怪事廻話
第八環・嵐の前②

 中学最後の夏休みまであと二週間となった七月最初の土曜日の午後。黒梅魔鬼の姿は烏貝乙瓜の自室にあり、つまるところ当然乙瓜も一緒だった。
 散らかした漫画本やらを急いでどけたような床の上には折り畳み机が置かれ、その上にはそれぞれの受験対策ワークブックが広がっている。そこから溢れた床の上には県内高校ガイドの厚い本が、特に二人が意図したわけでもないページを開きながら、扇風機の風に揺られていた。
 受験勉強に本腰を入れ始めた、真面目な中学三年生の姿がそこにあった。
 ――とはいえ、世界の危機をすっかり忘れてしまったわけではない。
 強敵である数学ワーク32ページ【問三】を解く手を一旦止め、魔鬼は机横の麦茶のに手を伸ばす。
 ぬるくなってきた液体を咽喉のどの奥へと流し込みつつ目を向けた壁時計は、そろそろ午後2時を指そうとしていた。
「そろそろ様子見に行かない?」
 魔鬼がそう呟くと、その向かいでカリカリと音を刻んでいた乙瓜のペンが動きを止めた。
 ずっとワークブックとノートの間を行き来していた視線を上げ、魔鬼同様に時計を確認した乙瓜は「ああ」と頷くと、「そろそろ一回様子見に行くか」と立ち上がり、ワークブックのページの角を三角に折った。

