を頼りに、明菜は勢いよく角を曲がる。
 その、曲がった先で。
 明菜は一人の女生徒と目があった、後。

 盛大に衝突した。

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