 勉強を一時中断した二人は烏貝家を出て、そう離れていない場所にある小さな神社まで自転車を漕いだ。
 魔鬼の勉強道具などは乙瓜の部屋に置きっぱなしだったが、烏貝家の家族には「ちょっと外で目を休めて来る」と言ってきたので特に心配されることはないだろう。
 近くの自販機で缶ジュースを適当に三本落としてから、乙瓜と魔鬼は拝殿に向かい、小さな声でこう唱えた。
「「願いましては四の五の二つ、の道の道開け給え」」
 唱え、二度礼をし、体をくるりと後ろに向ける。やったことといえばそれくらいだが、たったそれだけで彼女らは現世うつしよから妖界へと飛んだ。
 黄昏時のような斜陽の橙と迫る闇夜の紫紺が、天の頂で線を引いたように二分する、明らかな違和感のある世界。そこは【灯火】が妖界内に意図的に作り出した一時領域と抜け道からなる空間であり、丁丙の言うところの『灯火スポット』の正体だった。
『灯火スポット』の抜け道は【灯火】と同盟または協力関係にある妖怪や神の領域へと通じており、当然古霊三大神社の神域にもつながっている。
 つまりここに入る方法さえ知っていれば、斬子や異などの神社関係者を経由しなくとも神域に立ち入ることができる、というわけだ。
 乙瓜や魔鬼をはじめ元・美術部六人がこの場所への入り方を知ったのは約一ヶ月前、深世が封印領域から二つの退魔宝具を持ち帰った後のことだった。
 その方法があまりにあっさりとしたものなので、当然六人の間からも「大丈夫なのか」という疑問が上がった。敵方に利用されやしないのかと。
 けれど丙曰く灯火スポットそのものは現世の市街でいうところの私有地や道路のようなもので、そこに隣接する家に気軽に入れるかどうかはまた別の問題らしい。
「鍵かかった他人の家には簡単に入れんし、ましてや門も塀も在る上に厳重に警備された豪邸なんぞ猶更なおさらだろ。この間【月】の連中が神域に侵入できたのは、家主が立て込んでる隙に塀の隙間を少しずつ削り広げて、ようやく入って来たみたいなもんだ。そういう特殊な例に合せて道を通行止めにしろなんて無茶苦茶だろう?」
 だから道を無くすんじゃなくて、泥棒に入られない対策をするのさ。そう丙が語るので、皆成程一理あると納得した。泥棒に合せていてはとても暮らせない。
 というわけで、以来元・美術部はちょくちょくこの抜け道を利用している。
 すっかり慣れた異空間を行き、乙瓜と魔鬼は目的の地点へと辿り着いた。
 ゴールデンウィーク以来すっかり定番となっている、神逆神社の神域島前。門番とばかりに立つ薄雪媛神の眷属に勾玉を示し、無事神域内に迎え入れられた二人を待っていたのは白い妖海と同じ色の砂利浜、砂利浜の上に腰を落とす遊嬉、杏虎、そして深世の姿だった。
「おーいおつかれー。なんかジュース買ってきたよ」
 そう声を張り上げる魔鬼に気付いて、三人はそれぞれ魔鬼らを見、遊嬉が「おーい」と手を振った。
「あっち何時よ?」
「もう2時くらい。ほい」
 訊ねる杏虎にそう答え、魔鬼は手持ちの缶ジュースを杏虎へと手渡した。
 次いで遊嬉に、最後に深世へと渡し終わると、魔鬼は漸く自由になった両腕を伸ばすように軽く振る。
 三人は各々感謝の意を示しながら缶ジュースを受け取り、それぞれタブを起こして飲み始めた。
 ごく、ごく、ごくと。遊嬉が三度ほど咽喉を動かして缶から口を放した時、見計らっていたかのように乙瓜が口を開いた。
「変わったことはなかったか?」
「うんにゃ、特には」
 遊嬉は答え、それから乙瓜と魔鬼に向き直って言葉を続けた。
「ああでも、一時間くらい前――だから現世だと何分くらい前なのかな。七瓜が来たよ。ちょっと相手になってくれた・・・・・・・・・。そっちには来なかった?」
「いいや。もしかしたらすれ違いかも知れない」
「そう」
 遊嬉は微笑んで、残りのジュースを一気飲みするように缶大きく傾け、顔を天に向けた。缶を持っていない方の手は、当然の如く腰に当てられている。完全に風呂上がりのおじさんスタイルだった。
 そんな遊嬉の姿を見て、比較的お上品にジュースを飲んでいた杏虎が言う。
「遊嬉お前あんまりがっつくとお腹壊すよ。だいたいさっきアイス食ったばっかじゃん」と。
 そんなことを言うものだから、当然魔鬼も乙瓜も意外に思う。
「なに、アイスなんて食べたの? いいなー」
 魔鬼は羨ましそうな顔で杏虎を見た。乙瓜の家で麦茶は飲んだ彼女だが、アイスにはまだお目にかかれていない。そのアイスの出てこない家の者である乙瓜もちょっぴり不服そうだ。
「こっちずっと麦茶だけでやってたんですけどーーー!?」
「いやそんなの知らないし言いがかりっしょ。こっちずっと神域で……、なに、あたしらこれから帰るけど今から代わる?」
「……代わんない。帰る。アイス食べたい」
「ならもうないから諦めな」
 けらけらと笑う杏虎と、納得いかないとぷりぷりする魔鬼。その傍らで乙瓜は深世に囁き尋ねる。
「アイスって誰が?」
「七瓜」
 ああ、と乙瓜は頷いた。それから普通の声の大きさで「あいつなんか言ってなかったか?」と続けた。
「なんかとは? そりゃなにかは言ってたけどジャンルは?」
「ジャンルっておまえ……、いや、俺のこととか?」
「別に」
 深世はあっさりとそう答えて、残りわずかとなっていたジュースを啜った。その様を見て、乙瓜は小さく溜息を吐いた。
「別にって……、まあそうか」
「なにか言われたかったのかよ」
「…………別に」
「はっきりしねぇ奴だなお前も」
 ド直球に言いきって、それから深世はこう続けた。
「ていうか曲がりなりにも姉妹なんだからそういうことは直接話しなよ。他人の私に聞くようなことじゃないでしょ」
「……。そうだな」
 深世の出した当たり前と言えば当たり前の意見を受けて、乙瓜は一瞬ぽかんとし、それからクスリと微笑んだ。
 と、そんな乙瓜と深世の間に第三者の頭がヌッと割って入った。
「なにをなんだかそれっぽい遣り取りしてんのさ。ゴミ持って帰るよ」
 遊嬉だった。気付けば、杏虎も魔鬼ももうじゃれあって・・・・・おらず、空き缶と、そして乙瓜には見覚えのないアイスのカップを持ってこの場を撤収しようとしている。
「今日はもう撤収。帰って寝る。ああいや、帰ってゲームして寝る! これだ!」
「はいはい」
「……いや、勉強もしろよ」
 ガシッと肩を掴む遊嬉に乙瓜、深世がそれぞれ答え、五人は神域の砂利浜から歩き出した。

 白い妖海に立てられた、穴の開いた幾多の的に背を背けて。

 誰も言及しなくなって久しいが、『灯火スポット』に入れるようになって以来、こうして神域まで来て自主練習を重ねるのもすっかり彼女らの日常だった。
 
「あたしあっちの方から入ったから」
「私は向こう」
「俺らはそっちから」
 各々別れ、入って来た場所から現世に抜け出す。現世と妖界・神域では時間経過が違うので、戻り付いても大した時間は経っていない。
 あるとき遂に気になった深世が「あちらに居た分他の同級生より老けたりしないだろうか」ということを薄雪に訊ねたが、領域の主となるものに許されて出入りしている場合は大した影響はないらしい。一方で、引きずり込まれたり主の知れぬ場所に無断で立ち入った場合はどうなるかわからないとも言われ、皆一斉に乙瓜を見たりもしたが……まあ今のところ何もないという結果だけを受け取って深く考えないようにすることにした。そんなものだ。
 それはそうとして。
 乙瓜と魔鬼が元来た神社の横に停めてあった自転車に跨ろうとしたとき、乙瓜はそのカゴの中に見慣れないものをみつけた。
 それは中身を隠すように口の折られた紙袋だった。
 乙瓜はなんだろうと思って、それでも明らかに元はなかったものである手前、爆弾かもしれないなんて思いながら、恐る恐るその口を広げる。一方魔鬼は怖じる様子もなく、「なにそれ」と乙瓜のカゴの中を覗き込んだ。
「わからん。けど――あっ」
 ゆっくりと口を開き、乙瓜は驚きの声を上げた。恐らくはその中身に対して。けれどもそれを魔鬼に示すより早く、自転車に跨って「帰るぞ早く」と魔鬼を促した。
「なんでなんで!? 中身なに!?」
 左右確認もそこそこに、もとより車通りなんて一時間に十台通るかといった田舎道を走り出した乙瓜に遅れ、魔鬼も慌てて自転車を漕ぎ出した。

 乙瓜はけっして意地悪をしたわけではないのだ。
 その日は大した天気でないとはいえ、気温もまだ真夏には程遠いとはいえ。二十五度を超える常温の中にずっと放置しておくには惜しいものが、紙袋の中にはあったのだから。
 それを見た瞬間、乙瓜にはそれをカゴに入れたのが誰であるのかすぐにわかった。そしてそんなことは知らなくとも、魔鬼もすぐに中身を知ることになるだろう。
 どうせ、烏貝家は自転車で飛ばせばあっという間の距離なのだから。

 ――と、慌ただしく二台の自転車を拝殿の影から見送って、一人の少女が日傘を広げた。
 天気は生憎の曇り、辛うじて雨の気配はないものの、強い日差しは感じられない空の下。それでも日傘を広げるのは視えざる紫外線を気にしてのことではなく、もはや要不要を問わず身に沁みついた習慣からだった。
 烏貝七瓜。烏貝乙瓜の姉。そしてわざわざ言うまでのことでもないが、乙瓜の自転車のカゴに紙袋を入れた犯人。
 彼女は乙瓜と魔鬼の自転車が見えなくなったのを確認すると、日傘をくるりと回して呟いた。
「この平穏がいつまでも続けばいいのにね」
 いいのにね、いや、そうなってほしい。七瓜は内心願うが、けれどもそれは叶わぬ祈りだと知っていた。
【月喰の影】は必ず仕掛けて来る。七月作戦は遠くない。

 ――誕生祭・・・の四日でなければ二十二日で間違いない。

 そう断じたの言葉を思い出し、七瓜は天を仰ぎ見た。

 物語は一度、三週間ほど前にさかのぼる――

HOME